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夏の末の撞着

 梅雨の走りに「夏は嫌いだ」とあの人は言った。

 梅雨の晴れ間には「夏よ今すぐ終了宣言を出してくれ」と言った。

 梅雨明けには「夏は消えろ」と言っていた。

 七月になると「涼月は熱月に変更だ」と言っていた。

 八月になると「涼風は熱風に負けた」と言った。


  オフィス内ではネクタイを外し、第一ボタンまでもを外しているあの人。その上で袖まくりまでして、団扇で首元をパタパタと扇いでいる。

 冷房の効いた室内でさえ「早く夏終わらないかな」などと宣うくらいに『夏』という普通名詞を親の仇であるかのように毛嫌いするあの人。


 そんな状態が続いた三週間後の帰宅途中。最寄り駅までのらりくらりと歩いていると、突然、季節の変化を感じた。

 頬を撫でる風は穏やかな熱を孕み、空は今にも閉じてしまいそうなエメラルド色の海をしている。耳に届く音も高くなり、嗅ぎ慣れた夏草の甘い香りは鼻腔を満たしては消えていく処暑。


 この時節をあの人なら何と答えるのかが気になって、肌寒い夜に電話をかけた。


「もしもし?」


 普段とは違う落ち着いた低音に、画面の名前を確認する。どうやら本人で間違いないらしい。受話口から「仕事の連絡か?」と聞かれたので、簡潔に用件だけを伝えた。

 クックッ、と鳥が鳴くような音が漏れ聞こえてきて、己の稚拙な行動に今になって羞恥心が襲ってくる。


 まだ笑っているあの人に、手をついて土下座しながら「藪遅くに申し訳ございませんでした」と謝罪する姿まで思い浮かべたところで「――い! おいっ! 聞いてるのか?」と呼ばれて我に返った。


「はい! すみません! 聞いていませんでした!」

「いいけどよ……一度しか言わないから耳の穴かっぽじってよく聞きやがれ。いいな?」

「は、はい!」

「夏は大嫌いだが、夏の終わりにはどうしてか寂しくなっちまうんだよ。春も秋も冬も方法は違えど多様な思い出作りが出来るようになって、季節ごとの差異なんか〝気温〟と〝湿度〟と〝降雨、降雪量〟くらいだろう? にも拘わらず年々夏の終わりは悲しくなる。今は恐く感じる日もあるくらいだ。消えればいい、終わればいいと忌み嫌う季節がやっと終わるっていうのに、俺はどうしてか胸を締め付ける色や匂い、温度でさえも忘れがたくなるんだよ。ほんと、どうかしてるよな。ハハッ……」


 最後の乾いた笑いは自嘲だろうか。


「あ、の――」

「答えになったか? 明日も変わらず仕事だ。早く寝ろよ。あっ、腹は仕舞えよ。じゃ、おやすみ」


 一方的に切られた機械を凝視すると、黒い画面に沈んだ表情をしている自分が映っていた。目には薄らと涙の粒が溜まり、眉は困ったように八の字になっている。

 あの人の言葉に感化されたのか、帰路で感じた自然を思い出したのか定かではないが、胸元をぎゅっと握り締めた。‬


「もうすぐ夏が終わる」


 一陣の風がカーテンを揺らし、拾ってきた微かな音を部屋に落としていった。

 それは、尽きかけている命を燃やすように熱く鳴く、最期の蝉の声だった。

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