SACHI(3-1)
(3-1)
侯爵様の別邸を目指して、黒いТ型フォードがつつじヶ丘を登ってゆく。それは春生が運転する円タク、乗客はもちろん侯爵様ご夫妻だ。賃走中の円タクはのっそりと、登り口で一旦停止する。さも、しょうがなく止まるのだと不満げに。のち、Т型フォードらしく息を吹き返し、ぶぉんと走り出す。つづら折りが幾重にも連なった長い坂道を、ガタゴト揺れながらゆるゆると登ってゆく。
自動車ってあんなにも揺れるものなんだ。
麓から眺めるあたしは、ちょっとびっくりだ。自動車だから、馬車じゃないから、もっとすいすい走るものだと思っていたのに。黒いТ型フォードは右に左に大きくふらつきながら、ようやっと登っている。それがデコボコ路面のせいなのか、それとも春生の未熟な運転のせいなのか、あたしにはわからない。
だって。
あたしは春生が運転するТ型フォードに、乗せてもらったことがないのだ。まだだと言って、春生はあたしを乗せてくれようとしない。まだ早い。春生がそう言うのは、自分が運転免許取り立てだから。一円タクシー運転手としても、なり立ての新米ホヤホヤだから。そしてあの黒いТ型フォードは、雇い主であるタクシー会社のものだから。
でもね。
あたしは知っている。春生はまだ中学生の頃から、山田さんが乗って来た侯爵様の自動車で、こっそり運転のやり方を教わっていたこと。侯爵様の自動車にはリンカーンという素敵な名前があって、どっしりと大きく美しい黄金色に輝いている。Т型フォードとは段違いに、豪華絢爛で立派だ。どこからどう見たって、中学生に運転の練習をさせていい自動車には、見えない。
いつか乗せてもらえるなら。
実用一点張りで無骨な円タクのТ型フォードじゃなく、豪華絢爛で美しいリンカーンの方が断然いいと、あたしは思っている。
だけどたぶん、思うだけで終わるんだろうな。だって、春生は自動車そのものに夢中だ。なによりも大好き、だれよりも大切なものだから、いつかあたしを乗せてくれようなんて、たぶん、考えてもいないのだ。
負け惜しみでもなんでもなく。
そんなとき、春生にとってあたしが一番じゃないと感じるとき。その問いはそっくりそのまま、自分に返って来る。
この春、侯爵様ご夫妻は都内のご本宅を引き払い、つつじヶ丘の別邸に移って来られた。すでに貴族院議員を辞してご隠居の身である侯爵様は、この地で余生を送るとお決めになったのだ。
お触れが出て、村じゅうの者たちがお手伝いに駆り出された。あたしもお掃除のお手伝いに馳せ参じた。村人たちの働きで、歳月にくすんだお邸や前庭がさっぱりと明るく甦った。侯爵様ご夫妻はたいそうお喜びになり、初夏の一夜、村人たちをねぎらう宴を催してくださった。
余興の花火が打ち上がる爆音と、人々の歓声や歌声の合間をすり抜けて、侯爵様ご夫妻のひそやかな会話があたしの耳に届いた。決して、聴き耳を立てていたんじゃない。奥方様のご用を言いつかるようにと、割り振られてお側近くに控えていたのだ。
「…だれにも似ていないんじゃないのか、あれは」
侯爵様がふっと視線を投げた先にいるのは春生だと気づいて、あたしは緊張した。侯爵様ご夫妻の間で春生が話題になっている。どうしたって、聞き捨てならない成り行きだった。
「あら。アヤクラ様の面影があるように、わたくしには思えますわ」
「なんと。あの青白く浮腫んだ糖尿持ちの老人と、どこが似ている」
「そうね。たとえば六十年若返ったアヤクラ様が、毎日外仕事に出て日焼けをなさったら、あんな感じになりそうですわ。それと…」
「なんだ?」
「額と眉のあたりを横から見ると、あなたにもよく似ていますわ」
ほほほほほ。
宵闇の中で奥方様は楽しそうにお声を弾ませ、お笑いになった。淡い黄金色のお召し物に朱色の花柄の帯を合わせた装いは、ほどよく華やかで決して派手過ぎず、とてもよくお似合いだった。
まるで謎々(なぞなぞ)のようなお二人の会話を反芻しつつ、あたしは奥方様のお姿に見惚れていた。侯爵夫人というご身分を肌に馴染んだお召し物のように着こなし、優雅に佇んでおられるそのお姿。
この方のようになりたいけどきっとなれやしないんだわあたしなんか。溜め息をついたあたしの目に、その帯留めの飾りが飛び込んできた。三つ並んだ見事な大粒の真珠。夜目にも貴い輝きを放っているそれが、正真正銘の本真珠だってことくらい、あたしにもちゃんとわかった。
うちの母さんの箪笥にも、真珠のついた帯留めがしまってあったから。ときどき、こっそり取り出して眺めるのが楽しみだった。だけど奥方様のそれは段違いの高級感、母さんの真珠とは比べものにならない美しさだ。あたしはまるで惚けたように、奥方様の真珠の帯留めから目を離せずにいた。
春生と言葉を交わすゆとりもないまま宴の夜は更けて、ついにお開きとなった。なんだかつまらなかった。漏れ聞いたアヤクラ様というお名前のこと。この世のものではないように美しい、奥方様の帯留めのこと。話したかったのに春生はずっと山田さんのそばにいて、あたしにはチラとも目を向けてくれないのだ。
