幕間 物憂げに問う
晴天の空の下で行われた騎士隊志願者の入隊試験。平民や戦争の動きに過敏な傭兵と商人の間でもそれなりに話題になってはいたが、その実情を知るのは貴族や王宮に勤める騎士たちのみ。
基本的に騎士試験に合格した者はそれなりの賞賛を受けて騎士の名を声高に叫ぶことが出来る。
「…………」
そんな悪質な試験が行われている王宮の試験場より離れた、カンダネラ南に広がる貴族達の邸宅が広がる区画。その中の一つの屋敷の部屋内で、赤毛の少女は遠くに見えるフラムバルド城をぼんやりと眺めていた。
少女が部屋の窓から眺めるフラムバルド城は、軍事国家として名高い国に違わず無駄に高く聳え立つ細い塔や見てくれだけの外装ではなく、頑丈な城壁や物見台が建っていたりと随分物騒な外装をしている。
「お嬢様、如何なされましたか?」
「ん? ……何でもないよ、シェヴィ」
物憂げな赤毛の少女に話しかけたのは、藍色の学者帽と落ち着いた唐草色のローブに身を包んだ中年のふくよかな女性。顔からはみ出そうなほど大きな丸眼鏡が特徴の、どこかマイペースさを感じさせるような人物だった。
「体調が優れないようでしたら今日はこの辺で……」
「いや、そういうわけじゃないんだ。ただ、今日は騎士試験だったなぁってね」
「そういえばそうでしたね。しかし領主たる貴族配下の騎士として任命を受けるよりも、国公式の騎士試験となればその門も大分狭くなりましょう」
「……そうかな。今は戦争が近い時期なんだ。ちょっと剣の腕でも見せればそこら辺の貴族は賄賂と権力でいくらでも騎士なんて増やせるけど。無論国公式の試験だって」
皮肉気な笑みを浮かべてため息をつく少女に、シェヴィはただ乾いた声で笑うしかできなかった。
何せ彼女はこの屋敷で魔法の教育役として招かれたただの魔道士。この国の貴族事情に詳しいわけでもなければ、少女の言に軽々しく頷くことも出来ない。
ただシェヴィが分かっているのは、彼女が受け持つこの生徒は非常に気難しい娘だということだけである。
「ではリリィ様」
「中断して悪かったね。僕も無駄な感傷に浸ってる余裕なんてなかった」
二人がいる部屋は、360度全てを小高い本棚で囲まれた書庫。
その中央に用意された大きなと椅子に腰を掛けた赤毛の少女――――リリィ・フロラウラは後ろ髪の長い三つ編みを揺らしながら開かれたままの本に眼を向けるのだった。
◆
リリィ・フロラウラという少女が生まれた家は、貴族としては領地経営など主とするものではなく、王宮での政治などに関わるような貴族であった。
カンダネラ貴族邸宅地の一角に大きな屋敷を持ってはいるが、フロラウラ家が持つ土地はそれだけ。宮廷伯の爵位を持ち、国を動かす貴族の一員として名を馳せる貴族であった。
名を馳せる――――しかしそれはフロラウラ家が自称するのみ留まるものに他ならない。
国を動かす一員と言えば聞こえはよいが、フラムバルド国が重要視するのは頭ではなく力。
基本的に軍事力を独自に持つ貴族と巨万の富を有する貴族のみが国の中心で動いているに他ならない。
無論政治に関わる人間が必要でないわけではないのだが……兎にも角にもフロラウラ家が受ける評価など中途半端なものであった。
故に、フロラウラ家が出来るのは似たような貴族の間で結束を促し、たださえ弱い立場をほんの少しだけ強めるくらいのこと。例えば――――政略結婚など。
無論その影にリリィが囚われたのは当然の話であった。
「リリィ。お前の髪は、綺麗だな」
リリィが言葉を覚えて間もない頃、フロラウラ宮廷伯が彼女に向けた言葉はそれなりに強く彼女の心の中に刻み込まれていた。
いつも仕事から帰ってくると、政治関連の仕事に就いているからか随分と疲れたような顔を浮かべるリリィの父が、ただでさえ触れあいの少ない親子間の中で呟いたその言葉はどれほど価値のあったものか。
その裏にあった宮廷伯の言葉の真意など知らず、リリィは屈託のない笑顔を浮かべる少女であった。
◆
「お嬢様、身の内に広がるネレイドを感じるのです。精神とマナが散らばったまま漂う意識の世界。その世界に心を委ね、世界を開き――――しかし溺れてはいけない」
「…………」
場所は変わってフロラウラ邸の裏庭の一角。
住宅街として長閑な鳥の鳴き声も聞こえる昼下がりだが、その裏庭ではデュアルリングを目の前に構えたリリィがシェヴィの教えを聞きながら瞳を閉じ、集中していた。
