鳥居
「黒猫様は人を殺すと思う?」
それはよく晴れた夏の日だったか、僕はふとした拍子に彼女に尋ねたことがある。その頃には既に彼女の正体にも感づいてはいたのだが、当時の僕は好奇心と畏怖に刺激されどうしても確かめたくてならなかったのだ。彼女はおかっぱ頭をかしげながら、キョトンとした目で僕を見つめた。
「さぁ…でも神様は、たとえいい人だろうが悪い人だろうが、連れてく時は連れてっちゃうものよ」
だから触らぬ神に祟りなし、って言うでしょ。彼女は左手で僕の右手を触り、そう言って僕に顔を近づけながら微笑んだ。そのつぶらな瞳に映る自分の照れたような怯えたような顔を、未だに僕は覚えている。
黒猫神社に呪いをお願いすると、黒猫様が祟ってくれる。
僕が物心ついた時には、そんな噂が既に町中に広がっていた。黒猫神社というのは都会とは程遠い寂れた僕らの町と隣町の境付近にあって、一見すると何の変哲もないただの神社だ。敷地内には公民館が併設されていて、夕刻になると付近の小学生がそこでかくれんぼやら野球やらに興じていた。小学校時代の僕も例外ではない。決して大きな神社とは言えなかったが、子供にとっては2m以上ある木造の建築物は首が痛くなるほど巨大だった。僕はかくれんぼの時はよく神社の軒下や、賽銭箱の裏なんかに身を潜めていたのを覚えている。彼女と出会ったのもそんな遊びの最中だった。
ある日、僕らが4~5人で野球をしていると、賽銭箱の横で頬杖をついてこちらを見ている女の子に気がついた。見たこともない顔で、最初は隣町からきた子だと思っていた。彼女はその頃から浴衣を愛用していて、おかっぱ頭と相まってその姿は神社の風景にとてもよく合っていた。
「ねえ君、一緒に野球しようよ」
クラスでも一番のマセガキだった小鳥遊が、6回表に突然彼女を野球に誘った時僕らは仰天した。当時小学校高学年だった僕らだが、女の子を野球に誘うなんてあり得なかったのだ。小鳥遊が気取った感じで彼女に手を差し出した。それまで退屈そうにしていた彼女の顔が、パァっと明るくなった。
「いいわよ」
そう言って彼女は自信ありげに笑ってみせた。こうして僕の代打として黒猫神社市民球場に登場した彼女、八代黒音は、その日に記念すべき第一号ホームランを放ち電撃的なデビューを飾るのだった。
やがて中学校に進学した僕は、念願だった野球部に入部した。軟式だったが、その練習の厳しさには本当に驚かされた。何しろ始まるやいなや、一年生は500mはあるグラウンドを十周させられる。いきなり5kmのマラソンをしなくてはならないのだ。たまに練習帰りに黒猫神社に寄って彼女に愚痴ると、賽銭箱の横で楽しそうに僕の話を聞いてくれた。
「いいなぁ。私も野球部って入ってみたい」
「君じゃ無理だよ…男の僕だってきついんだから」
「あら、あなたよりは絶対活躍できると思うわ。もう覚えてないの?」
そう言って彼女は笑った。中学校に入るとあの頃のメンバーも部活に勉強にと思い思いの生活にそれぞれ分かれていった。別に遊ばなくなったわけではないが、流石に神社で野球をしたりすることもなくなってしまった。
黒音は僕らが中学校に上がっても、浴衣姿のままいつも森林生い茂るその神社にいた。何処に住んでるのかもわからない、僕らも無理に聞き出そうとはしなかった。僕自身は当時から霊感やら第六感なる力は皆無だったので幽霊や超常現象の類は信じてはいなかったが、黒音の存在だけは何となく「そういうもの」と説明するほかなかった。要するに、「神社にいるもの」。その正体がいいものなのか悪いものなのか、僕らには判断がつかない。ただ彼女はその境内野球場で通算26ホーマー、生涯打率.342と、少なくとも仲間内から畏れられていたのは確かである。ただみんな記憶がなくなったわけではないだろうが、中学くらいから黒音の話題をするものは自然といなくなってしまった。こうして今も彼女と交流を続けているのは、僕くらいのものだろう。
「じゃあ僕は帰るよ…どうしたの?」
「ううん、なんでもない」
やがて日が落ち境内の蛍光灯に明かりが灯る頃、僕が腰を上げると、彼女が賽銭箱の中を暗い顔をして覗き込んでいた。入口からはみ出していたしわくちゃの紙に、僕は手を伸ばした。
「××××を呪い殺してください」
紙には筆で、そう殴り書きしてあった。××××にははっきりと実名が書かれている。その手の話を信じていない僕にとっても、その言葉には薄ら寒いものを覚えた。
「誰かのいたずらね。変な噂を信じてる人もいるもんだわ」
僕の右手からスッと紙を取り上げると、黒音はそれを袖の下にしまった。暗がりに照らし出された彼女の表情は、決して笑ってはいなかった。賽銭箱の横に佇む黒音と別れを告げて、石で出来た大きな鳥居をくぐった僕は気になって振り返った。既に彼女の姿は境内になく、蛍光灯に照らされた神社が妖しく黒々とした暗闇にその姿を溶かしていた。
変な噂。黒猫神社に呪いをお願いすると、黒猫様が祟ってくれる。
黒音はあの紙を捨てずにどうするのだろうか。その夜なぜだか僕はそれが気になってしばらく寝付けなかった。