(3-2)
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険しいけれどつつじヶ丘への近道である、つづら折りの道から落ちたТ型フォードには、春生と侯爵様ご夫妻が乗っていた。事故に気づいて村人たちが駆けつけたときには、三人ともすでにこと切れていた。リンカーンを運転して先行していた山田さんは、遠回りでもなだらかで安全な裏道を登ったので、無事だった。
この春から侯爵様ご夫妻は、春生の運転する円タクを頻繁に利用なさった。豪奢で見栄えのするリンカーンをお持ちなのに、わざわざ運転手初心者の春生をご指名の上、用事があってもなくてもТ型フォードに乗って、お出かけになったのだ。
あれやこれやと心配して気を揉んだ山田さんは、侯爵様にその旨を申し上げた。それならばついて来るがいいと言われ、結局折れた。同乗はせずにリンカーンで伴走することになったのだ。
山田さんはこの妥協案に至った成り行きを、後々何度も思い返しては悔やんだ。その都度あたしは山田さんを慰め、力づけてあげなきゃならない立場になった。でも、おかげで自分の悲しみがほんの少しだけ、紛れたように思うのだ。
あたしは山田さんに訊いた。訊かずにはいられなかった。
「春生の運転は下手クソだったの?」
気休めでもお追従でもない、本当のところを知りたかった。山田さんは間髪入れずに即答してくれた。
「いやいや、そんなことはないです。むしろ、かなり上手いほうだとボクは思いました。コーナリングの反応も抜群によかった。第一、下手だったら乗っていてわかりますし、あの侯爵様が運転を任せたはずはないのです」
もっともなことだ。でも、あたしはもうひと押し言わずにいられなかった。ほとんど八つ当たりみたいなものだったけど。
「じゃあ、なんで落ちたのよ?」
「それは…。わかりません。ボクだって知りたい。そもそも、つづら折りの道は通らないはずだったんです。だからボクは先に登ってしまって、ぼうっと待っていたんだ」
思いがけず山田さんの両目に涙が溢れ、滂沱と流れ始めた。大人の男がこんなふうに、手放しで泣く姿なんて。目の当たりにするのが初めてだったあたしは、びっくり仰天してしまった。
追々わかったことだが、山田さんの感情はいつもあたしより、一歩先んじて溢れ出るのだ。それも、中々半端ない激しさで。いつだってあたしは一歩出遅れ、取り残されて泣きそびれた。
「…こんなはずじゃないんだ。春生くんは二十一歳になったんだから、死ぬ恐れはもうないと思った。侯爵様ご夫妻もボクも当人も、そう信じた。だからこんなこと、起こるはずはないのに。まったくもう、一体全体、どうなってるんだよぉ?」
悲しみのあまりに錯乱して、山田さんの頭が完全にイカれてしまったかと、あたしは訝った。それくらい鬼気に迫って怖かった。
それにしても、わけのわからない話だった。事の次第がわからなすぎるあたしは、つい思った通りの些末なことを口にした。
「あのね。春生は二十歳だよ。あたしと同じ大正四年生まれだもの。まだ二十一歳にはなっていなかった。なんなのよ?その話」
天を仰いでいた山田さんは、ふっと真顔になってあたしを見た。
「春生くんから聞いたことないですか?いろいろ事情があって出生届が一年遅れたけど、本当は大正三年生まれだってこと」
言われてみれば、あったかも知れない。でも、赤ん坊のときのことなんかなんにも覚えていない。春生は言ったのだ。自分はどっちでもいい、だから相手の言うように合わせる。そんな感じで。
村の人たちや学校の先生や生徒たち、そして小母さんとあたしが知っている春生。春生本人が知っている自分。それは大正四年生まれで、この春二十歳になったばかりの春生だ。どう見たってこっちのほうが道理だろうと、あたしも思ったのだ。
納得いかない様子の山田さんは、念を押すように食い下がる。
「本当は二十一歳だと、春生くんはボクの父親にも侯爵様にも、はっきり言いましたよ」
「言ったかもね。けど、それはたぶん、どっちでもよかったからだよ。あのね、二十一歳になっていれば春生は死ななかったの?そんなふうに聴こえるんだけど。そんなこと、だれに言われて信じたの?なんかヘンテコでムリな話だと、思わなかった?」
「ヘンテコでムリ、ですか?」
