冬の孤独(SS集を加筆修正)
以前掲載していた『SS集』の三作品を、一つ一つに分けて再投稿することにしました。今回は、その第一弾としてTwitterに投稿した『冬の孤独』を大幅に加筆修正した作品です。
片目だけから涙が零れ落ちるようになった原因は分からない。
毎回突如として滑り落ちてしまう雫を止める術はなく、涙が枯れるまで泣き続けるしかなかった。
眼科に行っても「ドライアイでしょう」と目薬を処方されるだけで、三日も経たずに捨ててしまった。
そんなある日。一ヶ月前に入社して来た後輩が私の目を見るなり不思議なことを訊いてきた。
「最近、辛くなるようなことはありませんでしたか?」と。
周囲の者もちらほらと彼女に視線を向け始める。
一ヶ月働いたが、不思議ちゃんと言われるタイプの子ではないことは皆が知っている。
人目見ただけで新入社員だと判別出来るほど皺一つないスーツに身を包み、肩より僅か上で靡く髪は不自然なくらい真っ黒に染まっている。
光沢のあるパンプスと真っ直ぐ伸びた背筋。何よりも、私を見る目に一切の曇りはなく、心配の色だけが浮かんでいた。
「えっと、どういうことか教えてもらってもいいかな?」
空いていた隣席に彼女を座らせると、椅子を回転させて向かい合った。
「あ、あの、ネットで見ただけなので確証はないのですが、左目から流れる涙は悲しみの涙だと……その、なんと説明すればいいのかな」
「これのこと?」
近くにいた先輩がスマホの画面を彼女に見せると「これです! ありがとうございました」と頭を下げてから、再び私に向き直った。
「涙を流すことでストレス発散をしているという話はご存知ですか?」
「聞いた事はあるかな?」
「流した量によって、ある程度の感情が判別出来るそうなのですが。その結果。右目から多く出る涙は嬉し涙。左目から多く出る涙は悲し涙。だということが分かったそうです」
「そういうこと。だから、さっきの質問になったのね?」
「はい。コントロール出来ないのは大変だなと思って私なりに調べてみたのですが、お役に立てず申し訳ありません」
深々と頭を下げる後輩に「ありがとう」と言ってココアを奢った。
結局、その日も二回泣いた。叱責されたわけでも失敗したわけでもない。ただ、仲睦まじい同期と同僚を眺めていただけ。
二回目は自宅の最寄り駅に到着してホームに降り立った直後。
左の車両からキャメルのチェスターコートを着た男が出てきた。この時期なら何らおかしくもない格好。何処にでもある光景の一つに過ぎないが、後ろ姿を見てから唐突に泣きたくなってしまったのだ。
改札を出る頃には膜を張り始めた私の左目。人波はまだ多い。自宅までの道を小走りで駆け抜けた。
白い息を吐き出しながら自宅の鍵を開けたが最後。
決壊したダムから水が溢れ出るように、大粒の涙が左目から落ちていく。
昼間、後輩が言っていたことは当たっている。ただ、受け入れられるだけの余裕がなかった結果。
左目から哀が零れ落ちるようになったのだろう。
自覚し、認めた瞬間、壊れたようにボタボタッと落ちる感情を受け止めた硬い床。
爪先を這う冷気は、蓋をしたかった痛い記憶を想起させる。
過去の亡霊からも寒雲垂れ込む街からも逃げるように凍てつく部屋へと帰宅したのに。
海馬から飛び出した過去は雪のように悲しくて、必死に堪えながら帰還したにも拘わらず、舞い戻る雪が溶けたかのように涙の量が増えていく。
忘却したはずの痕跡がみえるようで、家すらも孤独の居城に思えてならない。
こんなにも弱くて醜い気持ちは誰にも言えない。
すぐにでも消し去りたくて「さようなら」と呟いた。
期待などしていない。二度と帰ってはこない「また明日」が、白む息と共に流れて消えた。




