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(2-4)

(2-4) 


 松枝侯爵がその重大な秘密を夫人から打ち明けられたのは大正十三年、つまり大震災の翌年だった。結婚当初から少しも変わらずおっとりとして、何事につけても夫の決定に従い、異論を唱えたためしのない夫人であった。ゆえにその告白はまさに想定外、侯爵には大震災の次に匹敵する驚天動地の知らせだった。


 すなわち、かつて綾倉聡子が身ごもった嫡男清顕の子は闇に葬られず、無事に生まれていたというのだ。仰天したあまりに侯爵は、心肺停止寸前の状態に陥った。辛うじて持ちこたえたが、その後に続いた夫人の言葉のほとんどは、うわの空で聴いた。途中で同じ(くだり)を何度も訊き返さなければならない始末だった。


 生まれた子の里親はなかなか定まらず、乳児院長以下職員たちの手を煩わせた。けれども関わった人々の尽力の甲斐あって、翌年には子を委ねるに相応しい夫婦のもとに落ち着いた。以後は健やかに育っていると聞き、安堵していた。いつかはあなたにお話しようと思いつつ先延ばしになっていたこと、大変申し訳なかったと存じております、等々、夫人は淡々と述べた。


「だれが決めたのだ?綾倉か?手配したのは山田か。だれだ?」

 家長たるこの自分を差し置いて。この人の言いたいことはやはりそれなのかと、夫人は少々呆れた。


 そこでいっそのこと、この善なる企みの張本人は先ごろ亡くなった義母であったのだと、告げればこの人はどう出るか。試してみたい悪戯心が夫人の脳裏に(きざ)した。松枝の母の意思であったと知れば、夫は例によってぐうの音もなく、押し黙るのだろうか。


 でも。やっぱりそれじゃつまらない。夫人は意を決した。

「わたくしでございます。すべてはわたくしの一存で決めました。綾倉様のお力もお借りしましたが、もっぱらわたくしの実家(さと)の者に頼りました。子どもの素性のことは、だれにも話しておりません」


「なんと。おまえの一存だと言うのか。なんたる大それたことを…」


 侯爵は咆哮(ほうこう)した。いわく、もしも余人に気づかれて噂になり、お上のお耳に入りでもしたらこの松枝侯爵家は面目丸つぶれ、貴族院議員としての地位さえ危ぶまれる事態となったかも知れぬ、云々。連綿と続く怯え混じりの遠吠えを夫人はそっと(さえぎ)った。


「あなた。そもそも、わが家の面目とあなたの地位を脅かしたのは、清顕でございますよ。どうかお忘れなく。わたくしどもの息子が為したことから、すべては始まったのです」


 侯爵はここでぐうの音も出ずに絶句した。なんということか。つぶやくうち徐々に、自分を揺さぶった衝撃と怒りの正体が見えてくる。


「聡子の腹の子を始末するために、私がどれほど多くの密談と根まわしを重ね、莫大なカネを使ったか、おまえも知っていただろう」


「ええ。承知しておりました。でもね。わたくしのほうは、そんなに難しくありませんでしたのよ。どのみち聡子さんは尼寺に逃げ込むつもりだったのですし。せっかく授かった子を産ませようとすることには、聡子さんもお寺の皆様も潔く賛同してくださいましたの」


 返す言葉を見失った侯爵は、当初から何より一番知りたかった問いを、ついに発した。

「どっちなんだ?子どもは。男か女か」

「男の子だそうです」

「なんだと?清顕に似ているのか?」

「ですから。存じませんのよ、わたくしは。その子に会ったことは一度もございませんの」


 心持ち上目遣いで夫を見ながら、夫人はすまなそうにつけ加えた。会ってはいないがほぼ年に一度、養父が寄こす時候の挨拶を装った短い便りによって、子どもが無事であることは承知していた。昨年の大震災が起こるまでは。


 松枝侯爵は青ざめた。その先に続く言葉は聞きたくないと、怖じ気をふるった。豪放磊落、勇猛果敢で鳴らした貴族院議員の侯爵もすでに還暦を越えた。近年は持病の関節炎に悩まされ、議員としては要人の枠から外される処遇が続いたせいもあって、気持ちが(くじ)け気味だった。この人らしくないと、周囲の者たちのささやく声が聴こえるような、日々の最中(さなか)にいたのだった。


 たしかに。

松枝侯爵は心中密かに(うべな)った。日露戦争に勝利はしたものの、以降長い戦時体制の直中(ただなか)にあるわが国は、さらに大震災にまでも見舞われた。あまりに多くの死、多くの破壊と別離が、人々を翻弄してきた。


 わが家だけが格別に不運なのではあるまい。そのはずだと思いたい。けれどもこの疲労感、(いま)だ何ひとつ成し遂げてはいないような、虚しさ溢れるこの無力感は、いったい何なのか。


 家庭内においては嫡男清顕の思いがけない死に打ちひしがれ、実母の順当な死にさえも心をすり減らした。すると、いまさらながら悔やまれてならないのは、清顕の忘れ形見となったはずの赤子を、禁を破り東奔西走し大金を投げ打ってまで、自分のこの手で葬ってしまったことだった。


 なんという愚行を為したものか。決して口には出さなかったが、その悔いが侯爵の心身を蝕み、根深い関節炎の痛みを引き起こしていた。よもやこの妻に、従順さと家柄のよさだけが取り柄と軽んじていたこの小柄な女に、かくも大胆不敵な度胸と行動力があったとは。歯噛みして呻く侯爵を励ますように、夫人は告げた。


「あなたのお力が是非とも必要なのです。わたくし、清顕の子の行方を知りたいと存じております。養父から届いた便りに住所はありませんでした。でも、あなたのお力をもってすれば、突き止めるのは造作もないことでしょう。


 清顕の子が無事でいるのかどうか。万一無事でなかったとしても、覚悟は出来ております。このまま知らずにいるほうがよほど辛いのです。あなたもきっと、同じようにお考えなさると存じますが、如何でしょう?」


 むむむむ。松枝侯爵は唸り声でこれに応えた。おまえの言う通りだとは、決して口にしなかった。


 かくして、山田某の出番となったのだった。

侯爵家の執事であり秘書であり財務官でもあって、その他オールマイティなんでもお世話係の山田某より他に、その任に相応しい人材は見当たらなかった。


 侯爵は心中密かに、山田某が事の経緯を先刻承知していたのではないかと疑いを持った。しかし賢明にも口には出さず、『滝田春生』探しを依頼した。命じたのではなかった。それでも表向きはあくまでも人知れずに、好意で他家の子どもを探す震災ボランティアのようにと、やはり注文をつけたのだった。


 すると山田某は助手の雇用を願い出た。この困難な任務を独力で成し遂げるだけの知力も体力も、老いた自分はもはや持ち合わせていないと判断したのである。

これ以上の過重な任務増には耐えられない、という悲鳴でもあった。長年仕えてきた侯爵夫妻は、山田に任せておけばなんでも綺麗に片が付くと、無邪気に信じ込んでいる(ふし)があったのだ。


 折しも勤め先が被災したために自身の子息が失業状態だった。秘密はなるべく狭い範囲内で保たれることが望ましい。一方、侯爵家の雇人であれば召集令状の舞い込む確率が下がると、(ちまた)でささやかれる昨今だった。こうして山田二世の雇用は、主従の双方にとって大変都合のよい巡り合わせとなった。











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