エイジ(4-1)
エイジ (4-1)
どっちでもいい、相手の言うように合わせておくんだと、春生は言った。自分の生まれ年や年齢の曖昧さを問われたとき、サチにそう言った。自分はどっちでもいいんだと。
それを聞いたとき、すぐに気づいた。どっちでもいいと最初に言ったのは僕だ。春生は僕の口真似をしたのだ。
僕の名前は衛士と書く。職業の肩書みたいだとよく言われた。エイシでいいのかエイジなのか、それこそ百万遍も問われた。紛らわしい名前が申しわけなくて、恐縮しきりの時期もあった。相手によってはクダクダと長たらしく、説明しようとしたこともあった。
そういった試みの一切を、すっぱりとやめた。知り合って間もなく中学生になった春生から、名前の読みを訊かれたときだった。なんとなく、カッコつけたい気分だったのかも知れない。どっちでもいいから、キミの好きなほうで呼んだらいいさ、そう答えた。
すると春生はエイジさんがいいと言って、以来ずっとそれで通した。妙に律儀なところのある子だった。だれがその名をつけたのか、本当は好きじゃないのか。そんなことは訊こうとしなかった。
春生くらいの少年だった頃から、僕はよく父親の口癖を真似たものだ。松枝侯爵に仕える父親の、礼儀正しい言葉使いや振る舞いを真似、自然と身につけた。門前の小僧習わぬ経を読むというたとえを、いつの間にか実践していた。
ところが父親は、突然いなくなった。自ら表舞台を降りた。取引銀行の破綻を察知できず、侯爵家の財産を半減させてしまった責任を、ひとり背負い込んだ。
僕はすでに大人だったが、だから平気でいられるというものじゃない。この件はどう考えても不可抗力だった。だれだろうと防ぎきれない種類の災難だったと思う。
なのに、父親は死をもって侯爵に詫びた。まるでサムライが切腹するような詫び方だ。いまの時世では軍人というべきなのか。どちらにしても、僕の父親という人には似つかわしくない最期だった。僕にはそう思えてならない。
見習うべき手本の父親を失い、茫然としていた僕は、ふと、春生のまなざしに気づいた。心もち僕を見上げ、追いすがるようなまなざし。それは、寄る辺ない孤児のまなざしだった。
そうだった。こいつこそだれもいない、正真正銘のひとりぼっちなのだと思い至った。実父がどんな人物か知らされないまま、養父を大地震に奪われた。男としてどうあるべきかの手本を、老いた養母に求めるのは無理無体というものだった。
途方に暮れる幼い春生の前に、突如現れた僕たち山田父子は、思いがけず差しこんできた一条の光だった。それなのにまたしても、その一方(頼もしく見えるほう)を失った。そしてひとり残ったこの若いほうは、どことなく頼りないのだ。
けれども、この人しかいなかった。どこまで信用できるかわからない。だけどこの人しかいないのだから、しょうがない。春生のまなざしはそんなふうに、葛藤を重ねて自問自答していた。
春生と僕は似た者同士だった。互いに同じような空洞を抱えていると嗅ぎつけ合った。しかし僕は春生よりひと回りも年長で、侯爵家の財を守り、次代の後継者を補佐するべく雇われた者にすぎない。僕にとっての春生は、教え導くべき年少者であると同時に主筋の子でもあった。それも、表沙汰にしてはならないごく内密の存在であったから、事はややこしかったのだ。
春生の初七日を終えて間もない頃、養母の敏江さんが僕を訪ねて来た。手にした風呂敷包みを開くと、現れたのは見覚えのある夏背広だ。この夏の初めに春生から頼まれて貸したものを、返しに来てくれたのだった。
銀座で買い物をしたいけど、どんな服を着て行ったらいいかわからない。春生は肩をすくめた。オレってマシな服を一枚も持ってないからさ。恥じらいながら言うのを聞いて、僕は焦った。本来なら上質な背広の一着や二着、とっくに誂えてあるべきだったと、気づいたのだ。
