会長編 05
そう、悲しいくらい頭の良かった子だった。
だから弟は周りに溶け込もうと必死に普通を装っていたんだけれど、本当に優しい子だったから。間違っていることはちゃんと教えてあげる子だったから。
弟は二年生になり、私が三年生のあの時。
夏だったかな。あれ、冬?
寒かったのか暑かったのかも分からないあの時。
弟は、先生に叩かれた。
そしてひどい言葉で罵った。
私はそれを目撃していなくて、昼休みに私の担任の先生にこっそり呼び出されて知ったんだ。
弟を叩いた先生は、たびたび自分のミスを指摘してくる弟に頭がきていたらしい。小学二年生のくせに、大人びた口調で自分を見下げるように言ったんだ。
と。
弟は確かにデリカシーもなくいろいろ訂正したり指摘したりするけれど、それは全くの純粋な心であって、意地悪で言っているわけではないんだ。
私は、私にはそれが分かる。
だけど結局私にしか分からなくて、他人には、先生のように聞こえるんだろう。
弟は、念のため病院に行かなくてはいけないらしくて、お母さんが迎えに来て病院に向かったらしい。
私はなんていえばいいのか分からなくて、ただ押し黙っていた。
ごめんなさいって謝るの?でも、向こうが悪いよ。ありがとう?何が、殴ってくれたこと?
たぶんその時の私は怒っていたんだと思う。
とても、とても怒っていた。
担任の先生は、
言っては悪いけれど、本気で殴ったらしいんだ。――先生は。でも、弟さんはとっさに避けたそうだよ。少し頬をかすって、弟さんは自分の足にひっかかって転んだらしい。
私は普通に、弟すごい、と思った。
じゃあ、弟自身覚悟はしていたのかな?それとも、あの小さく、いろいろ詰まった頭で瞬時に何か難しい計算でもして避けたのかな。
少し心が軽くなった私は、いつも通り弟に話しかけよう、と決意し、放課後を待った。
そして啓悟が丸まっているであろう布団を足蹴にする。
「起きろ」
一言。
すると啓悟は珍しくも布団から頭を出してきた。
珍しい。いつもなら唸りながら布団を剥がされまいとしがみつくはずなのに。今日は珍しいこと続きだ。
それが少し、俺に焦燥感を覚えさせた。
考えすぎだろうけど。
俺はすぐにその思考を遮断させて、まだ半目の啓悟を見る。
「どうした、今日は兄妹そろって早起きだな」
梨緒はきちんとした理由があるが。
「なんか……」
啓悟は言いながらゆっくり起き上がる。
「なんか?」
促す。
「なんか、梨緒が起きているような気がして……」
……
はっ、今素で、割と本気でマジで正直にひいてしまった。
仮にも親友(?)であろう啓悟にまじめにひいてしまった。
いや、早朝からこの発言からしてないだろう。これはない、絶対にない。
梨緒が聞いてたら持っているものを落としかねない。
がしゃーん
……
啓悟と俺は音のした方を振り返る。
そう、その金属音はすぐ近くでしていた。一階から聞こえるくぐもった音ではなく、まだ眠い頭で聞けば頭痛がするその音。
梨緒が、おたまを落とした音だった。
「り、梨緒!? 大丈夫か、どうした、怪我してないか!?」
啓悟は先ほどの眠気など吹っ飛んだようにすぐに梨緒のもとへ駆け寄る。
俺が毎日苦労して起こしている啓悟をここまで完璧に覚醒させるとは。梨緒恐るべし。そして啓悟の愛もある意味怖い。
「う、うん、大丈夫だよ……」
梨緒が必死に目をそらして何かつぶやいている!必死で何かを取り繕おうとしている!
「あ、お兄ちゃん、お弁当作っておいたからちゃんと持っていってね……」
梨緒は素早い動きでおたまを拾い上げ、部屋の扉を思いっきりしめて階段を駆け下りていったようだ。
まあ、無理もない。
啓悟は閉められた扉に向かって届かなかった手を固まらせている。
「……朝から梨緒はかわいいなー」
……病院が来い。
家につくと、弟がすぐに玄関まで走ってきた。
頬には、大きなガーゼ。
でも、痛々しいほどではない。
弟はそれをまるで気にしていないように、おねえちゃんお帰り、と言ったのだ。
私は弟に微笑んで、ただいま、と応えた。
あら、お姉ちゃん帰ってきたの?