魔法発動の際には必ず現れる空間の歪み。そしてかすかな光源がリリィの周りに浮かんでは消える。すればデュアルリングの中心には魔法陣のようなものが浮かんでいた。
「心こそが人の持ち得る至高の力。そして言葉こそが全てを繋げる神なる御手。感じなさい。世界とネレイドが繋がる瞬間を。紡ぎなさい。奇跡を起こす迷いなき言葉を」
「――――蕩揺う光よ、生命に集え――――その手に包むは『恢なる癒し』」
幼さを残した声で紡がれた荘厳の言葉の群れは、確かに世界を歪ませた。
魔法陣から光が溢れ、その優しき力の奔流がリリィの目の前で収縮していく。
その力が向けられたのは、リリィとシェヴィの間にある台の上に横たわる一羽の鳩。
羽の一部をじわりと赤色に滲ませたその鳩は、リリィの魔法を受けるとやがてふわりと蒼空へ飛び立っていった。
「…………出来た」
「素晴らしい……素晴らしいですっ、お嬢様! 治癒魔法を扱える者はあまり多くないと言うのに」
「は、ははは……シェヴィのお陰さ。ありがとう」
握り拳をぎゅっぎゅっと何度も作り確かな手ごたえに破顔するリリィと自分のように歓喜に溢れるシェヴィ。傍から見たそれは親子のようにも見えるだろう。
どちらにせよ、リリィもまたディンやローズに負けず劣らずの鍛錬を積んでいた。
――――貴族の次女に過ぎない彼女が。
「だけど、毎回思うけど……僕のネレイドと現実が混じるような感覚は慣れないね。何だか心が崩れていっちゃいそうで」
「……強大な力には対価というものが付きものでしょう。お嬢様もくれぐれもお気を付け下さい。魔法に没頭するあまり心を壊す者や、ネレイドに潜む悪魔に絆されて道を間違う者も多くいます」
「分かっているさ。僕には目的がある」
「……変わりませんね、お嬢様」
「勿論。受けた恩は大きいし……何よりも僕の『望み』だからね」
不安そうに魔道士としての感覚に眉を顰めたリリィに、シェヴィは真面目な表情のまま視線を揺らさずにまっすぐリリィの瞳を見据えた。
しかしリリィもまた凛とした表情を崩さず、瞳の奥に見えるのは確かな決意であった。
◆
貴族の邸宅地にただ一軒、ボロボロの屋敷があったことは今年9歳にもなるリリィも知っていたことだった。周りの同世代の子供たちは揃ってお化け屋敷と罵り、その屋敷に住む貴族の事情を知る者は恥知らずと罵っていたこともリリィの耳には入っていた。
何せ彼女の父親であるフロラウラ宮廷伯自身がそう口汚く零すこともあったからである。
「野蛮な戦しか知らぬからあのような様を見せることになる。だというのにこの国は政治の重要性を知らん」
愚痴る様にして酒を飲む彼に貴族としての高潔さがあったかどうかは微妙であるが、リリィはそんな父の姿を冷めた目で見つめていた。
何故ならば、既にその頃には貴族というものをリリィは朧気ながらも理解していたのだから。
自分がこの家で扱われる意味とその果てに迎える結末を理解したのは、7つ上の長姉が他の貴族に嫁ぎに行った時だった。
大きくも小さくもない屋敷の玄関にごてごての貴族服に身を包んだ、お世辞にも顔の優れていない中年の男が笑顔を浮かべ、長姉の手を握る。
その時期は結婚ということさえよく理解できなかったリリィであったが、彼女の姉が見せた表情だけは覚えている。
――――色を失い、空っぽの笑顔と、濁った瞳を浮かべた姉の姿。
その瞬間、リリィは身の回りの違和感に気付き始めた。
それまではどこにでもいるただの貴族の娘だったのだ。特別な様で特別でない。ただ優れた容姿だけを持つか弱き少女。
そうやって一年、二年と過ごしていけば、彼女はあまり笑わない無面の子となっていた。
そして、彼女は出会ったのだ。
同じく笑わない子供に。
周りの子供達や貴族の大人達の陰口を一向に気にした風でもなく、ただひたすらに狭い庭先で使用人らしき白髪の老人と剣を振る少年。
自分よりもずっと背が低く、ひょっとすれば老人の半分も行かない子供が自分と同じように笑顔を浮かべることなく無表情で剣を振るっている。
リリィはそんな姿を見るなり歓喜し、そして少年をねめつけるように見た。
父から聞いたセルグリム家の状況と、自分と同じ境遇に立ったであろう少年の表情。それを鑑みればその少年に共感し、そして同属嫌悪のように苛立つのは当然だった。
気付けば苛立った表情を隠さぬままにリリィは――――ディンとロンの前に飛び出した。
「おや……貴女は……」
「……誰だ?」