山田さんは苦しそうに顔を歪めた。こんなこと、いまさら言ってもしようがないと、あたしだって気づいている。春生は死んでしまったのだ。それでも、だれかにぶつけずにはいられなかった。ぶつけさせてくれる相手が、この山田さんのほかにはいないのだった。
「何歳だってだれだって、死ぬときは死ぬでしょ。地震とか戦争とか病気とか事故とか。死ぬ理由なんて、いっぱいあるでしょ。
それじゃ春生は、もう二十一歳になったから大丈夫って、安心していたわけ?自分は死なないはずだと信じていたの?」
「そうだったかも知れません。わかりませんが。ただ、去年より今年のほうが、明るく前向きになったように見えました。残念です」
あたしも遣る瀬ない気持ちでいっぱいだった。ちょっと見は能天気なあの春生が、そんな重い呪縛に囚われていたなんて。その辛さを、ほんの欠片もあたしには見せないでいたなんて。あんまりだ。やり切れない。あたしは怒りに震えた。
「ねえ。だれが言ったの?春生が二十歳で死ぬなんて。そんなバカらしいこと、一体全体だれが決めたのよ?」
恐ろしく残酷で非道な、知りたくもない予告めいたことを。山田さんはうろたえ、しばし口ごもり、言いにくそうにつぶやいた。
「それはつまり、手っ取り早く言ってしまうと、夢です」
「夢って、なによ?だれが見たの?」
あんまり浮世離れしているので、あたしは言い出しそびれていたその言葉が、山田さんの口からあっさりと出た。拍子抜けがした。あたしは怒りも笑いも出来ずにただキョトンとして、山田さんの話の続きを聴いた。
松枝清顕が書き残した『夢日記』のこと。命を失うに至った綾倉聡子との恋。加えて、生まれるはずではなかったのに、滝田春生として育った赤子。
松枝清顕の生まれ変わりと称するに最もふさわしく、申し分のない存在。だからこそ予告された通り、たった二十歳で命を落とした春生。死亡年齢のプラス一歳はこの際、時空の歪みか何か、自然発生的誤差の範囲内と解釈するしかないですね。そんな口調だった。
山田さんは疲れ切った表情で、コップ酒を一気に呷った。
「というわけで、事態はこの結果に至った次第です。ゆえに、ボクの役目はこれで終わりました。今夜は飲みます。構いませんよね?侯爵様ご夫妻と春生くんと、お別れする通夜ですから。
お弔いが済み次第、ボクは消えます。村の皆さんやサチさんともサヨナラです。ボクがここにいる理由はもうありませんので…」
山田さんともお別れなのかとあたしは思い、まあしょうがないかとも思った。ちょっと寂しいけどじきに慣れるわ、きっと。心は平静だった。山田さんを引き留めるつもりなど、さらさらなかった。
それなのに、あたしの口から思いがけない言葉がすべり出た。
「そのおふたりを夢で見たわ。水色の着物の綺麗なお姫様が、詰襟の若様を『清様』って呼んだの。あの方は『アヤクラ様』の聡子さんというのね。やっとお名前がわかって、よかったわ」
夢の中のあたしが松枝清顕になっていたことは、さすがに言えなかった。そこまで言うと恋人たちの間に立ち入り過ぎるようで、あたしだって気まずい。この山田さんとするべき話じゃない。
ところが。
山田さんのゆるんだ泣きベソ顔が、見る見るきりりと引き締まり、怖いくらいのマジ顔に変わった。おもむろにコップ酒をテーブルの隅に押し退け、ぶるっと身震いをして酔眼を無理やり見開いた。
空中の一点を見据え、その体勢でたっぷり一分間は静止した。目を開けたままで眠ってしまったのかと、思ったくらいだった。
いきなりシュッと背筋を伸ばし、正座して顔を上げた山田さんは、すっかり目醒めた面構えであたしに詰め寄った。
「夢を、見たんですね?サチさんが。松枝清顕と綾倉聡子の。確かですね?それはつまり、いわゆる逢いびきの場面でしたか?」
「まあ、そんなような感じだったかしら。あ。聡子さんは、大きな真珠が三つ並んだ帯留めを着けていたわ。侯爵様の奥方様が着けていらしたのと、よく似た帯留めでした」
感に堪えないと言うように、山田さんは深いため息を吐いた。
「それは間違いなく、同じ帯留めです。出家なさる聡子さんから侯爵夫人へ、形見として贈られたものだと伺ったことがあります」
夢の中で見ただけの、お人形のようだった聡子さんという女性が、にわかに実在の人物として近しく感じられた。あたしの中では、つつじヶ丘の邸宅にお住まいだった侯爵様の奥方様と同じように、あのお邸にふさわしいお姫様として。
