塩化ナトリウム
「ほら、怖がってないで行くぞ!」
前を歩く小鳥遊がイライラしながら僕に舌打ちした。元はと言えばお前が言い出したんじゃないか。そんな目をしていた。僕は汗だくの左の手のひらで金属バットを握り締め、ゴクリと唾を飲み込んだ。
僕が夜の黒猫神社で真っ黒な「あれ」と遭遇してから、既に一ヶ月が経っていた。その一ヶ月の間に、「どうも本当に効果があるらしい」、そう聞きつけた大勢の人たちが、「あれ」に呪いをお願いしようとこぞって神社に集まってきたという。その話を聞いた僕は、賽銭箱に溢れかえる呪いの言葉を想像し吐きそうになった。姿を一目見れば、誰も「あれ」にお願いしようなんて思わないだろう。「あれ」はきっと話すら通じない。黒音みたいなのとはまた違う種類の「神社にいるもの」なのだ。
やがて僕らの町だけでなく、周辺の町にまで、「黒猫様」の噂は一種の都市伝説のように広がっていった。誰かが怪我をしたり、病気になったりすると「黒猫様の祟り」だと後ろ指をさされた。「悪いことをすると、黒猫様に怒られますよ」そんな台詞が、小さな子供を持つ主婦から囁かれるようになった。
僕は胃にずっしりと重たいものを抱えていた。なんでもかんでも呪いのせいにされるのが腹立たしかった。大体とり憑いて呪う神様よりも、その呪いをお願いする人間のほうがよっぽど歪んでるじゃないか。
神様は、たとえいい人だろうが悪い人だろうが、連れてく時は連れてっちゃうものよ。
僕はいつぞやの黒音の言葉を思い出した。いい子にしていれば、世の中全てオールオッケーという訳にもいかないらしい。だけど黒音は、「あれ」とはきっと違う。彼女が神様なのかどうか知らないが、誰彼構わずあっちの世界に引き釣りこんだりしないはずだ。
要するに僕は、黒猫神社に住む彼女の無実を証明したかったのだ。これ以上地元の神社の評判を上げてんだか下げてんだか分からない状態にするのは御免だ。
だが一体どうすればいいのだろう。黒猫様は人を呪ったりしないんだよと皆に言いふらしても、効果があるとはとても思えない。その怪我は呪いではなくあなたの不注意が原因なのですよと指摘したところで、余計怒らせるのがオチだ。途方に暮れた僕は、幼馴染の小鳥遊に電話してみたのだった。
小鳥遊とは小学校の頃、僕らの中で一番のマセガキだったあの小鳥遊だ。隣町の進学校に行った彼は、高校一年生の身ながら既に大学受験を見据えるという特異な学生生活を送っていた。妙なことに、あの頃一緒に野球を楽しんでいたメンバーでも、合理的で理屈っぽくなってしまった彼だけが黒音のことを覚えていた。ほかの奴らはみな忘れていたり、中には連絡が取れなくなっている奴もいた。
「きっと困っている黒音を何とかしたい」そう切り出したとき、乗ってくれたのは小鳥遊だけだった。一通り話を聞いたあと、電話越しに小鳥遊は冷静に僕にこう返した。
「だったらお前がみた『黒い女』を、神社から追い出すしかないんじゃないか?」
こうして僕らは黒猫神社に「あれ」を倒しに行くことになったのである。これっぽっちの霊感もない僕と、神に祈る暇があるなら過去問を解き直した方がマシだと言わんばかりの小鳥遊。そんな僕らが何故ゴーストバスターズの真似事をすることになったのか、未だに理解できない。
僕は暗闇の中で光る腕時計を覗き込んだ。午後十時まであと十分。僕らは神社のそばの住宅街に差し掛かっていた。「できるだけ同じ条件を満たす方がいい」と、小鳥遊は同じ日付、同じ時刻になるまで神社への「参拝」を待った。メガネをくいっと右手で上げながら、神経質そうに前を歩く小鳥遊が僕を手で制した。この住宅の角を曲がれば、もう神社の入口は目の前だ。
「小鳥遊…」
「シッ!」
彼が人差し指を唇に押し当てて僕を睨んだ。真面目なのか巫山戯ているのか良くわからないが、とにかくこの男目の前の出来事に集中している。どっちかって言うと僕の方こそ、何だってこんなことをしているのか分からなくなってるくらいだ。
「女が出てきたら…わかってるな」
若干震えているような、それでも気取った声で彼は囁いた。僕は頷いた。計画はこうだ。扉が開いて「あれ」が現れたら、小鳥遊が学校の実験室から拝借してきた「塩化ナトリウム(要するに塩)」と、場合によっては「硫酸」を投げつける。霊的にも、そして物理的にもダメージを与える二重の波状攻撃だ。下手すれば事件に成りかねない。僕は気が重かった。
「それでも相手に効かなかった場合、マタタビをバラ撒きながら逃げる」
「マタタビ?」
数日前僕の部屋で計画を練っていた彼は、至って真面目な顔でそう言い切った。
「黒猫神社というくらいだから、猫を祀ってあるのだろう。マタタビに気を取られている隙に、神社から出る」
「そんな上手くいくかな…」
僕は不安だった。大体神社から出たところで同じ町のちょっと歩いたところに住んでるんだから、どう考えても逃げようがない。
「神様に喧嘩を売るんだから、たとえ地球の裏側だって逃げ場なんてないさ」
そう言って小鳥遊は気取った笑い方をした。
「……行くぞ」
静かに夜の神社に僕らは足を踏み入れる。子供の頃の懐かしい思い出に浸っている余裕は今はなかった。僕らはゆっくり賽銭箱に近づいた。懐中電灯で照らされたそこには、やはり誰もいない。
「……」「……」
僕らは無言で目を合わせた。やがて小鳥遊が、ゆっくりと賽銭箱に近づいていく。僕は金属バットと塩化ナトリウムを持つ手をさらに強くした。彼が懐中電灯を掲げ、中を覗き込んだその瞬間―。
「何やってんの?」
後ろから声をかけられた僕らは、文字通り飛び上がった。ギョッとした顔で二人して振り返ると、そこに探していた少女…八代黒音が立っていた。相変わらずのおかっぱ頭に浴衣姿だったが、その顔立ちは凛々しく、とても美しい少女に成長していた。変わったことといえば、頭頂部から猫のような耳が生えているくらいだ。