使用人であるロンは彼女の姿に覚えがあったが、ディンの方はリリィのことなど知る由もない。そしてその苛立ちの表情を浮かべる意味も。
そんな呆けたディンの様子もまたリリィを苛立たせる。
「……無駄だと思わないの?」
「は?」
「どうせ全部決まっているのに。貧乏な貴族の癖に」
「?」
ディンからすれば何が何だかさっぱり分からない状況に首を傾げる他なく、ロンは徐々に状況の表側だけを把握し始めとりあえずリリィを宥めようとするが、リリィは問答無用とばかりにロンをその幼い顔に似合わぬ剣幕で睨みつけた。
しかしリリィとて何か考えがあって此処に飛びだしたわけではない。
なんとなく心の逸るままに、自分と同じ境遇――――親の勝手に付き合わされる子供であるという一点が彼女を動かしてしまったのだ。
徐々にリリィは次に言う言葉を探して視線が右往左往し始める。膨れ上がる羞恥心と不安が弾けるのは早かった。
「う……う……」
「……何なんだ、一体」
「無駄に決まってるんだからね!」
さすがに一向に動かぬ状況にうんざりし始めたディンの態度に、リリィはただ吐き捨てるように叫ぶだけしか出来なかった。そしてそのまま脱兎のごとく走り去るリリィ。
ディンには、いや、ロンにさえも何の用があってなのか分かったものではない。ただ疲れたようにリリィの背中を見送り、何事もなかったかのように鍛錬に戻るだけだった。
しかしこの邂逅からリリィはしつこくディンの前に現れては、理由も分からぬ罵詈雑言を吐き捨てることとなる。
何度も、何度も。しかし笑顔を忘れ、感情さえ薄くなっていくリリィは確かにそこでは怒りに顔を歪ませることが出来ていたのだ。
◆
「ディン・セルグリム様、ですか」
「うん」
「…………」
「聞きたいことがあるならいいよ? 誰でもないシェヴィの頼みなら答えるさ」
言葉尻を渋り、いかにも聞きにくそうに視線を彷徨わせるシェヴィだったが、そんな彼女にリリィは無邪気な笑顔で答えた。
彼女はいつもそうである。ディンの話が絡むとすぐさまニヒル気味な表情を反転させ、身体全体で心躍る様を隠そうともせず露わにする。一般にリリィ・フロラウラが噂されることとはまるでかけ離れた、歳相応の態度。
そんなリリィにシェヴィは気付かず頬を緩ませていた。
「……ディン様も入隊試験を受けると聞いていますが、どうなるのでしょうね」
「そんなこと? もっと込み入った話でもいいのに……勿論受かるに決まってるさ。多分ローズも張り切るだろうしね」
「ローズ様が……?」
「ふふふ、こっちの話さ」
長く魔道士の教師としてリリィを担当してきたシェヴィにも、ローズとリリィが気心が知れた仲であるということは知っているが、その裏で今日はどのようなことが起きるかなどは知り得ていなかった。
無論ローズにディンとの接触を勧めたリリィが、今この瞬間、ローズのヴェスパーダがディンに向けられていることくらいは予期している。そして勝つということも。
「宝剣『ヴェスパーダ』、ただの剣に敗れる、ってね」
「お嬢様……? 今何と……?」
「多分フィンロード家としてはすぐにもみ消すだろうけどね。またローズが怒りそうだよ」
眩しいほどに高潔なローズが、家の名誉を守るために敗北をうやむやにされる。そんなことになれば彼女が顔を真っ赤にして怒ることなどリリィには簡単に予想できた。
どうせディンとも仲を深めるに違いないし、適当に一緒に話す機会でも作るか、などとリリィが思いついたのは此処だけの話。
「……ディンのあれはもう魔術って言うより魔法だからなぁ」
「魔術が魔法に? お嬢様、そんなことなどあり得ませんよ。魔術とは行使者だけで完結する技術。世界すら歪める魔法とは天と地ほどの差があります」
「……ま、知ってる人が知っていればいいしね。ああいった馬鹿げた強さにちょっとだけ憧れたりもするけど」
「お嬢様は騎士ではありません。それこそ前線で戦うのはディン様に任せればよろしいのでは?」
「分かってないなぁ、シェヴィは」
やれやれと言わんばかりに両手を上げたリリィが向けた視線の先は、屋敷の裏庭から見えるフラムバルド城。
彼女の脳裏に浮かぶのはヴェスパーダを解放して戦うローズと、山のように無表情のまま動かず対峙するディンの姿。
そんな光景を思い浮かべても尚、リリィの頭にディンの敗北という結末は浮かばなかった。
◆
良くも悪くもリリィにとってディンとの邂逅は『為になった』と言っていいだろう。
ほぼ事務的に鍛錬に没頭するディンに暴言を吐いても柳に風であったし、彼女は彼の様子を度々見るようになってしばらくして罵ることを止めた。