そんなもの思いにとらわれたあたしの目の前で、山田さんはひと際あらたまって居ずまいを正した。言いにくそうに咳ばらいを繰り返したのち、切り出した。
「サチさん。失礼は重々承知の上でお尋ねします。どうかお許しください。これは大切な事です。決して、下卑た興味本位で訊くのではありません。どうかボクを信用して…」
「あの。はっきり言ってくれないと。なんのことかわかりません」
「はい。ごもっともです。ええと。つまりです。サチさんはもしや、春生くんの子を身籠っておられませんか?」
さぞかし訊きにくかったのだろう、山田さんは顔面が真っ赤になっている。もちろんあたしにとっても、答えにくい直球すぎる質問だった。だから絶句してしまう。答えようがなくて、弱った。
でも。怒ったり恥ずかしがったりしている場合じゃないのだ。出来れば言わずにすませたい。だけど実は、あたしの生理はもう三週間も遅れていた。
この三週間、ずっと目を背けていた難問だった。だから今日こそは是非とも春生に、いろいろと訊きたかったし話したかった。そう思った理由の内でもなにより一番、大きかったのがこれだ。
あたしは弱り果てた。いまここではわからないとしか、言いようがないから。なのに、山田さんはなんだかやけに嬉しそうだ。
さっきまでどんより濁っていた両の目が、四角いメガネの奥でキラキラと輝き始めた。口元も小さな笑窪を浮かべ、ほころんでいる。山田さんに笑窪があったなんて、ちっとも知らなかった。そもそも笑顔をちゃんと見たことが、なかったのだ。
あたしが返答に窮して弱るほど、山田さんは嬉しそうに活気づく。なぜか知らないけど、あたしの妊娠を確信しているみたいだ。当のあたしはただひたすら不安な気持ちでいっぱい、どっちとも答えられないのに。
「なんか喜んでいるみたい。あたしはなんとも言ってないですけど」
「ですよね。しかしボクはうれしい。なぜだかわかりません。しかしボクにはわかるんです、これだけは。ボクたちはきっと、春生くんの子に会えます」
思ったより飲み過ぎていて、酔いが醒めきっていないのだろうか。あたしは思った。山田さんがこんなふうに、夢見るようなもの言いをする人だなんて、ちっとも知らなかった。
それとも。山田さんもなにか、予告めいた夢を見たのかしら。その顔には、にこやかな笑顔が貼りついている。まるで、ふだんからいつも笑顔でいる人のような、板についたにこやかさだ。
「これからお話しすることはすべて、松枝侯爵のご遺志です。公には出来ませんが、清顕さんの血を引く子どもが存在すると確認された時点で、『松枝清顕記念児童育成基金』が発効します。松枝侯爵家に残った財産の全てが、投入された基金です。
後継者がいないために家が絶え、いずれは国庫に収められる松枝侯爵家の資産を、清顕さんの隠された子孫のために使えるよう、侯爵様が知恵を絞って準備なさったものです。僭越ながらこの山田エイジもお手伝いさせて頂きました。基金が発効した暁には終身管財人としてお仕えするよう、指名されております」
ちょっとばかり長すぎる上に、ちょっとどころじゃなくややこしい話だった。あたしのものごとを理解する力と、そのために気持ちを集中させる力。もともとたっぷりあったわけじゃないけど。それがこのごろはひどく薄く弱くなっていて、眠気に負けてしまうのだ。この三週間ばかりはとくに激しく、一日中眠くて堪らなかった。
たぶんそのせいで、あたしはまた些末なことに気持ちが逸れた。
「山田エイジさんというお名前なんですね、どんな字書くの?」
「はあ。衛兵の衛に、サムライの士と書きます」
ちょっと難しめだけど、あたしにも書けなくはない字だった。
「なんかいい感じね。護ってもらえそうな、頼もしい感じがする」
「はあ。それはどうも。甚だ恐縮です」
山田衛士さんはひと際うれしそうに、にっこりと笑った。
だけど。もしも山田さんの思惑通りに、あたしが春生の子を産んだとしたら。思い浮かぶのは、親たちの渋い顔だ。あたしには既婚の兄が二人いる。出戻りの姉と小さな弟もいて、皆が同じ家に住んでいた。その中で未婚の母になったら。あたしの立場はどん底に転落、もうタキタの娘じゃない、ただの恥さらしな居候だ。
ぼんやりと曇って晴れない頭でも、それだけはよくわかった。否応もなくわかった。
でも。ひょっとして。侯爵家の財産を使える春生の子を、産むことになりそうなあたしは、つつじヶ丘のお邸に住まわせてもらえたり、するんじゃないのかしら?
