第三話 幼き日に
たとえ世界が違っていても、世界に生きる人間というのは大して変わっていないようにも思える。
確かに文化の違いや積み重ねた人間性の違いによって戸惑う事もあるが、喜怒哀楽が人間の感情として正しく備わっている所は日本もこの世界も同じである。
例えば、我がセルグリム家の荒廃っぷりに罵詈雑言を飛ばしてくる近所の子供達とか。
装飾過多の衣装に身を纏いながらひそひそと陰口を立てる道行く途中のマダムとか。
たまに菓子屋の近くを通ると俺の素性が知られているのか、情けにアメ玉をくれる店主のおばさんなど。
実に俺を取り巻く現状に即した反応を人々は返してくれる。
そしてそれが、面倒なこと極まりない。
一応は貴族なのだから平民の人間は露骨にこちらをなじったりはしないだろうとも思っていたが、これまた平民の子供を従えた貴族のお坊ちゃまが猿山の大将の如き意地汚さを発揮して困る。
何故に同じ年代でありながら子供と言うのは読み書きを覚える前に他人を痛めつけることを覚えると言うのか。
その猿山の大将を気取るいじめっ子、シュウ・クラントンなどは未だおしめすら取れていないという話であるというに。
「よっ、と……邪魔したかな?」
「……いや」
いくら中身はこの小さな身に不釣り合いな思考を持っていると言えども、心の内に溜まった苛々としたものは年月を重ねてもどうにもできない。
家の前で一人行っていた瞑想にも徐々に雑念が混じり始め、周りの音が鬱陶しいまでに明瞭とし始めた時。
家の前に広がる芝生の上で座禅を組む俺の頭上から降る声があった。
眼をゆっくりと開ければ、太陽の光で影を帯びながら蒼の瞳をこちらにじっと向ける少女の顔。肩には掛からない程度のボーイッシュらしい赤みがかった髪と、顔に浮かべるのは天真爛漫とも勘違いできそうな輝かしい笑顔、その声は耳の奥に透き通るような心地の良いもの。
それなりに良き関係を結べている知り合いの一人、リリィ・フロラウラがそこにいた。
「今日は魔術の特訓? まぁ、芝生の上で座ったままの修行なんてキミくらいだけど」
「精神鍛錬にはこれ以上のものはないと思うが。どうだ? 一緒に」
「えー……その座り方、足が痛くなるからいいよ。それに」
そこで一度切り、跳ねるようにして一歩下がるとそこでくるりと回る。
その勢いで揺れる短めのスカートを抑えつつ、健康そうな太ももをチラリと見せた彼女はニッ笑った。
「スカートだしね」
「そうか」
「……むー。もっとこう、ないのかい?」
「下着が見えるぞ」
言うなり頬を膨らませるその表情に暖かいものを感じながら、一つ息を吐くと徐々に過敏になっていた感覚が元に戻っていく。実のところ彼女が近づいてくるのは気配で分かっていたが……まぁ、驚かせる必要もないだろう。
当の彼女は家の周りを申し訳程度に囲む低い石垣の上に腰を下ろし、なおも足をぶらぶらさせながら不満気な表情を撤回させることはなかった。
「機嫌が悪そうなことで」
「ふぅ……もう少し、こう」
「8歳の子供に色眼を使う奴がいるものかよ」
「まさか、そんな」
片眉を下げて馬鹿にしたように吐き捨てるリリィであったが、膝の上に置かれた両手は忙しなく組まれ解かれを繰り返していた。
年相応とは言い難い物の、どこかませた子供が見せるような行動に自然と笑みが漏れる。
今年で10になるという彼女ではあるが、物言いそのものは世間を斜めに見ている様な少し背伸びしたもの。
ひょっとすれば2つも下の俺を前にして大人ぶるのかとも思ったがそうでもない。
「今日も家出か?」
「そんな家出なんて大仰なものじゃないよ。ただ嫁入り修行なんてさせられるのが嫌なだけさ」
「貴族の娘ならば仕方がないとも言えるが」
「仕方がない、ね。あまり好きな言葉じゃないかな」
「俺もだ」
揃って眺めるのは邸宅が立ち並ぶ住宅街の合間を走り去っていく子供たちの群れ。
家の門の前を転びそうになりながらも腕を振って走る彼の姿に、俺とリリィはただ無言のままに眺めていた。
別段自由を渇望するほどに現状に不満を……いや、まぁ、不満は抱いているがそれで駄々を捏ねるかと言われればそうでもない。
事実、力を付ける名目で行われるロンの鍛錬には価値を見いだせている。
ふと、子供たちの姿を眺める憂鬱気なリリィの横顔を見つめる。
風に靡く赤髪に隠れて映る瞳は憧れとも嫉妬とも言えぬ、もしくは今は無邪気でいることが出来る子供たちへの嘲りのそれ。
生まれにおける定めというのを、彼女は心底嫌っている。
「僕も……鍛えよっかな?」
「今から?」
「魔法の勉強だってこれでもしてるんだよ? ……相変わらず、誰も褒めてはくれないけどね」
