離婚編 08
電話がかかってきたのは、日がすっかり暮れたときだ。
だいたいの生徒会役員も帰宅し、生徒会室もパソコンのキーボードの音や、紙の擦れる音、ペンを走らせる音しか聞こえてこない。 そこに、バイブ音が割って入る。
静けさの中、自分の携帯が震えたので少し驚き、慌ててブレザーから携帯を取り出す。
携帯の表示は知らない電話番号だった。
一体誰だろうか。
こういう場合、大体は間違い電話なのだが、無視するわけもなく、携帯を開いて耳に当てる。
「はい、もしもし」
『あ、竹都くん?』
「……遠野さん?」
携帯からは遠野さんの、強く鋭い声が聞こえてきた。
間違い電話よりも驚きの人物に、目を丸くする。
『ちょっと、迎えに来てほしいんだけど』
言いづらそうに、遠野さんは頼んできた。
迎えに、って、どうして?
率直な疑問が浮かぶ。遠野さんに何かあったのだろうか。いや、遠野さんに何かあっても、彼女なら自分でなんとかできるはずだ。そうでなければ、松川を頼るはず。
なのに何故、俺なんだ?
「迎えに、って、どうかしたんですか?」
『うーん、梨緒ちゃんを今保護してるんだけどね』
「梨緒を?」
遠野さんの口からは意外な名前が出た。
『そ、梨緒ちゃん。知らないおじさんが話しかけてたところを見つけてね。あ、知らないって言ってもアタシがね』
遠野さんは普段よりずっと静かな声で話していた。
知らない、おじさん。
それは……
その時の俺には検討がつかなかった。
何も、よぎるものもなく。
『時間も時間だから怖いなあって。だから助けてあげたわけ』
部屋の短針は八を差す。
梨緒はこんな寒い中、何をしていたんだ?
『で、近くのファミリーレストランで梨緒ちゃんに尋問してるんだけど……あのおじさんとは知り合い、以外は何も話さないのよ』
いちいち不安を仰ぐ単語を使ってくる遠野さん。
遠野さんが見つけるということは、遠野さんの学校の近くと考えて良いだろう。遠野さんの学校は梨緒の家からもそう遠くはない。
「あの、遠野さん……一つお願いしても良いですか」
『……何かはなんとなく察しがつくけれど……なに?』
明らかに怒りを含んだ問いかけだった。
一瞬気圧されそうになるが、踏み止まる。
今梨緒に何が起こっているのかは分からない。でも、俺が傍にいてやる方が良いことは分かる。
そうは思う。だけど、手元には現実的な、問題が置いてあるのだ。
生徒会の仕事と、梨緒を天秤にかけているわけではない。ただ、これはタイミングというか……
『……分かったわ』
不本意そうな声で、それでも遠野さんは了承してくれた。
『アタシはどっかのお人好しみたいに余計なことは言わない。薄情な誰かみたいになにもしないわけでもない。アンタがそう決めたなら、アタシはアンタに協力するわ』
遠野さんはそう、厳しく忠告をした。
「……」
俺が、決めたなら……
黙ってしまった。
迷いがあるような、そんな心持ちで。
でも、
「お願いします」
一言、振り絞る。
少しの間のあと、遠野さんはわざとらしく大きく嘆息した。
『ほんと、アンタは最低な男ね』
最後に吐き捨てるように言って、乱暴に電話を切られた。
ぶつり、と電話が切れる音が耳に残っている。少し視線を落として、俺は携帯を閉じた。
「何かあったんですか?」
生徒会の一人が声をかけてきた。
「あ……いや」
周りの人間に迷惑をかけないよう、何でもないふりをした。
その感情がふと、誰かに似ていると思った。
「生徒会長、大丈夫ですか?」
俺の顔色を見て、聞いているのだろうか。
確か俺も、梨緒をこんな風に見ていた。
迷惑じゃなくて、心配で。
梨緒は知っている人と会っていた。それだけで、そんなに深刻なことではないと思っていた。
でも、それが男性で、中年で……
そして、この時期に。
「せ、生徒会長?」
思い至った瞬間、俺は立ち上がった。
そして身の回りを片付けて、目を丸くしている生徒会員に言った。
「ごめん、用事ができたから今すぐ帰る。鍵、よろしく」
はやる気持ちを押さえてなんとか伝え、生徒会室を飛び出すように出た。
向かうは、梨緒のもと。
「……いた」
肩を揺らし、息を切らし、少し静かなその店を眺める。
梨緒の家から、そのファミリーレストランの途中の道で出会うだろうと辿ってきたが、結局はファミリーレストランにまで着いてしまった。
そして店内を見渡せば、奧の窓際に遠野さんが見えた。仕切りで見えないが、手前には梨緒がいるのだろう。
息を整えて近づいていくと、遠野さんが顔を上げた。
目が合い、にやりと笑う遠野さん。
「……」
遠野さんも、お人好しじゃないですか。
言いそうになるのをこらえ、軽く頭を下げる。
「ありがとうございます、遠野さん」
「いーえ。すぐ来てくれたら王子様、っていおうと思ったけど……ほら梨緒ちゃん。保護者様がきたわよ」
梨緒は何も答えなかった。ただ、決まり悪そうに下を向き、顔を合わせない。
「アタシのときからずっとこうなの」
面倒見の良いお姉さんみたいに肩をすくめ、さて、と言いながら席をたつ。
「アタシはこれで。あと支払いよろしく」
「はい……って、え、俺が払うんですか!?」
「当たり前よ。まったくこのアタシに気を遣わせておいて」
「は、はい……感謝してます」
遠野さんの睨みはかなり怖かった。
これを松川は毎回やられているのか……
頭の端で松川に合掌しながら、遠野さんを見送る。
