第2話:フェルマータの王女
その場所には、窓が一つしかなかった。
空に突き刺さるようにそびえ立つ、黒亜の塔――『沈黙の塔』の最上階。
シエル・フェルマータは、その窓から遠い戦場を眺めるのが日課だった。
視界の端で火の手が上がり、雷鳴のような重低音が地響きとなって塔の壁を震わせる。けれど、彼女の耳に届くのは、常に死んだような静寂だけだった。
この塔の周囲数キロメートルには、特殊な音響結界が張られている。
外からの音はすべて遮断され、内からの音――すなわち、シエルの「歌」が漏れ出すことも決して許されない。
「…………」
シエルは自分の喉に触れた。
そこには、冷たい銀のチョーカーが皮膚に食い込むほど厳重に嵌められている。
軍事国家シレンツィオが、その「最終兵器」を繋ぎ止めておくための封印具。
彼女が唇を戦慄かせ、一音でも発すれば、この塔は内側から崩壊するだろう。
彼女の宿す魔力特性――『フェルマータ(終止符)』。
それは、周囲のあらゆる振動(生命エネルギー)を強制的に停止させ、永遠の静止へと追いやる呪いだった。
かつて、幼い彼女が「お母様」と呼びかけたとき。
愛した母は、歌うような優しい声を上げたまま、灰色の石像となって砕け散った。
それ以来、シエルは「声」を捨てた。
言葉を紡ぐ代わりに、彼女はただ、止まった時間の中に立ち尽くしている。
――私は、世界の終わりを告げるための楽器。
シエルは力なく瞳を閉じた。
あと数日もすれば、総攻撃の合図とともに、この封印は強制的に解除される。
彼女の歌声は、戦場に響き渡る殺戮のオーケストラに「終止符」を打ち、敵も味方も、生きとし生けるものすべてを沈黙(死)の底へ沈めるだろう。
その時だった。
不意に、窓の外の景色が「変わった」のを、彼女の鋭い感覚が捉えた。
遠く、地平線を焼き尽くしていた真っ赤な戦火。
暴力的な重低音とともに雲を裂いていた黄金の音波。
その混濁した色彩の嵐が、ある一点から、吸い込まれるように白く、透明に透き通っていく。
「…………?」
シエルは窓枠に指をかけた。
それは、彼女が知る「死の静寂」とは違った。
もっと穏やかで、清らかで、まるですべての音が「あるべき場所」に帰っていくような、不思議な光景だった。
色彩の波を割り、一艘の小さな小舟がこちらへ向かってくるのが見えた。
豆粒ほどに小さな人影。
激しい迎撃の音響弾が、その影に触れた瞬間に「音の粒子」となって霧散していく。
ありえない。
この国の最強を誇る音響騎士団の攻撃を、あんなにも容易く「無効化」できる人間など、この世に存在するはずがない。
その影は、一直線にこの塔へと向かっていた。
塔の守備隊が色めき立つ気配が、床の振動を通じて伝わってくる。
重厚な扉の向こうで、兵士たちが楽器(武器)を構え、迎撃の旋律を練り上げる音が、魔導回路を通じて不快なノイズとして響いた。
――来る。
シエルは息を呑んだ。
塔の防御壁は、国家級の合唱団が一年かけて編み上げた、難攻不落の「結界和音」だ。力任せの破壊など、到底不可能。
だが、その予想は裏切られた。
破壊の音はしなかった。
ただ、カチリ、と。
パズルの最後のピースが嵌まったような、心地よい音だけが響いた。
次の瞬間、塔を包んでいた重苦しい結界が、光の塵となって剥がれ落ちる。
無理やり壊されたのではない。
まるで、鍵穴に正しい鍵が差し込まれ、優しく解錠されたかのように。
そして。
誰も入ることのできないはずの、沈黙の部屋。
その重い石扉が、音もなく開いた。
逆光の中に、一人の少年が立っていた。
灰白色の髪。
碧い瞳。
戦場を抜けてきたとは思えないほど、穏やかで涼しげな顔をした少年。
シエルは恐怖よりも先に、困惑に身を震わせた。
彼からは、何の音もしない。
殺意も、高揚も、魔力の発動音さえも。
少年は、部屋の中央に座り込むシエルを見つめると、ゆっくりと歩み寄ってきた。
シエルは咄嗟に喉を抑え、後ずさる。
「(来ないで……!)」
声にはならない警告。
「触れれば死ぬ」という絶望。
だが、少年はその歩みを止めない。
彼はシエルの目の前で膝をつくと、まるで見覚えのある楽譜を確認するかのように、彼女を優しく見上げた。
「……君が、シエル?」
少年の声は、驚くほど澄んでいた。
耳が聴こえないはずの彼の発声は、どこか浮世離れしていて、だからこそ真実に満ちていた。
少年は、驚愕に固まるシエルの喉元――あの銀の封印具へと、迷いなく指を伸ばす。
「(ダメ……!)」
シエルが瞳を閉じた瞬間、少年の指先が冷たい金属に触れた。
刹那。
彼女の喉から、永遠に消えることのなかった「死の振動」が、一瞬にして吸い取られていく。
暴力的な魔力の奔流が、彼の指先を通じて「解読」され、別の形へと組み替えられていくのがわかった。
シエルが恐る恐る目を開けると、そこには、封印具の表面に浮かび上がる複雑な波形を、楽しそうに「指でなぞる」少年の姿があった。
「はじめまして、シエル・フェルマータ。僕は、レゾ・デコード」
彼はそう言って、悪戯っぽく微笑んだ。
「君のその『音』、ちょっとだけ調律させてくれるかな?」
止まっていた世界が、今、猛烈な勢いで拍動を始めた。
シエルの瞳から、一滴の涙がこぼれ落ちる。
それは彼女の人生で初めて、恐怖ではなく「期待」によって震えた、最初の共鳴だった。




