離婚編 09
「……」
玄関の扉に手を伸ばしたが、すんでのところで止まる。
怒られるのが怖いのだろう。
俺は思い、梨緒の背中をぽんと、少し押してやった。
言葉は何もいらない。
梨緒が振り返り、俺を丸い瞳で見る。
その中に不安が垣間見えるから、微笑んでやる。
すると梨緒も、ぎこちなくも微笑み返してくれた。
「……ただいま」
扉をあけ、自分の家に帰っていく。
俺もそれについていった。
すると、どたどたとこの雰囲気には似つかわしくない足音が騒がしく聞こえてきた。
この音の主は、すぐに分かるけど。
「梨緒! 一体どこに行ってたんだぁ!」
いつものあの元気さで、大げさに心配して出迎えてくれる梨緒の兄。
啓悟は梨緒に抱きついて、梨緒の無事を確認する。
いつもなら嫌がるか照れるかして身をよじる梨緒も、今日は何もせずにそれを見ているだけだった。
それから啓悟は梨緒の後ろに突っ立っている俺を見、
「なあんだ、竹都と一緒だったのか。じゃ、別に心配する事も無かったな」
と、梨緒から離れて頭をぽんぽん、と撫でる。
けれど、それは違う。
俺は啓悟の言葉に胸が痛んだ。
啓悟、それは、
「違うよ」
俺が言いそうになったとき、梨緒が先に口を開いた。
啓悟が、目を丸くした。
梨緒のその深刻な声音に、気圧されて。
「……私、竹お兄ちゃんとは、一緒じゃなくて……」
梨緒は啓悟の顔を見ないで言っていた。
だから梨緒は今の啓悟の表情など見れないでいる。
おい、啓悟、なんで、そんな情けない顔してるんだ?
俺はその言葉を、必死で呑みこんだ。
「……ここじゃ寒いから、中に入ろうよ。……竹都も、あがってくれ」
「……おう」
俺は靴を脱ぎ、梨緒の背中を押す。
梨緒は、今度は顔を上げてくれなかった。
のろのろと、梨緒は靴を脱いで家にあがった。
リビングはとても静かだった。
テレビもつけずに、啓悟は梨緒を待っていたのだろう。
出迎える時はいつもの啓悟だと思っていたが、どうやら啓悟も気を張っていたらしい。
この兄妹は、とても似ている。
とても暗い気持ちで、そう思った。
「……それで、話があるんだろ」
啓悟は、とても不安げな顔をして梨緒を促した。
啓悟でも、こんなふうに怯える事があるのか。
「……私、ここしばらく……お父さんと、会っていたの」
非常にゆっくりと、梨緒は告げた。
その時の啓悟の表情は、驚きと、怒りと、それから……
恋しさのような、ものが見てとれた。
その複雑な感情は、いったいどういう経験があるからそうなるのかは、分からなかった。
きっと、この兄妹にしか分からない事だ。
「……なんで」
低い声が、理由を尋ねる。
何かを吐き出してしまいそうになるのをこらえているかのような声音だった。
梨緒はそれに気圧されて、泣きそうな顔をしている。
妹が、怖がっているぞ、啓悟。
心の中で呟いた。
「……生徒会の仕事が無くて、早く帰った時、突然、お、お父さんに話しかけられたの……その時は、お父さんだとは思わなくて……でも、お母さんの、へ、部屋の机の中に……っ。写真が、あって、それで」
必死に、今までの経緯を説明する梨緒。
今、梨緒は自分を責めているのだろう。
こんなに、自分を心配してくれる兄を、騙していたと、責めている。
「それで、頻繁に会ってるのか……?」
「……毎日、お父さんが、迎えに来てくれるの」
「……っ」
その言葉に、反射的に啓悟が顔を上げて何かを言おうと口を開いた。
けれど、梨緒がとっさに肩を上げて自分を庇うようにした。
その様子に、啓悟は何も言えなくなった。
その時はじめて気付いたのだ。