台所からお母さんが大きな声で私か、弟に聞いてきた。
弟はうん!と嬉しそうにぱたぱた早歩きで台所に向かう。
走ればいいのに、と呟きそうになって、私はすぐに口をふさいだ。
遠ざかる弟の右足には包帯が巻かれていた。
そっか、こいつ、足につまずいて転んだんだっけ。
私は肩をすくめて、それでも元気な弟について台所へ向かった。
台所のお母さんの席に、お母さんが頬杖をついて座っていた。
帰ってきてすぐにお母さんに会うのって、変なの。
そう思いながら、あれ、ちょっとお母さん疲れた顔してるな、とも思った。
お帰りなさい。……先生から聞いただろうけど、しばらくこの子のけがが治るまで、学校は休ませることにするわ。
お母さんは居間で腹這いになりながら小説を読んでる弟を見て、苦笑いしながら、そう言った。
私は普通に、
うん、そうだね、それがいいね。
と応えた。
ていうことは、またあんなひどい所に弟をぶちこむのね。本当はお母さんも、弟のこと嫌いなんじゃないの?
私は、そんなひどいことを考えながら、ランドセルをぞんざいに置いて弟の隣に座った。
また変な本読んでる。
おもしろいよ、おねえちゃんも読む?
弟はにっこり笑った。
相変わらず、この笑顔だけは馬鹿みたいだ。
私は思いながら、ううん、と答えた。
よけたんだってね。
ふいに、弟に呟いた。
主語もないまま。でも、私たちにはそういうはまった文法とか、いらないんだ。
弟はうーん、と曖昧に首を傾げた。
ちがうの?先生の話ではそんなふうだったけど。
よけたというよりは、転んだ、のほうが先なんだよ。
弟は両手をついて起き上がる。顔に見合わない大きなガーゼが、やけに目についた。
先生がいきなり手をふりかざしたから、ぼくはおどろいて後ろにひこうと思ったんだ。でも、頭で考えられても体がついていかなくて、自分の足につまずいて転んだ。それで、先生の手が少しほほをかすめた。
本当は、かんぜんによけるつもりだったんだけどね。
弟はそう付け足して、失敗しちゃったと苦笑いをした。
いや、じゅうぶんすごいよ。
私は眉をひそめてぼそっと言った。
昇降口につくと、会長が朝の光を避けるように、暗がりの中で俺たちを待っていた。
俺たちに気付くと、いつもとは別人な雰囲気で、会長は横目で見る。
「ちっと話し辛いから、生徒会室にでも行こうか」
感情のないような声で、会長は言った。
その痛々しいような生徒会長の様子に、俺たちは何も言えないでいた。
おねえちゃんはさ、
その夜。
先生に殴られたその夜、弟は私に言った。
弟とはその頃まだ一緒に寝ていた。いや、弟があんなになっちゃうまで、私は弟とずっと一緒に寝ていた。ずっと一緒に。
弟は、私に背を向けて言った。
だから表情は見えなかった。だから私は気付けなかった。
弟が、少しずつ変わりゆくのを。
おねえちゃんは、先生が怒ったのは仕方ないとおもってる?
ふいに、そんな変な質問を投げかけられた。
私はいきなりなんだろうかと思ったけど、布団を自分にかぶせて、デリカシーのないあんたが悪いよ、と言った。
デリカシーって言葉を使ってみたかっただけかもしれないけど。
力なく笑う声が、かすかに聞こえた。
……あ、今、星が瞬く音が聞こえたよ。
私は驚いて、起き上がった。
え、星がまたたく音?
聞こえなかったの、おねえちゃん、難聴じゃないの?
なんちょう?
