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(4-2)

(4-2)


 注文主の春生が来られない事情を僕が語る間も、黎明(れいめい)堂店主の手は検眼用レンズを磨き続けた。春生の死を知らされて初めて、布切れとレンズの手を止め、丁重な悔やみを述べた。


 滝田春生はすでに故人となったが、作った眼鏡は受け取りたいという僕の申し出に、店主は心底安堵したように微笑んだ。微笑み返した僕は、改めてその作業台を隅々まで眺め、埃もくすみも手跡のひとつも見当たらないことに感嘆した。


 手早く片隅へ除けられた検眼用レンズはもちろん、曇りひとつなく美しい。そう、なにもかもが美しいのだ。僕はふと、いま使っているメガネを作った店の検眼用レンズを思い浮かべた。


 饒舌な女性店員がにこやかに応対してくれて明るい雰囲気だったが、彼女が摘まみ取った検眼用レンズの縁には、その指跡がくっきりと残った。よくよく見れば今日より以前の指跡が、何層にも重なり合って残っていた。


 そうだ、僕はあれが気に障ったのだ。しかし、口に出しては場がシラケるだろうと案じて引っ込めた。いまとなれば二つの店の差異がよく分かる。女性店員や壁飾りや切り花で飾られたあの店には、この黎明堂眼鏡店のような美しさが微塵もなかった。整然として清潔な輝きを極めた、この美しさが。

 おい、春生。僕は胸中秘かに呼びかけた。キミは一体どうやってこの店を、見つけたんだい?メガネ初心者であるはずのキミが。


 店主が(うやうや)しく差し出した春生のためのメガネに、一見したところ特別感はまるでなかった。ありふれた合金のフレームと、角を丸くした四角形のレンズ。僕のものとよく似ていた。春生は僕のメガネを手本にして、ほとんどそっくりなメガネを作ったのだ。


 サチも敏江さんも黎明堂店主も、ほぼ一斉に同じ言葉を発しかけて呑み込んだ。おそろいのメガネみたい。そんな空気が流れたのを感じた。サチだけが口に出して僕に告げた。

「間違えそうなくらい似てるね、エイジさんのメガネと」


 サチの言葉にうなずきながら、店主は僕に勧めた。

「お掛けになってみますか?度は(いささ)か強めですが」

 その言葉に誘われ、僕は春生を知りたい一心でそのメガネのフレームを耳に掛けた。幅サイズは少しきつかったが、掛けられないほどじゃない。新品のメガネにありがちな程度のきつさだ。


 表の通りを眺めようと振り向いた瞬間、大震災を思い出させる横揺れを感じた。それほどの一撃が僕を打ちのめした。崩れ落ちる僕の腕を、店主が掴んで引いた。後ろにいた敏江さんも、背中を支えてくれた。おかげで僕の頭は、硬い石材の柱に打ちつけられずにすんだ。


 目がくらんだ。世界がぐるりと捻じれて半転した。まっすぐ立っていることが出来なかった。僕は長年メガネを常用してきたが、こんな感覚を体験したのは初めてだった。


 春生の視力は測定が極めて困難だったと、店主は語った。進行の早い強度の近視に乱視と遠視が混じり合い、どうにも捉えにくい症状だった。私見だが、もしも一年早く眼鏡を作って視力を矯正していれば、ある程度は近視の進行を抑えられ、転落事故には至らずに済んだのではないかと。僭越ですが私も残念でなりません。店主は磨き作業の手を休めて、深く(こうべ)を垂れた。


 つつじヶ丘の渓谷の村から銀座へ、連なってトコトコのぼって来た僕ら四名の一行は皆が皆、打ち揃って疲労困憊していた。とりわけ胎内に春生の子を抱えるサチの疲れが限界に達してしまいそうだ。僕は気を揉んだ。善からぬ事態に陥る前に、ここは思い切って一旦引き揚げ、後日改めて出直してはどうだろう。


 提案してみると、にべもなく拒んだのは当のサチだった。敏江さんもいくぶん青ざめた顔色ながら、せっかく銀座に来ているのだからと、もうひと頑張りする意欲を見せた。


 春生が遺した二枚目の紙片は地図だった。銀座の通りの名がひとつ、建物の名がふたつ。→の先に☆印のついたそこが、目的の場所だろうと読み取れた。余白に短いメモがあった。

(サチ3母ちゃん2エイジさん1オレ1=7個)


 たどり着いた☆印の場所にあったのは、初めて見る洋菓子店だった。明るい赤白青の三色を縦に並べた看板の鮮やかさが、疲れた目に沁みた。たしかこれは、フランス国旗のトリコロールだ。


 サチがつぶやいた。

「春生に話したことがあるの。銀座に新しいお菓子の店ができたって、『窓辺の彩り』に載ってたから。シュークリームというお菓子を、あたしも食べてみたいって言ったの」


 そして僕はストンと腑に落ちた。春生はこの店でシュークリームを7個、買うつもりだったのだ。主たる目的はサチへの土産だから3個、僕らの分はついでのようなものだろう。それでも敏江さんに2個割り振ったのは、春生らしい養母への気遣いと思われた。


