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(2-2)

(2-2) 1926年(大正15年で昭和元年) 十二歳

    

 父親の死から三年後のある日、山田某(やまだなにがし)という人物と他一名が春生と母親の家を訪れた。両人とも、いかにも都会の人らしいパリッとした西洋風の身なりをして、谷底の集落の風景にあっては(はなは)だしく目立った。


 それでいて山田某と他一名の振る舞いに尊大なところは微塵(みじん)もなく、両名ともあくまで慇懃(いんぎん)且つ紳士的だった。他所から来た大人といえば、むやみと威張り散らす役人や仲買人しか知らなかった春生は、ただただ珍しく驚いた。


 しかしなんと言っても一番驚いたのは、二人を運んできた乗り物だった。都会の街中では一円タクシーというものが走りまわっていると、級友たちが喋り合っているのを耳にしたことはあった。


 どこまで行っても一円だとさ、すげえよな。テッペンの滝田の子が軽々と口にしたその一円を稼ぐのに、ウチの母親は仕立物を何枚縫わなくちゃならないのか。春生はぼんやり考えようとしたが見当もつかなかったので、自分にはカンケイないハナシだとアタマから締め出した。


 その円タクがいま、テッペンの滝田の屋敷ではなく、春生と母親の小さな家の前に停まっていた。テッペン同士の自慢話を聞かされるしかなかった春生の家だ。そこに正真正銘ホンモノの円タクが停まっている。魂消(たまげ)た。これ以上の驚きがどこにある?どこにもありゃしないだろ。


 当時小学五年生だった春生は、ポカンと口を開けたまま、威風堂々たる円タクの姿かたちに見惚れた。ガツンと一発やられちまった気分だった。溜め息しか出なかった。


 円タクは馬車に似て馬車にあらず、ごつごつしていながら滑らかに光り輝き、比類なく優雅な佇まいでそこにあった。春生は(しび)れた。とにかく参った。問答無用の恋に落ちた。


 集落の子どもたちはたっぷり距離を取って遠巻きにしていた。あまりにも恐れ多くて近づけない様子だ。しかしそこは、春生の家の玄関前なのだ。円タクに目も心も奪われた春生は、覚えず知らずにじり寄って、近々と車内を覗き込んだ。

 往路の山道走行でうっすらかぶった車体の土埃を、せっせと拭っていた運転手が放心状態の春生に気づき、声をかけた。


「坊や。この家の子かい?」

「うん。オジサン、オレんちに来たの?」

「私は運転手だからね、お客様方の用事が済むのを待ってるんだ。坊やは自動車が好きなのかい?」

「うん。いま好きになった。これ、円タクでしょ?」

「そうだけど、ちゃんと名前がある。Т型フォードっていうんだ」

「てーがた、ふおーど」


 復唱しながら春生は、土埃を拭き取られて本来の輝きが露わになった黒い車体の側面を、指先でそっと撫でさすった。触れずにはいられなかったのだ。冷たく硬くツルツルの手触り。生まれてこの方感じた覚えのないときめきが沸き上がり、春生の幼い胸をいっぱいに満たした。


 山田某と他一名が家から出て来た。つき従う他一名は若い大人だったが、山田某その人は春生の老いた母よりもずっと年寄りに見えた。けれども、母や集落の年寄りたちはおいそれと見せないにこやかな笑顔で、春生くんと呼びかけた。そして真正面からひとしきり見つめた後、感極まった様子で春生の肩に大きな手の平をのせ、ギュッとつかんだ。

 そこまでは、まあよかった。続いて、学校の勉強とお母さんの手伝いをよくしなさい。やっぱりそう言われたのにはげんなりした。


 父親が死んで以来、顔を合わせた大人たちは皆が皆、一人残らず同じことを言った。勉強と手伝いをしなさい。まったくもって余計なお世話というものだった。そんなことを言われる筋合いのない大人までが、もっともらしい顔をして言うのだから閉口した。


