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HARUO (2-1)

 HARUO (2-1) 1935年(昭和十年)


 滝田(たきた)春生(はるお)は稲わらに埋もれて目覚めた。細いわらの穂先に鼻をくすぐられ、くしゃみが出そうになったのだ。ぶふっ。慌ててこらえ、派手な音はたてずにすんだ。たとえ熟睡していようとも、これだけはおさおさ怠りなくやれる。物音をたてない。大きな声を出さない。じっと動かずにいる。いずれも習練の為せる業だ。


 ほの暗い中で傍らの稲わらをそろりとかき分け、サチの顔を探した。あった、というか、いた。つるんと白い横顔はまだぐっすりと眠っている。なんとまあ呑気(のんき)なもんだ。いくらここが自分のうちの納屋だからといっても。本気出して走れば母屋の裏口まで一分もかからずに行けるといっても。いや三分はかかるだろうと春生は思うのだが、言わずにおいた。一分か三分かはどうでもいいことだった。肝心なのは、サチの機嫌を損ねないことだ。


 サチの親たちに見つかったらやっぱり怒られるし、なにか面倒なことになりそうだ。なにとまでは言えないその怒りと面倒の度合いを、春生は測りかねている。実を言うと大いにビクついていた。

 なのに、こうしてまたサチの家の納屋で一夜を過ごしてしまった。アホか。自分で自分に毒づく。堪え性のなさに呆れる。その繰り返しだった。


 春生の家には納屋がない。家畜小屋もなかった。それが問題なのかと突っ込まれそうだが、家自体が小さくて安普請なのだ。家族も母親と二人きり、夜ともなればひっそりと静まりかえる。


 忍び足でも足音が響き渡るし、どれだけ声をひそめても若い自分たちの(むつ)み合う声は、四方八方に飛び散る。この渓谷の底の集落では、向こう三軒両隣界隈まで筒抜け、バレてしまうだろう。


 すると何が起こるか。明くる朝、住人たちは口々に言い交わすのだ。なあゆうべ春生の家からサチのよがり声がしたよな。うん派手にしたな。あいつらいつまで()つかな。そう長くはないべさ、云々。減らず口を叩き合ってオレたちを慰み者にするんだ。


 憶測を巡らしては勝手にムカッ腹を立てる春生を、サチはケラケラと笑い飛ばした。納屋とつづきの馬小屋に住まう農耕馬の葦毛(あしげ)も、長い鼻づらを振り回して唇をめくり上げ、イヒヒヒヒンと笑った。こんな具合に、サチはおおらかで明るい娘だった。春生はそこが可愛くもあり、いくぶん(うと)ましくもあった。


 疎ましい気がするのは、なんでだろうか。わらを払いのけて開襟シャツを被りながら、春生はつらつらと考える。やっぱりあれだ。自分がいてもいなくても、サチが守られているせいだ。大きな家と大勢の親族と景気の良い家業に。

 春生の出る幕はどこにもない。というか、自分はいなくてもいいんじゃないのか。そんな気がしたことさえ、たびたびあった。


 それでも。いじけないで。ずっとあたしのそばにいてよ。いつだってサチはあっけらかんと言い放ち、春生をその気にさせる。いまも、わらの下から素早く腕が伸びて春生の首根っこを絡めとり、自分の柔らかな裸の胸に押しつけて耳元に囁く。

「次はいつ?きょう来れる?あしたは?」


 ぶふっ。鼻と口が完全にふさがれた。息が出来ないのに、またぞろその気にさせられる。春生は口いっぱいに含んだサチの胸肉の蝕感を、エイヤとばかりに振り払う。


「きょうはムリだ。大事なお客の予約が入ってるんだ。あしたのことは、あしたになるまでわからんし」

「そのお客って、つつじヶ丘の侯爵様でしょ?」

 あんたのことならなんだって知ってるもん。とでもいいたそうなサチのドヤ顔にわらを被せ、春生はひらりと地面に降りて納屋を出た。


 明るい。まぶしい。目がくらむ。空は隅々まで晴れ渡っている。視界を遮るものはなにもない。なのに、丘の頂からすそ野へ流れ落ちるなだらかな稜線が、いつもと違って見えた。ふにゃりと歪んでいる。不格好だ。見慣れたつつじヶ丘がひとまわり太ってしまったような。あれれ。なんでだ?文字の列を見ていたわけでもないのに。いつもより変形の度が過ぎる。

 目をこすったとき、サチの家の窓から、だれかがこちらを見ている気がした。自然と足早になって、急ぎ立ち去った。


 春生は小首を傾げつつ植え込みに身をひそめ、小走りでサチの家の地所を通り抜けた。村の農道にたどり着き、ようやくホッとする。背を伸ばして胸を張り、髪に絡みついたわらくずを払った。