 僕らは店内のテーブル席に座ってシュークリームを食べ、熱い紅茶を啜った。僕はふだん甘い菓子を食べないが、この時ばかりはシュークリームの甘さと美味さに、生き返った心地がした。


「春生はいなくなったのに。こんな美味しいもの食べさせてもらえるなんて、夢を見てるんじゃないかしら。ありがたいことだわねえ」


 敏江さんがしみじみとつぶやいた。その口から発せられた『夢』という言葉に、僕の耳はぴくりと反応した。そういえば。最も長く春生の身近にいた敏江さんに、気がかりな夢を見たことがありはしないか、まだ訊いてもいなかったと気づく。一人きりになった今後の暮らしや、心づもりの有無などについても。


「小母さん、もう一個食べる?あたしは食べるけど」

「お代わりなんて。そんな贅沢、していいのかしらね」

「春生がいいって言ってるのよ、小母さんは2個でしょ。あたしは3個だし。お会計は心配しないでね、エイジさんがいるから、ね?」


 敏江さんは遠慮がちに微笑み、肯いた。僕は可愛らしい制服を着た女店員を呼び、追加のシュークリームを頼んだ。お代わりを2個、別に持ち帰りを2個包んで。女店員は注文を高らかに復唱すると、明るい三色のトリコロール柄のエプロンを(ひるがえ)して去った。


 サチと向かい合っていながら敏江さんは、目を合わせようとしない。距離を置こうとしていることに、僕は気づく。


「店員さんの前掛け、可愛いねえ、フリルがいっぱいついて。サッちゃんは、ああいう服が好きかい?」

「わりとね。でも小母さんなら、もっと可愛いのが作れると思うよ」

「わたしなんかダメよ。古臭い和裁しか知らないもの」

「小母さんはミシンも使えるって、春生が言ってた」

「そんなの。だいぶ昔のことだよ」

「あのね。お邸にはミシンがあるの。わりと立派なやつ。小母さんの仕事に使ったらどうかしら。うんと楽になると思うよ」

「そんな、厚かましいこと。わたしなんか、侯爵様ご夫妻とは、縁もゆかりもない下賤(げせん)の者なのに。サッちゃんがそう言ってくれるのは、ありがたいけどね」


 するとサチは、キッとまなざしを強め、早口で言った。

「春生だよ、小母さん。あたしは春生の子を産むの」

「あら。だって。この山田さんがあちこちで言ってるじゃないの、あんたの子は侯爵様の跡取りだって」


 そこでついに、僕が割って入る。

「かいつまんでご説明します。侯爵様はご自分の財産を、春生くんの子に遺したいとお望みでした。僕のしていることはつまり、そのための方便です。あくまでも侯爵様のご命令に従って、動いているのです」


 そこへサチも加勢する。

「ウチの親とかにも、秘密にしなくちゃなんないのよ。だってウチの人たちみんな、あたしのこと怒ってるから、すぐあちこちで喋っちゃうに決まってるわ。もしもお上にバレたら、おカネもお邸も取り上げられちゃう瀬戸際なのに。けど小母さんなら、だれより一番秘密を守ってくれるよね。春生のために、春生の子のために。そうでしょ?」


 敏江さんは小さな目を見開き、サチの真剣なまなざしと丸い腹を、交互に見比べた。

「あんたのお腹の子、たしかに春生の子なんだね?」

「そうだよ。決まってるじゃない。春生が毎晩のようにウチの馬小屋に泊ったの、知ってたでしょ。小母さんはちっとも怒らなかったよね」

「そうだった。いずれ子が出来るだろうと思ってたよ。出来てもいいと思ったんだ、どうしてだか、早く出来たほうがいいような気がしていたわ」

「小母さん。一緒にお邸に住んで、あたしを手伝ってくれるよね」

「そうだねえ。そうすると、わたしのご主人様はだれになるの?山田さんかい?」


「当面は僕が代行しますけど、本筋ではやはり、これから生まれる子です」

「ああ。赤ちゃんがお殿様なのかい?春生の子が」

「そうだよ。春生の子だよ」


 敏江さんに真相を打ち明け、頼み事の賛同を得た後のサチは、肩の荷を下ろせたとでもいうように、晴れ晴れとした笑顔を見せた。敏江さんと僕もその笑顔につられ、声を上げて笑った。


 サチの手はハンカチに包んだ春生のメガネをもてあそび、その複雑な構造のレンズを磨き続けている。ちょうど、黎明堂店主がそうしていたように。

 視力の度合いや違いがもたらす風景の変貌を不思議がりながら、サチはカチューシャのように春生のメガネを前髪に載せた。いまどきのモダンガールのように見えた、腹さえ丸くなければ。


 敏江さんがひっそりとつぶやいた。

「それじゃあ、男の子でなくちゃならないわね、何がなんでも」





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