そうやってディン・セルグリムという少年を観察し続けていれば、世間に蔓延る子供よりも偏屈したものを抱えるリリィにとって、その異常に気付くのは早かった。
「君、何歳?」
「今年で7歳になるが」
「…………」
唖然としたのは当然の話であろう。自分より2つも下の男の子が尊大な物言いを放ち、使用人との鍛錬で交わす会話の中にも自分以上の知性が見て取れる。
本当はディンの機械的な態度が大人っぽいとリリィが勘違いしたことに他ならないのだが、兎にも角にもそんな見当違いを感じれば、一つの予想が彼女の脳裏を過る。
もしかすればディン・セルグリムという少年は、『考えること』が出来るほど大人ではないのかもしれないという突拍子もない考えだった。
「ねぇ、君はさ、自分の家が貧乏だって知ってるの?」
「……嫌みか?」
眉を顰めて嫌みと言い放った時点で自分の考えがどうしようもなく間違えていたことに、リリィは半ば八つ当たりのように久々にディンを罵った。顔は密かに赤らんでいた。
徐々に。徐々にリリィはディンとの触れあいを通して、様々な物を覚えていく。
セルグリム家の現状を理解しながらも面白くもなく、何より痛みを感じる鍛錬に終始打ちこみ、『騎士』になろうとする少年。
「……騎士になりたいの?」
「ならねばならん」
「誰のために?」
「……まぁ、両親のためということにしておくか」
勇気を出して聞いてみれば、帰って来たのはリリィが何よりも嫌悪していた言葉。
最初こそまるで山が噴火したように激昂した彼女だったが、やがてディンの苦笑の奥に潜む『ナニカ』に気付き始めた。
束縛? 諦め? それともただの勘違い?
しかしそれはリリィ自身とて気付かなかった、何よりも共感すべきものであった。
「何がしたいのかさえ分からない。まぁ――――騎士になりたいというのも暇つぶしだ」
何度もしつこくディンに問い質した先に待っていた答えは、リリィの心にストンと落ちた。
◆
「自由を求めるだけでは救われない。自由の先に何を為し得るか。それが本当の――――」
「……それは?」
「大切な、大切な言葉さ」
胸に手を当てて目を閉じたリリィは、自分だけが知る得体の知れない暖かさに頬を綻ばせた。
どこか突っ込んで聞いてはいけないようなリリィの様子に、シェヴィは黙って彼女が口を開くのを待つ。どこか遠くで鳩の鳴く声が聞こえた。
「最初は本当に理解し合えることが出来たと思えたんだけどなぁ。誰よりも理解出来ていたと思えたんだけどなぁ」
「…………」
「まだまだ答えは見えないね」
悲しげに笑うリリィ。
かすかに見えた目下の涙を拭い、大きく息を吐く。
「確かにあれは強さだった。この世の全てに目もくれず、全く心が動かぬままで生きていく。何もかもが暇つぶしで……自分自身さえも」
「…………?」
「答えをくれたのは彼だったのに、彼自身何も気づいていないんだ。いや、気付いているのに――――誰が彼の心を壊したんだろうね」
誰に問うでもなく呟いたリリィの言葉は、遠く空に吸い込まれていった。
自分だけが知るディンの心の底。自分自身が変わるきっかけとなった少年を想う自分の心。
沈黙を続けるシェヴィに振り返ったリリィの表情には、迷いなど欠片もなかった。
「最後の最後で自分の心を救うのはいつだって自分自身なんだ。だけど、もしもその途中で何か少しでも力になれたのなら、僕はこれ以上なく幸せだ」
「お嬢様……」
「そのためにはまずは強くなって彼の隣に立たないとね。もう僕のやりたいことは見つけてるんだから」
自信に満ち溢れた笑みをかすかに浮かべる。
ただ一人密かに心の底に潜めた決意を、彼女は裏切らないだろう。
リリィ・フロラウラは、常にディン・セルグリムの隣に在り続ける。
大切な人の隣で共に笑う。
それがリリィのただ一つの生き方であり、目的であった。
9歳「人生に自由がなくて、生きる意味が見つからないわー」
完全に年齢設定間違えたな……どこのロリババアだよ、これ。
まあどっかの9歳児も「名前を教えて!」とかいって魔砲ぶっとばすし別にいいか。
ということで露骨なテコ入れ。
リリィさんの描写が今まで薄かったので急遽そのうち上げようと思っていた番外編を繰り上げ更新。
つかローズさん人気すぎるだろ……というか本当にこれハーレムになんの?
いろいろ不安はありますが次もガンバルヨー。
ちょっと忙しいので次回更新はゆっくり。