 再びつつじヶ丘の頂を振り仰ぐ。あれれ?稜線はいつものようになだらかに流れ、神々しいほど美しい。春生の大好きな姿かたちが戻っていた。なぁんだ。春生は安堵する。視力はなんら問題なく、速やかに回復した。寝起きで腹ペコなもんだから、目がちゃんと開いていなかったんだな。


 ちなみに、サチの家も名字は滝田だ。ややこしいことに、この渓谷の集落では半分以上の家が滝田姓だった。血縁が濃い親戚の三軒を中心に、薄めの親戚が十軒ほど寄り合い、もはや関わりを辿りきれないくらい他人化した家が数軒、バラバラとそこかしこに散らばっていた。


 サチの家は中心の三軒の内でもど真ん中、天辺(てっぺん)の一軒だ。そして春生の家は他人化して久しく、もはや繋がりの濃淡さえ辿りようもない、バラバラの滝田の内の一軒だった。


 おんなじ滝田同士だもん、大丈夫だよ。サチは能天気に明るく言ってのける。滝田姓同士でありさえすれば仕切りも段差もない、だから何の心配もないと言うように。


 大丈夫だと?アホらし。春生は内心眉唾(まゆつば)だった。同じ滝田でもサチの家は、紛れもなく高く天空に(そび)え立っている。比べると自分の家は、渓谷の淀んだ湿地に沈んでしまいそうだ。


 ふと。さっきのサチのドヤ顔が頭に浮かんだ。「侯爵様」と口にしたときの甘えたように鼻にかかった声。心なしハートの形に見開かれた目。やっぱりアレなのか。

 事ここに至るまで、春生は一度もサチを口説いた覚えがなかった。どのみち無理な相手と思っていたので、端から圏外だった。思いがけず、サチのほうから誘いをかけてきた。だから、ままよとばかりに一緒にわらの中に飛び込んだ。それまでのことだった。


 それやこれやの事柄が春生の中で絡まり合い、結びついて筋道を成した。なんとなくわかった。やっぱりアレだ。だれが言い出したか知らないが、春生は侯爵家の隠し子であるという、まことしやかに語られ続けるあの噂。みんなが楽しみに待っている旅芝居の演目みたいな貴種流離譚(きしゅりゅうりたん)を、サチは鵜呑(うの)みにしているのだ。


 そうだったらいいのにね。冗談めかして口にしたこともあった。それがいつのまにやら、すっかりそうに違いないと思い込んでいる。考えてみれば、いろいろのことが腑に落ちた。やれやれ。春生にとってサチが、可愛くもあり疎ましくもある所以(ゆえん)だった。


 春生の父親は大正十二年の大震災が起きた日に死んだ。この集落の被害は少なくて済んだのに、たまたま東京の市場に作物を運んでいて巻き込まれた。春生が九歳の年の秋だった。

 あれから早くもひと昔以上の歳月が流れた。春生はその名の通り春に生まれた子だ。この春で二十一歳になった。


 長じて近隣の集落にも目を向ければ、死者は春生の父のみならず、ほかにも大勢いたことを知った。死は決して特異なものではなかった。戦地に狩り出されたり疫病に罹ったり作業中に高所から滑落したりして、人々は存外に呆気なく死んで行った。


 死はそこら中に潜んでいて、避けようもなく襲いかかる。いつだれがつかまるか知れない。自分のすぐそばの足元にも暗い洞口(ほらぐち)を開いている。いまこうして生きていられることが、むしろ不思議だ。十代の春生はそんなふうに思い、父親の死という試練の時を遣り過ごした。


 以来、母親が小さな畑を耕し、針仕事をして暮らしを支えてきた。その母親はもう若くない。実は、もともと若くなかった。父がいた頃からふたりとも、同級生の親たちと比べたらだいぶ年がいっていた。どちらかといえば、祖父母のようだった。


 そのうえだれが見ても、ふたりの容貌に春生と似たところはひとつもなかった。なによりシンプルで揺るぎなく、わかりやすいその事実は、「侯爵家の隠し子説」が連綿と生き続ける要因のひとつになった。


 老いた母親は小言も言わずに、大盛り飯と茄子の煮びたしの朝飯を用意してくれた。飯の盛り具合はどれくらいにするかと訊いたきり、ゆうべはどこに泊まったのかとは訊きもしなかった。


 ふたりして黙々と朝飯を食べた。毎日のことなので、べつに気まずくはない。むしろこうしていつものように、母親と静かな朝飯を食べていると、サチとわらにもぐって戯れたのは一夜の夢に過ぎず、現実ではなかったことのように思えてくるから不思議だった。




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