さよならを決めた彼の部屋
Twitterに掲載した140字小説を加筆、修正しました(19.1.15)
錆びた扉を潜るのは何度目だろう。
回らない穴に無理矢理金属を差し込んだのが、いつ頃だったのかさえ忘れてしまったのに。
「どうぞ」
冷たくて硬い心がギシッと鳴いた。
「まだ5○6してなかったんだ。ほんと……変わらないね」
部屋に入る際、幾度となく繰り返された戯れは過去の話。
眼前で交わされる会話は、何かを彷彿とさせない為に行われる〝儀式〟で唱えられる、呪文のように聞こえた。
「関係ないだろう」
それが全てなのだ。
なかなか踏み出せない私を急かすように「暑い」とだけ呟く彼。
「どうぞ」
「……ありがとう」
渋々狭いスペースに体を滑り込ませた途端、彼が笑った。
「そうだったな……」
何が? とも訊けない。
背後で苦笑を浮かべているであろう、記憶の中の彼の人に思いを巡らせた。
誤魔化すような笑い方は好きじゃなかったな。
だけど、今となっては――
ガシャン。ガチャン。
鍵の閉まる音と、チェーンロックの音が、過去ではなく現実だと鼓膜に伝えてくれた。
「空気の入れ替え」といって開け放たれた窓からは、心地よい外気が流れては帰っていく。一瞬、肌を撫でた風に行く春を想った。
東風に乗せた想いは貴方に届く前に香りと共に消え去った。
次に貴方の肌を攫う香りは、きっと私の知らない誰かの想い。
同じ空の下に在るのに、流れる空気が二人の距離を阻害した。
久しぶりの再会は、思わぬ偶然から始まった。
いつ。とは決めていなかった。
ただ〝その時〟がくることを知りながら、交わらない事実から逃げ続けていた。
その結果が必然だったというならば、あまりにも残酷だ。
「飲み物、淹れてくるから待ってて」
窓際から台所へと消える彼。
行き場のない私は、二度と埋められない定位置へと腰を下ろした。
「すぐ、帰るから、お気遣いなく……」
「一杯ぐらい、いいだろ」
仄かに掠めた黒髪さえ、記憶とは違っていて。
「熱いから気をつけろよ」
味の変わった紅茶に覚悟を決めた。
もう還らぬあの部屋。あの笑顔。
いつからだったの? ほど、無意味な質問はないと知る。
見慣れぬカップに残った液体を一気に流し込むと、キーケースから片割れを外してテーブルに置いた。
「これ。遅くなってごめんなさい」
「あのさ……」
「何?」
膝立ちになった瞬間、彼に呼び止められた。
俯き、沈黙すること数十秒。
「……ごめん」
誰に何を謝罪をしているのかも理解できない。
数分前の記憶とはまるで違う人間がそこにいた。
先ほどまでの感情は消え失せ、勢いよく立ち上がると、赤の他人を見下ろした。
「それ、早くしまいなよ」
謝罪に対する答えがなかったことに腹を立てたのか、小さな男は乱雑な動作で銀色の形を茶封筒へ投げ入れた。
「帰るね」
「…………」
無言を返事と受け取った私は、口を開けたまま私を見つめる知り合いだった人を残し、古びたアパートを立ち去った。
大嫌いだった。とも、一生言わない。
そんな出逢いの最後だった。