期待に満ちて尋ねたあたしに、山田衛士さんは告げた。
「お望みならば可能ですよ。お邸の買い手を探すより、その方が好ましいかも知れません。ただ。サチさんがつつじヶ丘のお邸にお住まいになるとしたら、我慢してもらわなくちゃならないことがありますので…」
「なに?早く言ってください」
ったくもう。山田衛士さんの話は前置きが長い。あたしはちょっとばかり、イラついてしまう。そこへもって、これ以上の我慢とはいったい何?
「戸籍等の正式な書類上に、清顕さんと春生くんの父子関係はまったく記載されていません。春生くんは両親が不明の完璧な孤児であり、松枝侯爵家にとっては存在しないも同然の人物です。
つまり、春生くんの子に松枝侯爵家の財産を相続させるために、当局を納得させ得る法的根拠が、どこにもないのです。そこで侯爵様は一計を案じ、遺言を残されました。内容はごく単純です。春生くんの子と見なされる子を、侯爵様御自身の庶子と認め、唯一の相続人とするものです」
「それじゃ、あたしが我慢しなくちゃならないことっていうのは…」
「端的に言って、不名誉ですね。松枝侯爵の囲い者だったのかと、後ろ指さされる恐れが大いにありますので。実際の話、侯爵様には過去にホンモノの囲い者だった女性が二人いて、その子どもたちも合わせて三人いました。いずれもとっくに中年を過ぎて、庶子としての身分を弁えた暮らし方をしています。たまさかにも遺産分配の請求などしないでしょうが、念には念を入れて、侯爵様は万全の備えを施されたわけです。
それというのも、サチさん。松枝侯爵家の財産は、もはや無尽蔵ではないのです。脅かすつもりはありませんが、決して無駄遣いはできません。ボクの概算では、三人の庶子にいくらかでも分け与えたら、不足が生じることになります」
「ふそくがしょうじるって?」
「春生くんの子を育てるために必要なおカネが、足りなくなるという意味です。そこのところをお忘れなく、くれぐれも用心して頂きたいのです」
そんなのは困る。ようやく念願叶って、つつじヶ丘のお邸に住めそうなのに。肝心要のおカネが足りないなんて、絶対的に困る。そしておカネの不足と同じくらいに、侯爵様の囲い者と呼ばれそうだというのも、困るしなんとも癪に障る。
「あたしのオトコは春生一人だけだってこと、村の人はみんな知ってると思うけど」
「かも知れません。それでも後ろ指さしたいのが、ヒトという生きものです。サチさんの場合は、さらに微妙です。思い出してください。子どもの父親が春生くんであってはマズイのですよ。四六時中、それを忘れずにいてください。父親はあくまで、松枝侯爵でなくてはなりません。いかにも、我慢しにくいことでしょうが…」
でもそんなこと。一体だれがわざわざ知りたがるのよ?
「たとえばですね。『今宵の明星』なんて婦人向け月刊誌は、芸能人の色恋沙汰と同じくらい、貴族階級の噂話が得意分野です。
『東方日々新聞』とか『窓辺の彩り』なんていうのも、インテリを気取ってますが、その実、上流階級の人々を貶める機会は逃さず活用したがるので、油断がなりません。
読んだことありますか?おや、毎号読んでるの?愛読者でしたか。どれも面白いでしょ?これこそが、庶民の娯楽ですから」




