(2-3)
(2-3) 1926年(大正十五年で昭和元年) 十二歳
しかしいま春生はとにかく空腹だったので、まだ朝飯にありついていないことを母親に思い出してもらいたかった。
「なに読んでるのさ?腹へったよ」
「山田さんが置いてったの、読んどきなさいって。あんたも読んだほうがいいみたいだけど、読む気ある?ご飯はお膳の上だよ」
あった。ごま塩おにぎりに、大根と身欠きニシンの煮物。昨夜の残り物だが、身欠きニシンがまだ二切れもある。かつてなかったことだ。春生はさっそく握り飯に食いつき、頬ばりながら言った。
「だから。それなんなのさ?」
母親は十二歳の春生の顔をまじまじと見つめた。寝起きのせいか幼さが目についた。しかし自分が十二歳のときはもうたいていの世事を呑み込んでいたのだ。早すぎるなんてことはあるまい、この子はお坊ちゃま育ちではないのだから。母親は肚を決めた。
「早くに亡くなった侯爵様の若様がね、見た夢のことを書いた日記の写しだって。若様はね、生まれ変わった次の世のご自分を夢で見るたび、日記に書いといたんだ。その中身がまるで、カミサマのお告げみたいに当たってるとか、山田さんは言ってたけど。わたしにはなにがなにやら、さっぱりわかんないんだよ」
「へえ。だからって、なんでオレも読まなきゃなんないの?」
すると。母親はそこでタメも入れずにごくあっさりと言ってのけた。
「そりゃあ、若様があんたの父親にあたる人だからさ」
春生は握り飯にむせた。
「へ?へ?なに言ってんだよ、母ちゃん。びっくりさせるなって」
「ちゃんと聴こえただろ。その若様が父親なの。あんたね、まさか父さんとわたしから生まれたつもりでいたんじゃないだろ?村のみんなも言ってるだろ?あんたは侯爵家の隠し子だって」
「わぁ。ホントだったのか。そうなのかよ?」
むせた春生の喉に身欠きニシンの小骨がひっかかり、声を発したらまたひとしきりむせた。母親は湯飲みに汲んだ水を手渡しながら、きっぱりと告げた。
「言っとくけどね、勘違いするんじゃないよ。あんたは若様の子だけど、若様の代わりじゃないの。決して侯爵家の子にはならないんだから、そこんところ、間違えちゃいけないよ」
「へえ。なんで?」
「それが身分の違いというものだからさ。もしも国中のお殿様がよそでつくった子をいちいち家に入れていたら、財産がいくらあっても足りないだろ。跡継ぎがいなけりゃいないで、身分も財産もお国にお返しすればいいんだから。だれも困りはしないんだよ」
春生は返す言葉を思いつかず、母親の手から冊子を受け取ってパラパラとめくった。難しい漢字だらけの小さな文字が、びっしりと並んでいる。四年生の終わりに作った文集とは大違いだ。けれど、某月某日どこそこで何々をした。気合いを入れて読んでみたら、おおよその形式は四年生の作文と大差ないことがわかった。
自分の父親であるという若様。もうすでに生きていないお方。思い描こうにも描きようがなく、つかみどころもない。その姿かたちを想像しようと春生は目を凝らした。
すると、細かい文字の長い列の末尾がぴょんと跳ね上がった。均等であったはずの行間も勝手気ままに、広がったり狭まったりてんでに変形して見える。正しい幅と長さがうやむやになって、空中から見下ろした清流の川底のようにゆらゆらと揺れた。
春生はいったん目を閉じ、濡れた犬のように頭をぷるぷると振った。近ごろたびたび起こる厄介な現象だが、こうやって少し待てばだいたい直る。思春期に現れがちな見え方の異常は、もっぱら近視か乱視かその両方かの問題だが、春生はまったく気づいていなかった。
当人が口にしないので、母親も気づけない。とりわけ、すこぶる健康な視力を持ち、細かい針仕事が苦にならない母親にとっては、想像もつかない症状だった。
読んではならない。
春生は冊子の文字の羅列から、きっぱりと拒まれたように感じた。ひいては日記の書き手であった父親からも、命じられたような気がしてくる。
こんなもの。思わずぽいと、ざら紙の冊子を畳の上に放った。すると春生のその仕草から別の意味合いを汲み取った母親は、声をひそめてつぶやいた。
「そりゃそうだ。なんかヘンな感じするんだよね。若様にはお好きなひとがいて、お子が生まれるかも知れないようなコトをちゃんとしていたのにね。
ご自分がどこかのだれかに生まれ変わる夢のお告げには熱心でも、お好きなひとから血を分けたお子が生まれるかも知れないなんてことは、これっぽっちも考えていないんだからさ。やっぱり若様っていうのは、そんなものなのかしらね。
侯爵様ご夫妻だって、大震災でうちの父さんが死んだことをたまたま知ったから、あんたの無事を確かめたくなったみたいだよ。お年を召したせいで、いくらか情に脆くおなりになったのかもね。
だからって春生、調子に乗っちゃいけないよ。あんたは平民の子らしく分を弁えて、侯爵様ご夫妻に礼を尽くすこと。それがなにより一番肝心なんだからね」
春生は困惑した。母親の言うことはモヤッとして意味不明、わけがわからない。とりあえずざっくりとわかったのは、この母が自分の母であり続けるということ、それだけだった。そこのところを、ちゃんと確めておきたくて訊いた。
「オレ、どうしたらいいのさ?」
「なんてことないよ。いままでと同じでいいの。これは、ここだけの話だからね。あんたがしっかり勉強して、大人になって実入りのいい仕事に就けたら母ちゃんはうれしいし、鼻が高い。山田さんも侯爵様ご夫妻も、きっと喜んでくださるだろうからね」
来た。
春生は思った。やっぱりアレだ。『勉強して手伝いをしなさい』。いつものアレよりなんか少し重い感じがするのは、『手伝い』が『仕事に就く』に変わったせいか。
そこにはうんと稼がなくちゃならない、という強い圧が発生している。どれくらい稼がなくちゃならないのだろう。テッペンの滝田と違って、ウチには広い田畑も山林もありゃしないのに。
春生は両の肩にずしりと重い荷を背負わされた気分だ。それでも腹はへっていたので、握り飯は一粒も残さず、大根と身欠きニシンは煮汁までも舐めるように平らげた。腹いっぱいになると気分は上向き、わりとなんでもうまくいきそうな気がしてきた。
「なあ、母ちゃん」
ダメもとで訊いてみた。
「オレさ、円タクの運転手になれたらいいなって思うんだけどさ。アレってすっごくカネかかるのかな」
母親は、健康だけど細く小さな目をパチクリした。それからポッと額に電球が灯ったように、表情が明るくなった。
「山田さんたちが乗って来た自動車のことかい?さあね。母ちゃんにはさっぱり見当もつかないよ。今度来たとき、訊いてみたらどうだい?こないだ来た若い人は山田さんの息子さんで、学がありそうだし、ハイカラなものに詳しいみたいだったから。
そうだ。そうしなさい。きっと、どうしたら円タクの運転手になれるか、教えてくれると思うよ。かかるおカネのことなんかも、きっと」