自嘲めいた笑みを浮かべながら答える彼女の姿に、俺とて何かを思わないわけではない。
だからといって彼女に全くの同意を預けるほどには子供ではなかった。
リリィ・フロラウラが持ち得る魔法の才は、魔道士とも無能者とも言えぬ中途半端なものであった。魔法を扱えなくはないが、それ一本を扱う人間となるには足りない。
そもそもにして彼女は貴族である。男ならばともかくフロラウラ家次女に過ぎない彼女が研究者や戦う者としての影が濃い魔道士になるのはあまり褒められた選択ではない。
ならば、他家に嫁ぐか。それとも婿を呼び込むか。
兎にも角にもそこに自らの意思を尊重させる自由があるかどうかと問われれば、微妙な話だ。
「女だって魔術を使えば男と対等に戦う事も出来るっていうのに、おかしな話だと思わない? 女は人を産み、誰か愛するだけの生き物じゃないんだよ?」
「知っているさ。家の母は睨みだけでも人を殺められそうな女だからな」
「そういうことを言ってるわけじゃないんだけど……」
「戦うとは、そういうことなんだろう。未だそういった世界には身を置いていない俺が言うのもなんだが」
「別に戦いたいって言ってるんじゃないさ! ただ……」
そこまで言いかけてリリィは荒げかけた声を止め、口を噤んだ。
彼女が胸の内にあるのは、誰かに決められた道を進むこと拒むありきたりな子供の癇癪に過ぎない。
そしてそれが癇癪に過ぎないことを理解できているくらいには、彼女は大人びている方だった。
魔法使い云々というのも、たまたま貴族の女としての生き方以外に適正があるから縋っただけ。
別段彼女が歴史に名を残せるような魔道士になることを望んでいるわけではない。
「お前の両親を説き伏せたいのならば、まずは目的の一つでも作るべきなのだろう」
「……分かってる。でも、ディンはそういうの持ってるのかい?」
「強くなりたいとは思っているが……何故と問われれば、どうにも」
上目使いともジト目とも言えるなんとも居心地の悪い視線を向けるリリィに、頬を掻きながら曖昧に答える。
正直な話、何かしら真に迫る目的というもの持っているかと問われれば、首を横に振らざるを得ない。
無論この世界そのものに対する冒険心、もしくは好奇心といったものが大きく自分の心を占めているのは何となく自分でも分かっている。
しかしそれに対して現に身体を動かし鉄火場に踏み入れて体験したいと願うほどか、と考えるとそうでもない。本の中にある知識だけで俺は満足してしまっている。
いや、本の中だけでも異世界人の俺にとってはあまりに魅力的なのだ。
「戦う力など無くとも、本さえあれば俺は満足できるのだがな」
「……そこら辺はディンもよく分からないね。騎士様に憧れて矢鱈目ったら木の棒を振り回す子供は多いのに、そんなのに興味がないキミが一番木の棒を振るのが上手いだなんて」
「遊びと修行の違いだろう。それに……もう少し時が立てば彼らも手にマメを作る位にはなる」
「まさか。剣の振り方なんて知らずに金と地位だけでふんぞり返る騎士なんてたくさんいるじゃないか」
まぁ、なんというかこの世の理不尽全てに噛みつきたくなる時というのはあるのだろう。
ひょっとすればリリィの不満も明日の食事さえおぼつかない貧民街の者達に比べれば噴飯ものの物言いだろうに。
そこら辺を少なからず分かっているから、彼女も中途半端な家出なんていう反発にしか行動を移せないのだろう。
――――なんとも、本人の資質と生まれが合致してくれることはあまりに少ない。
「……ねぇ、ディン」
「何だ」
「キミは……騎士になるのかい?」
「ならねばならん立場にいる」
「そっか」
儚げに笑うリリィの表情にどこか悲しげなものを見た気がするが、それも俺は見て見ぬふりをしたまま空を仰ぐ。
彼女の望む答えを上っ面だけで答えるのは簡単だったが、少ない知り合いにそんな言葉を吐くのは御免被る。
ひょっとすれば、彼女もいつかは。そんな都合のいい未来が頭を過った。
「ダークストーカー、いつ現れるんだろうね」
「前侵攻から早10年。奴らが現れる周期などはっきりしてはいないが……前の侵攻時はそれほど規模が大きかったわけではない。ならば次の侵攻はそう遅くはならないだろうし」
「規模も大きくなる?」
「所詮予想に過ぎん。化け物の考えることなど分からないさ」
恐怖の魔王なんて分かりやすいものがいないのがせめてもの救いだが、それに引き換えこの世界には天災にも近い災厄が地底の奥深くで息を顰めている。
ダークストーカーとの接触から既に500年は経つと言うが、未だ致命的な壊滅を受けていない人類の文化を考えれば、どこも切羽詰まったようには思えない。