耳が、老いぼれみたいに悪いんじゃないの、ってことだよ。
私、むかついて弟の背中に枕を投げつけた。
そこではじめて、弟は私を振り返った。それはやっぱり、馬鹿な笑顔で。
星がまたたく音なんか、聞こえるわけないよ。
静かにしていると聞こえるよ。
弟は、とても神秘的な笑みで人差し指を立てて口にあてた。
私も腹を立てていたけど、しかめっ面で口を閉じた。
やっぱり聞こえない。
私は弟を白い目で見た。
弟は悪びれた様子もなく笑って、
おねえちゃんがさわぐから、星が怖がってひっこんじゃったんだよ。
そう言って、布団をかぶった。
私はなによいきなり、と思いながらも、眠いからさっさと寝ることにした。
でも、そうか、弟は、明日学校に行かないんだ。
思い当って、私も休んじゃおうかな、と、思った。
目を閉じると、星がすすり泣いているような音が聞こえた。
生徒会室は、うす暗く、冬に向かおうとする空気を閉じ込めたみたいにひんやりとしていた。
会長は窓の方に歩み寄り、鞄の中から一冊の本を出した。
「これ、会長ちゃんが見つけた、一番、心に残った本だよ」
「……?」
俺は、いきなり本の話をしだす会長に、首を傾げた。
けれど、口は開かなかった。
「弟が、失踪する話」
会長は、力なく笑った。
「私にもね、弟がいたんだよ」
会長は、今まで会長が見てきたかけらを話すように、ぽつぽつと言う。
「失踪した、弟。私は、その弟を探しに、留学をするの」
「……」
「私、みんなをだましていくようで辛いんだ。だからね、これは大げさにしてほしくないの。もうみんなに知れ渡っているかもしれないけれど……せめて、心の中だけにとどめておいてほしい。じゃなきゃ……」
会長は、苦しそうに顔をゆがめて、本に目を落とす。
「私、罪悪感で押しつぶされそうなの」
俺はその時、会長の言葉が理解できなかった。
そう、きっとそれは俺が会長のそういう思想を受け入れられなかったからだ。
会長は、そんなこと思う人じゃないと、信じ切っていたから。はじめてみた会長の姿に、俺は混乱して、裏切られたような気がして、どうしてこうなってしまったのだろうと、
ひどく後悔した。
今まで、ずっと見てきた人が、まさかこんな思いを抱えて生きていたなんて、知らなかったんだ。
だから俺は、そんな会長を、拒絶してしまった。
「……何を、言っているんですか」
「そうだよね、そうなると思った。確かにそうだ。だって、社会的にもう死んだはずの人間を追いかけるなんて、馬鹿げてるよ。それで、私の人生をかけるなんて間違っているって、言われてもしょうがない」
「そうじゃないです、」
俺は、会長の言葉を遮った。
ああ、会長を直視できない。まっすぐに、見れない。
「おかしいですよ、そんなの。会長が……そんなこと思うはずがない」
その時の俺はまだ浅はかで、何も気づいてはいなかったんだ。そのことばは、絶対に言ってはいけない言葉だったなんて。
会長は、一瞬唇に力を込めて、何かを呑み込んだようだった。
「……おかしくなんかない」
体の底から、這い出るような声で、会長は唸った。
「おかしくなんかない、放っておいてというのが分からないの?」
きつく、すべての憎しみをこめたように俺を睨み、俺と梨緒の横を幽霊のように通り過ぎ、会長は生徒会室から出て行った。
残されたのは、まだ信じられない俺と、つらそうに顔を歪める梨緒の、二人きりだった。
弟が学校を休んで、三日後の朝。金曜日。
私は、とてもうきうきしていた。
だって、私も休んで、外国にいるおばあちゃんの家に遊びに行くんだ。
おばあちゃんの家はすごく楽しい。ぎすぎすした固いアスファルトや鉄とか灰色がなくて、草原とかリンゴ畑とか、すごくのびのびとした場所なんだ。
その実家に一度帰るのは、おばあちゃんが提案してくれた。
お母さんが弟が怪我したことをおばあちゃんに報告した末、おばあちゃんが、じゃあ、エスケープしに来なさいな、と言ったそうだ。
えすけーぷって?
休養、だよ。
弟が即座に答えた。
えすけーぷ。
魔法の呪文みたいで、私は気に入った。
あんた、えすけーぷするの?
おねえちゃんも一緒に行こうよ。
私の話を聞かず、弟は私の手を握った。
え?
おねえちゃんが行かないなら、ぼくも行かない。ねえ、お母さん、良いでしょ?
お母さんは、じゃあ、みんなで行きましょうか、と笑った。
お母さんは心の底から喜んだ。きっと、実家で弟を一人で相手するのが苦痛だからだ。
私は無表情になりそうになるのを必死でこらえて、無理やり笑った。
弟には、そんなこと知ってもらいたくないから。いつまでも、あの馬鹿な笑顔を向けてほしいから。
そうして私たちは、一緒にえすけーぷしにいくことになった。