第4話:不毛の地に咲く『音の花』
追手である音響艦隊の警笛が、夜の帳の彼方へと遠ざかっていく。
レゾ・デコードが操る小さな小舟は、国境を越え、かつて『共鳴の谷』と呼ばれた放棄地帯へと辿り着いていた。
そこは、音を失った場所だった。
かつては豊かな音楽と魔力が溢れていたはずの村は、度重なる戦争の「不協和音」によって土地の基音が破壊され、今はただ、暗く凍りついた廃墟が広がっている。
シエル・フェルマータは、小舟の縁を握りしめ、不安げに周囲を見渡した。
塔の外の世界は、彼女が想像していたよりもずっと寒く、そして静かだった。
「……ここ、は……?」
喉の封印を一時的に調律されたシエルの声が、微かな震えとなって大気に溶ける。
レゾは、彼女の声が作る波形の「揺れ」を瞳に捉え、静かに頷いた。
「ここは、音が死んでしまった村だよ。でも……だからこそ、僕たちには都合がいいんだ」
レゾは小舟を降りると、村の中央にある、枯れ果てた広場に立った。
地面はひび割れ、生命の拍動は一切感じられない。
レゾは、自分の指先をじっと見つめた後、それを地面に深く突き立てた。
シエルが息を呑む。
レゾの指先から、碧いグリッチのような光の糸が、幾筋も地面の下へと潜り込んでいくのが見えた。
「――デコード。基音の修復、開始」
レゾの視界には、地層の奥底で千切れ、ねじ曲がった「音の神経」が視えていた。
彼は耳を澄ます代わりに、指先を通じて大地の「悲鳴」を読み取っていく。
バラバラになった周波数を一本ずつ手繰り寄せ、正しい和音へと結び直す――それは、数万人の魔導師が集まっても成し得ない、神業に近い「調律」だった。
――ピーン。
あの日、戦場を貫いたあの水滴の音が、地下から響いた。
刹那、奇跡が起きた。
凍りついていた大地に、ドクン、という巨大な心音のような振動が戻ったのだ。
ひび割れた土から、目に見えるほどの「音の粒子」が光となって噴き出す。
枯れていた木々が、カサカサと鳴りながら一斉に芽吹いた。
それだけではない。広場の中心に、透明な「音の結晶」が花のような形をして咲き誇り、そこから柔らかなハープのような旋律が流れ始める。
それは、失われたはずの生命の音だった。
「わあ……っ」
シエルは思わず駆け寄り、その光り輝く花に手を伸ばした。
触れた指先から、あたたかな振動が体中を駆け巡る。
呪われた『フェルマータ』の力によって、自分から逃げ去っていたはずの「世界の輝き」が、今、レゾの指先によって目の前に差し出されていた。
「これなら、君も寒くないよね」
レゾは、少しだけ疲れを見せながらも、満足そうに笑った。
この『共鳴の谷』は、もはや死の土地ではない。
レゾが書き換えた独自の物理法則によって守られた、世界で唯一の『聖域』となったのだ。
シエルは、レゾの顔をまじまじと見つめた。
戦場を無音に変える冷徹な「怪物」としての彼と、こうして枯れた村を救う「調律師」としての彼。
「……レゾ、あなたは、だれなの?」
その問いに、レゾは少し困ったように眉を下げた。
彼は自分のマフラーを少し整えると、夜空に浮かぶ、不規則な軌道で光る星々を指差した。
「僕は、ただの修理屋だよ。この世界は、あまりにもノイズが多すぎるから。……それに、君の歌を聴くための『特等席』を作らなきゃいけないしね」
特等席。
その言葉に、シエルの頬がわずかに赤く染まる。
生まれて初めて言われた、自分が必要とされているという言葉。
だが、安らぎは長くは続かなかった。
レゾの瞳が、急に鋭い光を帯びる。
「……シエル、後ろに」
レゾは彼女を庇うように一歩前に出た。
村の入り口、暗い森の中から、カチャリ、と「楽器を構える」音が響いた。
しかし、それは軍隊の放つ暴力的なノイズではない。
もっと鋭く、もっと澄んだ、「一振りの刃」のような研ぎ澄まされた音。
「……まさか、不毛の地を『演奏(再起動)』する者がいるとはな。しかも、これほどまでに清らかな律動。お主、タダのデコーダーではあるまい」
暗闇から現れたのは、ボロボロの和服のような装束を纏い、背に巨大な琵琶を背負った、一人の盲目の男だった。
男の腰には、抜けば空気を切り裂くであろう、音響振動を纏った刀が差されている。
東方の『八百万の静域』から来た刺客か、あるいは。
「僕たちの静かな生活を邪魔しに来たなら、帰ってもらうよ」
レゾが指を構える。
男はニヤリと不敵に笑うと、背負った琵琶の弦を、爪先で一弾きした。
――ベンッ!
放たれた音の刃が、レゾの頬をかすめ、背後の大樹を真っ二つに叩き斬る。
レゾとシエルの「安住の地」を懸けた、最初の試練が幕を開けようとしていた。