むしろ化け物との戦いに利益を求める輩も存在するだろう。
どれもこれも見たことがない、所詮俺達子供には絵空事のもの。
俺が剣を持ち、戦場に放り出されるのはいつになるのだろうか。
「もしキミが騎士になったら……僕はその隣で魔法でも唱えられていたらいいな」
「ははは。まぁ、期待しておく」
「むっ、そう言われると俄然夢だけでは終わらせたくなくなるね」
「夢? 大魔道士になることが夢だったのか?」
「………………ま、そういう事にしておいてあげるよ」
不満気に鼻で笑ったリリィの顔を正面から見据えることは出来そうもなかった。
◆
その後、半ば魔の才がない俺への当てつけのようにしてリリィが俺に魔法関連の書物を持ってきてくれた。
この身に魔の才がないと下されて以来、ロンによる魔術への研鑚にしか手を出せなかった俺には随分と貴重で、やはり興味深いものではあるのだが、どうにもただ本を持ってくるだけで胸を張るリリィの反応に苦笑せざるを得ない。
晴れの日の昼下がり、家の前の庭に腰を下ろして本を開く二人の子供は、傍から見ればどのように映るのか。こんな貧乏貴族の子に構う彼女が世間であまりよくない噂を立てられているのが心苦しい。
はねっ返りだとかお転婆だとか言われるのであればまだマシだが、それ以上に汚い言葉を彼女が受けるのであれば俺は――――どうするのだろうな。
とにもかくにも書物としてしっかりと魔法関連の知識を深めたのは初めてであった。
どれもこれも又聞きのものばかりだったので、リリィの体験談を聞きながら読む本はこれまで以上に魅力的なものだった。
例えば、人間の内にはもう一つの世界があるのだとか。
唐突にリリィの口から語られたその事実と、さも当たり前のようにその午が載っている書物を比べ見たのだが、呆けるようにして口を開ける俺を笑うリリィの声に現実に引き戻された。
なんとも眉唾物の話ではあるが、簡単に言ってしまえば精神世界のようなものなのらしい。
自分の心の闇、精神の海、裏世界。
色々と言い変えることが出来る言葉はあるが、この心の世界のことを魔道士たちは『ネレイド』と呼ぶらしい。
なんとも大仰な名前だとも思うが、これもまたファンタジー。頭ごなしに否定する意味もあるまい。
そもそもにして魔法や魔術といった技術に最も必要なのはイメージ。自らの心を強く持ち、それによって現実を捻じ曲げることこそが魔法、魔術の根本的なもの。
およそ精神力というものが重要な技術において、心の中にもう一つの世界を持つというのも分からぬ話ではない。
さらに言えばそのネレイドというのは誰もが持つ独自の世界でありながらも、世界の裏側を示す様にしてたった一つの次元でもあるのだとか。
全にして一。一にして全。普遍的無意識がどうのこうのと難しい話になってきそうで頭が回りかけたが、まぁ、誤魔化し誤魔化しで理解する。
そしてそれが魔道士にとってどう関係するのかと言えば、どうにも魔道士と言うのはただ才を持つのみではなれるような代物ではないらしい。
然るべきところで魔法に対する研鑚を深め、いよいよそれを実現する為に自らのネレイドの奥深くへ意識を飛ばし、試練なるものを越えねばならないのだとか。
曰く、自分の心に打ち克つだの、ネレイドに巣食う悪夢共を打ち払うなど。
さすがにそれは書物だけで知り得ることのできるようなものではなく、リリィも未だそういったものに詳しい話は受けていないのだと言う。
何とも、何とも興味深い話である。
ちなみに聞けば此方が赤面してしまいそうな『詠唱』というプロセスだが、精神力やイメージが重要であるというのならばそう馬鹿に出来たものではないのかもしれない。
祝詞のように、真言のように、戦場で空高く言葉を紡ぐその有様は一種の自己陶酔、もしくは魔法という現象に意識を沈めるには手っ取り早いのだろう。
戦士たちの気勢を上げる演説のように、猛将を前に口上を述べるように……戦場で仲間と声を合わせるように。
言葉を紡ぐことは、血の流れる戦場において実に重要なことではないのだろうか。
などとこじつけにも近いことを言ってはみるが、どうにも黒歴史をチクチクと弄くるような言葉の群れと魔法名の叫びは、日本という世界で中学という時代を経験した俺にはやはり辛いものがある。
中二病だと嘲てしまえば楽だと言うのに、それが中々に重要なことだと知ると口を噤むしかない。
まぁ、それを俺がすることがないというのがせめてもの救いだが。今だけは魔の才がないことを喜ぶしかあるまい。
俺の乾いた笑いに、リリィは小首を傾げるだけだった。
更新、更新。