アヤクラ様ってだれ?もしかすると春生自身より、山田さんのほうがよく知っていることかも知れない。だからって、あたしが直接山田さんに訊くなんて、そんなことは出来ない。あたしはただの春生の同級生、村に大勢いるタキタの娘のひとりにすぎないのだから。
アヤクラ様という方は、一体だれなんだろう。もしかして春生のお祖父さまだったりする?家に帰る道々ずっと心の中で、その疑問をあちらこちらと転がしていたせいだったかも知れない。
その宴の夜、不思議な夢を見た。あたしは小さい頃から夢なんか見ないでぐっすり眠れる子だった。だからあれがあたしにとっての一番、最初の不思議な夢だ。
その頃のあたしの気がかりはひとつだけ、春生と逢える場所が馬小屋のほかにないことだった。ただひとつ、それだけ。侯爵様のお邸みたいに豪華でなくていいの。ほんの少しだけ、馬小屋よりマシなところだったらうれしい。せめて畳が敷かれてあって、人が住めるような部屋であればと、切に願った。ささやかだけど、肝心要な願い事。それが、夢の中で叶ったのだ。
その部屋には街中の気配が漂っていた。でも、喧しくはない。静かだけど、タキタの集落に充満しているような、本物の澄み切った静けさとは違う。まるで獣たちが申し合わせ、この部屋を遠巻きにして下がり、息をひそめているような。かりそめの脆い静けさが、立ち込めていた。
そのひとは目が醒めるように鮮やかな水色の着物を纏い、あたしの前に忽然と現れた。晴れ渡る空を映して流れる水の色は、楚々として神々しいほど美しい。面は伏せていてよく見えない。その面影に心当たりはない。あたしの知らないひと。でもきっと、どこやらのお姫様であるのは確かだ。佇まいが、ふつうの家の娘じゃなかった。
お姫様がしずしずと、あたしににじり寄って来た。なんてこと。嫋やかに、しなだれかかろうとする。受けとめようにもあたしは、鮮やかすぎる水色の着物に触れるのが怖い。美しすぎる布地に手汗の跡をつけてしまいそうで、怖い。躊躇う。腰が引けている。
そんなあたしの気後れと裏腹に、あたしの両手は水色のひとをしっかりと受けとめ、きつくかき抱く。あたしはびっくり仰天して、叫びそうになる。辛うじて堪える。それから、ようやく気がついた。
水色の着物を剝ぎ取ろうと、忙しく動く二本の腕はあたしのものじゃない、男の腕だった。でも、タキタの村の男たちの腕と比べたら格段に華奢で、日焼けもせずにつるりと白い。それでもたしかに男の手だ。村の男たちとも春生とも違う男の手が、容赦なく水色の着物を脱がせようとしている。
あたしのものではないその手が、身につけている詰襟の上着を脱ぎ捨てようとする間に、水色のひとの手は固く結ばれた帯締めを解こうと自ら動いた。そうして白い指が誘う帯の中心に、あたしはそれを見た。
大粒の真珠が三つ、燦然と並んでいる。侯爵夫人の帯留め飾りと同じ輝き、同じ高貴な美しさを放って。
あたしは完全に心奪われた。三つの真珠から目を逸らせない。水色のひとは至極無造作に、帯留め飾りがついたままの帯締めを畳の上に放り出す。あたしはそれを掴みたい。直に触れたい。手に取って心ゆくまで眺めたい。
けれどもあたしの男の手は、水色の着物を開けたお姫様の襦袢の脇へ滑り込む。こっちのほうがずっといいやとばかりに、柔らかな肉の感触に塗れる。すると、お姫様の唇から微かな吐息とともに、ささやく声が漏れ出た。
『清様…』
不思議な夢はそこでぷつりと途切れ、謎々は解けるどころか、かえって余分な嵩と重みを増した。ずしりと重くなった。なにしろ事もあろうに、あたしが男になっていたのだ。それも春生じゃない男、だれなのかわからない男に。そうして、見覚えのない綺麗なお姫様を抱きしめた。三つ並んだ真珠の帯留めのお姫様を。
そこは、あたしがいるべき世界じゃなかった。それは確かなことだ。どう見ても恋人たちの秘密の逢瀬。入ってはいけない無縁の場所に迷い込んでしまっている。そのことを、ひしひしと感じた。
その夢を見た後は、いっそうわからなくなった。『アヤクラ様』は正体不明のまま、水色のお姫様と『清様』、謎の人物が二人も加わった。この人たちは実在した人なのかしら。だとすれば関わりがありそうなのは、春生のほかにいない。それなのにどうして、あたしの夢に現れたの?
今日こそはちゃんと、春生と話さなくちゃ。笑われてもうるさがれても、不思議な夢のことを聞いてもらおう。そうしないといつまでも、胸の内に立ち込めるこのモヤモヤが、すっきりと晴れない。
決意も新たに、あたしはつつじヶ丘を見上げた。春生が運転する円タクの黒いТ型フォードは、つづら折りの最後の一辺を登り切ろうとしている。馬小屋の屋根裏に寝そべり、天窓から眺めるあたしには、ウチの農耕馬の葦毛の歩みよりものろく見えた。
まるで笑い話のオチのように、黒いТ型フォードはガタゴト揺れて傾きながら、ゆらりと谷側へ寄った。事もあろうにそこでぶぉんと加速して、勢いよくヘアピンカーブの先端から飛び出した。
その崖下にТ型フォードを受け止められそうな、でっぱり岩や深い藪は見当たらない。硬くて重いТ型フォードはガタンゴロンと、止まりそうで止まらずに回転しながら、登り口の谷底へ落ちて行った。




