第4話 「私だけ」は、たぶん罠
翌朝、教室に着くなり、私は昨日のことを美月に話してしまっていた。話すつもりはなかったのに、机に座った瞬間、口が勝手に動いていた。
「――で、『穂乃果には、こういうこと言ってもいい気がする』って言われて」
美月はしばらく黙って私の話を聞いていたけれど、話し終わるなり、盛大にため息をついた。
「穂乃果」
「なに」
「それ、沼男が一番言っちゃいけないセリフじゃない?」
「え」
「『君だけには特別なこと言ってる感』を出すやつ。一番タチ悪いやつだよ、それ」
言われて、頭の中に冷や水を浴びせられたような感覚があった。
「……そう、なの?」
「そうだよ。しかも本人、たぶん計算してやってないから余計にタチ悪い。無自覚に人を沼らせるタイプ」
美月の言葉は、いちいち的確で反論の余地がなかった。私は昨日、颯真の弱々しい表情に少しだけ心を動かされていた自分を思い出して、急に恥ずかしくなった。
「べつに、動揺なんてしてないから」
「顔赤いよ」
「暑いから」
「今、十月だけど」
言い返せなかった。私は黙って窓の外に視線を逃がした。
――特別だと思ったら、終わり。
そう自分に言い聞かせて、その日一日は颯真と極力距離を取ることに決めた。話しかけられても最低限の返事しかしない。目を合わせない。休み時間は美月と一緒にいる時間を増やす。徹底した回避策のはずだった。
ところが、その決意はあっさりと崩れることになる。
四時間目の体育。種目はバレーボールで、私たちのクラスは体育館の半面を使って練習試合をすることになっていた。私は運動が得意な方ではないけれど、それなりに真面目に参加するタイプだ。
レシーブの練習中、ボールが変な方向に飛んできて、それを追いかけようとした瞬間、足首を軽くひねった。
「あっ」
小さく声が出た。痛みはそれほど強くなかったけれど、ぐらついた体をどうにか支えようとして、床に膝をつく形になった。
「大丈夫?」
聞き覚えのある声が、思ったよりも近くから聞こえた。振り向くと、颯真がすでに私のすぐ横に膝をついていた。
離れたコートで別のメニューをやっていたはずなのに、いつの間にこんなに早くたどり着いたのか。周囲にいたクラスメイトたちが、驚いた顔でこちらを見ているのが視界の端に映った。
「大丈夫だから」
私はなるべく平静な声で答えた。それほどたいした怪我ではないと、自分でもわかっていた。
「保健室行こう」
「一人で行ける」
「知ってる。でも俺が行きたい」
その返答に、一瞬、言葉が詰まった。
「べつに、一ノ瀬くんが行く必要ないですよね」
「ある。心配だから」
周囲の視線が、痛いほど集まっているのを感じた。体育の授業中、クラスメイトたちの目がある場所で、こんなやり取りをされるのは正直かなり困る。
「立てる?」
颯真は返事を待たずに、自然な動作で手を差し出してきた。私はしばらくその手を見つめていたけれど、ここで意地を張って一人で立ち上がろうとするのも、逆に大げさに見える気がして、結局その手を借りることにした。
立ち上がると、思ったより痛みはなく、少し体重をかければ歩けそうだった。
「本当に、一人で保健室行けます」
「じゃあ、途中まで一緒に行くだけね」
「それ、ほとんど一緒に行くのと変わらないです」
「途中までって言ったでしょ」
屁理屈だと思ったけれど、この場で押し問答を続けている方が余計に目立つ。私は諦めて、体育の先生に一言断ってから、颯真と一緒に体育館を出た。
廊下を歩きながら、私は気づけば周囲の視線を意識していた。すれ違う生徒たちが、ちらちらとこちらを見ては、何か言いたげな顔をしている。特に女子の視線は、好奇心と、それから少しの棘を含んでいるようにも感じられた。
「一ノ瀬くん」
「なに」
「こういうことされると、誤解されるんですけど」
なるべく淡々とした口調で言ったつもりだった。抗議のつもりだった。
颯真は少し不思議そうな顔で私を見た。
「誤解されたら嫌?」
その問いに、私は言葉に詰まった。
嫌だ、と即答すればいいだけの話のはずだった。なのに、なぜか喉のあたりで言葉が引っかかって出てこない。誤解されること自体が嫌なのか、それとも誤解の内容――つまり、彼と付き合っているかのように見られることが嫌なのか、自分でもうまく整理できなかった。
保健室に着くまでの短い時間、私はずっと黙っていた。颯真もそれ以上何も聞いてこなかったけれど、時折こちらの様子を窺うような視線を感じた。
保健室の前で、私は立ち止まった。
「ここまでで大丈夫です」
「うん。じゃあ、あとで様子見に来るから」
「来なくていいです」
「行くよ」
そう言い残して、颯真は体育館の方へ戻っていった。
保健室では、湿布を貼ってもらい、たいしたことはないと言われて安心した。
授業が終わるまで少し休んでいくように言われ、私はベッドに腰掛けながら、先ほどの問いを何度も反芻していた。
――誤解されたら嫌?
普通に考えれば、答えは「嫌に決まっている」だ。好きでもない相手と噂されるのは、誰だって気分のいいものではない。
それなのに、どうして私はあの場でそう言えなかったのだろう。
その理由を考えれば、何か認めたくないものまで見えてしまいそうで、私はそれ以上考えるのをやめた。
やがて昼休みになり、そろそろ教室へ戻ろうとベッドから立ち上がったところで、保健室のドアが開いた。
「穂乃果、もう大丈夫?」
聞き覚えのある声に、思わず振り向く。
一ノ瀬くんが、当然のような顔で立っていた。
「……本当に来たんですか」
「行くって言ったでしょ」
「だから来なくていいって言ったのに」
「歩ける?」
「普通に歩けます」
そう答えたのに、颯真は私の隣に並んだ。
「じゃあ、一緒に戻ろう」
「一人で戻れます」
「知ってる。でも俺も教室に戻るから」
それを言われると、今度こそ断る理由がなかった。
二人で教室へ戻ると、美月が待ち構えていたように駆け寄ってきた。
「聞いたよ、一ノ瀬くんが保健室まで付き添ったって! もう学年中の噂だよ」
「大げさだから、それ」
「大げさじゃないって。他のクラスの子から回り回って、私のところまで噂が来たんだよ。拡散速度おかしいから」
隣にいた颯真が、少し意外そうに眉を上げた。
「そんなに広まってるんだ」
「一ノ瀬くんが目立つことするからでしょ」
「俺、普通に心配しただけなんだけど」
悪びれる様子もなくそう言う颯真を見て、頭が痛くなってきた。噂というのは、こちらの意思とは関係なく、勝手に膨れ上がっていくものらしい。
☆
家に帰ってから、私は自分の部屋のベッドに横になって、天井をぼんやりと見つめていた。
今日一日のことが、何度も頭の中に浮かんでくる。
足をひねったとき、真っ先に駆け寄ってきたこと。
保健室までついてきたこと。
昼休みになれば、本当に迎えに来たこと。
ただ心配しただけだと、一ノ瀬くんは言った。
きっと、本人にとっては本当にそれだけなのだろう。
それなのに私は、あのとき差し出された手や、「心配だから」という言葉を、どうしても忘れることができなかった。
毒キノコに近づいてはいけない。
わかっているはずなのに、気づけばまた一歩、距離が縮まってしまっている。
そのことに、私は少しだけ焦りを覚え始めていた。