 あいつらとおんなじなのか、この人たちも。

 春生はムカついた。わかっとるわい。放っとけ。言い返したくなったのを、辛うじて引っ込めた。見送りに出た母親の表情が、いつになく柔らかいことに気づいたのだ。言い返さずにいてよかった。春生は神妙に、大きくこっくりと頷いた。山田某は、あくまでもにこやかに尋ねた。


「春生くんは何歳になりましたか?」

 一瞬絶句して、迷った。年齢や学年を問われたとき、春生の脳内では二通りの返答が駆け巡る。なんのことはない。幼い頃に病気をして就学が一年遅れたせいだ。何歳のときにどんな病気に罹ったのか、詳しくは知らない。母親は話してくれない。それもあって、なるべく口にしたくない部類の話題だった。


 病気をしたわりには大きくて丈夫そうだ。そんなふうに感心されるのも気が重いことだった。なんとなく、開いてはいけない古い瓶詰の蓋をゆるめてしまうような感じがした。恐ろしく危険な煙が立ち昇るかも知れないし、耐えがたい悪臭が漏れ出すかも知れない。オレのほんとうの年齢ってどっちなんだ?考えるほど余計にややこしくなった。そのことを考えるのはやめた。年齢や学年を訊かれるたび、ちょっとだけビクついた。ヘンな間違い方をして笑われたくなかった。バカな子だと思われたくなかったのだ。


 けれども山田某は、学年じゃなくて年齢だけを訊いた。だから、本当の年を言えばいい。この人は先生じゃなくて父兄でもなく、学校とはカンケイない人みたいだ。嘘つきにはならない。なんだかホッとした。ほんとうの年齢を堂々と言える機会は滅多にないことだった。春生は、元気いっぱいに答えた。

 

「えっと。十二歳、です」

「ふむ。では、今年の年号は何というか、知っていますか?」

「ええと。大正十五年だったけど、昭和元年になりました」

「その通り。ちゃんと勉強してるんですね。えらい子だ」

 

 山田某はよしよしと満足そうにうなずいた。他一名の手を借りて、片脚を引きずりながらT型フォードに乗り込み、立ち去った。

 平身低頭のお辞儀を繰り返す母親を尻目に、春生はひたすらT型フォードの後ろ姿に見惚れた。そのエンジン音に聴き惚れ、車体の揺れ具合を見守り、四本のタイヤが掻き立てる土埃にさえもうっとりした。


 それから後、春生の家の暮らしぶりはいくらか上向いた。せかせかと休みなく立ち働いていた母親が、日がな一日炉端の定位置に座っている。急ぐ様子もなくゆったりと、針仕事を楽しんでいるようだ。ぜひと頼まれたもの以外は穏便に、仕立ての注文を断りもした。かつて見たことのない母親の姿を奇異と感じつつ、春生はやはりこの変わりようを、内心でうれしく思った。


 しばらく後の、日曜日のことだった。朝寝坊した春生がようやく起き出すと、母親はやはり炉端に座っていた。しかしその手がつかんでいるのは針でも布地でもなく、ざら紙の束を綴じた冊子のようなものだった。


 四年生の終わりに春生の学級で作った文集と少し似ていた。母親はその薄い冊子のページを進んでは戻り、戻ってはまた進み、悪戦苦闘しながらも熱心に読もうとしている。そんな姿を見るのは珍しい。なにしろ母親は、読み書きがあまり得意でなかったはずなのだ。


 尋常小学校を卒業はしたけれど、まともに通えた日は半分もなかったとこぼしていた。家事や畑仕事の手伝いと弟妹の世話と、しなければならないことが山のようにあったのだ。


 たった一度だけ春生が学校をサボったとき、母親はいつになく逆上して怒った。せっかく行ける学校をズル休みするなんて大バカ者だ。ののしられ、長い竹製のものさしでビシバシと打ち据えられた。額がものさしサイズの赤アザだらけになった。


 その剣幕に恐れをなした春生は、以来ズル休みを封印した。あんな母親はもう見たくないと思う反面、あれこそが親らしい姿だったかも知れない、とも思うのだった。







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