梨緒が、ひどく自分を恐れている事に。
我に返った啓悟は、何も言わずに静かに口を閉じた。
梨緒も、何も言えずにいる。
長い沈黙が、リビングを漂う。
俺は、そんな二人を黙って見つめていた。
啓悟はひどく怒っているようだった。
きっと、さっき言おうとしたのは、何か、梨緒を叱る言葉だったのだろう。
そう思っていたら突然、梨緒がせきを切ったように喋りだした。
「お父さんは、しばらくしたら帰るって言っていたの。だから、せめて少しの時間だけって、私が頼んだの! 私、ずっとお父さんに会いたくて……! だから、お父さんは」
「あいつを父親だなんて呼ぶな!!」
啓悟の怒号で、それは掻き消された。
リビングの中の空気が、落雷のあとのように震えている。
こんな啓悟は、見たことが無かった。こんなにも怯えて、怒っている啓悟を見たことが無かった。
そして梨緒は、ショックを受けたように絶句している。
立ち上がり、肩をいからせた啓悟は歯をくいしばって怒りを抑えているようだ。
「……もう二度と、あいつと会うな。あいつは、オレたちを捨てたやつなんだ……!」
地が震えるような声をしていた。
相手が梨緒だということを、忘れているような。
……いや、梨緒だからこそ、こんなことをいうのだろう。
「な、何言ってるの……? 確かに、あの時はすごく悲しかったよ。お父さんのこと、嫌いになりそうになった。だけど、やっぱり家族は、家族でしょ……?」
俺は、とっさに梨緒を見た。
とても驚いた表情で、梨緒をみた。
だって梨緒は、普段の梨緒なら……そのまま静かに、うん、と頷くはずだ。
さきほどの、あの窓を眺めた彼女のように。
けれど梨緒は、父親の面影を捨てられずにいた。
窓を眺めた、闇を見ていた梨緒からの恐怖は、これだったのだ。
梨緒は、心の中ではまだ、父親を追いかけている。
「お兄ちゃんだって、また四人で暮らせるってなったら、嬉しいでしょ。お母さんだって、きっと――」
「そんなもの! 叶う訳無いだろ!!」
「叶うよ! わ、私頑張るから! お父さんを説得して、お父さんに、一緒に暮らそうって、言うから……だから……っ」
「先に捨てたのはあいつのほうなんだよ! オレたちは捨てられたんだ! もう、元に戻ることはない!」
梨緒は、まだ希望を捨てずにいた。
とても脆い、希望だ。
「いいか、あの時、捨てられた時、どれだけ母さんが苦しかったか、お前は分かるか!? 母さんが、どれだけ苦労してオレたちを育ててきたか、お前には分かるのかよ!? あいつには、分かるのかよ!!」
「分かるよ! お母さん泣くのも我慢してやってきたの知ってるもん! だからもう一度ちゃんと笑えるように、離婚する前に戻ればいいでしょ!」
「……っ、お前がそんなに馬鹿だったとは思わなかった!!」
「……」
梨緒は、口をつぐんだ。
啓悟ははっとして、梨緒を見つめた。
梨緒は、何を言われたのか分からないような表情をしていた。ただ、何か虚空を見つめるような。
「……お前とは、話に……ならない」
けれど啓悟は弁解する事もなく、さらに残酷な言葉を梨緒に浴びせた。
梨緒は、やがてついには、涙を流した。
啓悟は俯いていて表情が分からない。それでも、傷ついている事は分かる。
今の梨緒と同じくらい、傷ついている。
「……私だって、お兄ちゃんがそんな人だとは思わなかった」
ぽつりと呟いて、梨緒は足早にリビングから出ていった。
残された啓悟は、梨緒の部屋が閉まった音が聞こえると、うずくまって顔を腕にうずめた。
寂しげな沈黙が、ただひたすらに痛かった。