最後に遠野さんは小さく、
手を離さないでね。
と言った。
その言葉は、あの受話器越しの生徒会長と同じ言葉で、生徒会長の弟さんが、ふとよぎった。
手を、離さない……
小さく深呼吸をし、席について、梨緒と向き合う。
梨緒はこちらを見ない。 何から聞けば良いのか分からなかった。
向かっている間は、ただ夢中だったから、考えている暇がなかった。
何を言ったら、今の梨緒を傷付けるとか、分からない。
ただ、梨緒が心配で。
「……心配したんだ」
伝えると言うより、呟いた。
梨緒に合わせる顔もない。
情けないと、今更思い始めた。
遠野さんに言われる前から気付いていたのに。
俺は確かに、手を離していた。
現実的な問題で……生徒会を理由にして、梨緒から逃げていたようなものだ。
梨緒との関係が、不安だったから。
厚かましいと思ったんだ。梨緒と啓悟たちの事情に何か言うのは。だって、あの時俺は黙っていたんだから。
泣き続けた小さな二人を、黙ってみていたんだ。
今更、何か言うとか、そんなこと……できるわけない。
そう、思って……
「心配して……梨緒がいて、良かった」
率直な言葉をおくる。
それでどうなることもない。
ただ、俺が言いたいだけ。
厚かましく、言いたいだけ。
「……」
梨緒が、顔を上げた。
晴れやかな顔ではない。
目を丸くして、申し訳ないように眉を下げて、苦笑していた。
「……ごめんなさい」
大人びて見えた。
普段の、何も知らないようなあどけなさは無く、何かを必死に秘密にした顔。
「竹お兄ちゃん、ごめんなさい」
「……誰に会ってたか、聞いて良いか?」
「……うん」
ぎこちなく頷く。
店内が静かになった気がした。
「お父さんに、会ってたの」
もしかしたらとは思っていたが、聞いた瞬間、どきりとした。
そのあとに渦巻いてくる疑問。
今までそらしていた分、焦りと不安も合わさり、何をいえばいいのかわからなくなる。
ただ、何かを言おうと口を開いているだけだった。
梨緒はそんな俺の様子を見て、ごめんなさい、ともう一度言った。
「ほんの少し前に、帰る途中で、お父さんに話しかけられたの……最初は誰なのか分からなかったけど、ちゃんと、確認したから……うちに、写真があって……それで」
梨緒自身もまだ頭の中で整理ができていないようで、なんとかぽつりぽつりと話しているようだった。
俺は黙って、梨緒の落ち着かない仕草を見ながら頷いていた。
「それからお父さんは、よく私に会いに来てくれるようになったの。最初はただ嬉しかった。本当に、嬉しかったの」
俺の目を見て、必死で訴えてきた。
それも、そうだろう。
だって梨緒は、離婚してもずっとお父さんのことを思っていたんだ。だから、毎年この時期に梨緒は元気がなくなるんだ。
……ずっと、会いたかったんだ。
「だけどね」
俯き、膝の上にのせた手を見て、梨緒は続ける。
「だけど、すぐにそんなこと考えちゃダメだって思ったの。お兄ちゃんは、お父さんのこと嫌いだし、お父さんと会ってるなんて、きっと、悪いことなんだ、って、知って……だけど、お別れもしたくなくて……」
泣きそうな声をしていた。
泣いているのかもしれなかった。
俺は、うん、と頷いた。
もう一度、離れることはできない。
離れたら、また、あの時と同じくらい泣くのだろうか。
「……」
俺は何も答えなかった。
梨緒の話を聞いてあげることが、精一杯だった。
きっと、今俺が何かいえば、梨緒は必ずそれに賛同する。それではだめなんだ。
梨緒が、決めなきゃ、
「……私、もうお父さんには会わない」
しばらくして、梨緒は言った。
はっとして梨緒を見ると、梨緒は静かに窓の外を見ていた。
真っ暗になった外。
車や、信号の光が、見える。
穏やかな表情をした梨緒が、少し怖いと思った。
さっきまで、あんなに不安そうで、自分を責めていたのに。
「もうお父さんには会わないから……迷惑かけてごめんなさい。もう、会わない……お兄ちゃんにも、今までのこと話す」
「……あぁ」
少し戸惑いながら、俺はしっかりと頷いた。
梨緒は決まり悪そうに眉を下げた。
それでもまだ、不安なのだろう。
「ちゃんと、梨緒を家に送り届けるよ。それと、啓悟に言うのも、俺も一緒に言う」
手を離さない。
心に刻んで、俺はそれを表明するように、梨緒に言った。
「……うん」
梨緒は照れたようにはにかみ笑った。
久しぶりに、梨緒の笑顔を見た気がした。
俺も微笑んだ。
けれど、どうしてだろう。
安心もしたけれど……
何か、また、不安が大きくなったような気がした。
梨緒の隣にある窓からは、暗闇ばかりが覗いている。
それが、怖かった。
「じゃあ、行こうか。ほんとに、ごめんね。生徒会の仕事もあったのに……」
梨緒は立ち上がりながら、いつもの様子で謝ってきた。
普段の元気を取り戻したようで、先程の一抹の不安は消えた。
大丈夫なのだ。梨緒を信じよう。
思いながら、支払いを済ます。
ひどい出費を覚悟していたが、拍子抜けしてしまった。
遠野さんはどうやら飲み物しか頼んでいないようだった。
「……遠野さん、すごくいい人だね」
「あぁ、お人好しだな」
「生徒会長さんだったら、きっと容赦なくたくさん頼んでいたよね」
「たしかに」
梨緒はくすくす笑った。
あとで、またお礼を言わなきゃだな……
微笑しながら、俺たちは家へと向かった。
これ、12月の話なんだぜ……?