しかしどう考えても、間に合わない話だった。なにしろ侯爵家御用達の仕立て屋自体が、銀座にあるのだ。そこへ行くときにどんな服を着せるか。なにより侯爵家の一員として、春生を連れて行っていいものか。やはりマズイのではないか。等々、僕の心は千々に乱れた。
エイジさんのお古の服をちょっと貸して貰えたらいいんだけど。春生が申し出てくれて、ホッとした。僕の手持ちの夏背広のうち、中くらいの一着を選んで貸した。質と着古し加減が中くらいのそれは、春生の細身で筋肉質の体形を引き立てた。新品の高級な注文服じゃないのが、むしろよかった。春生の若さには、似つかわしくて自然だったのだ。
「こんな紙があったんですけど。春生のものかどうかわからなくて」
敏江さんは背広の内ポケットから、折りたたんだ紙片と封筒を取り出した。ウチの母さんはあんまり字が読めないみたいだ。春生がつぶやいていたのを思い出した。受け取って開くと、紙片は二枚重なっている。うちの一枚は、銀座黎明堂眼鏡店の前払い金受取証だった。
僕もメガネを使っているから、決して安いものじゃないことは身に染みて知っている。それでも、春生が誂えたメガネの値段に驚いた。僕がいま使っているものより高価なのだ。
よほど豪華なフレームにしたのか、それとも特別なレンズが必要だったのか。僕は訝った。派手さや格好良さでメガネを選ぶとは、全然春生らしくない、考えにくいことだった。
なんといってもこれは、春生が初めて身につけるメガネなのだ。おそらくこの数年間、自分の稼ぎをこつこつと貯めて、やっと買えたものだったに違いない。封筒には、商品受け取り時に支払うべき、残金相当額の紙幣が入っていた。
受取証と紙幣を見ていたら、僕は胸が苦しくなった。春生はこんなにも切に、生きようとしていたのだ。それが断ち切られてしまった。その無念と悲しみが、僕の肚の底からせり上がってくる。敏江さんの前では嗚咽を漏らすまいと、歯を食いしばって堪えた。
銀座の中心街からやや離れた仲通りを右往左往した後、もう一本裏通りへ入った僕らは、そこでようやく銀座黎明堂眼鏡店を見つけることが出来た。僕と敏江さんとサチ、そしてサチの胎内で息づく春生の子も数に加え、四人連れの僕らだった。
サチの妊娠が確認されて以来、僕はあらゆる場面で春生の子を頭数に加えるようになった。もちろん、頭の中だけでひっそりと。そうすることでほんの少しだけ、春生の不在の空洞が狭まるような気がしたのだ。ほんの少し、だけだったが。
この辺りはもう銀座からだいぶ外れているんじゃないの?サチは軽口を叩いた。敏江さんも通り過ぎてしまった洋品店のショーウィンドウを、名残り惜しそうに見返っている。なんでこの店にしたんだ?僕もまた胸中秘かに春生に問いかけた。それほどこの店の外観は銀座のイメージとかけ離れて薄暗く、地味だった。
しかし一歩中へ入ると意外なことに、銀座黎明堂眼鏡店は晴れ晴れと明るいのだった。どんな仕掛けか知らないが、天窓から降り注ぐ自然光が店内に溢れ、眩しいほどに明るい。陳列ケースのガラスやそこかしこに取り付けられた鏡など、磨かれるべきものたちが充分に磨き抜かれ、光り輝いているのだ。
たしかにこの日は晴天だったが、街並みがつくる日陰に沿って歩いてきた僕らには、眩しすぎる明るさだった。皆が一様に、日を浴びた猫のごとくに眼球を細め、凌いだ。そうしてようやく、店主らしき人物の姿が見て取れた。
白シャツに紐ネクタイを結び、吊りズボンを穿いた初老の男が、にこやかに僕らを迎えた。しかし金色に輝く眼鏡のレンズが光を反射して、その奥にあるはずの目の表情は読み取れない。店主らしき男は机に向かって作業中の手を休めず、来店した僕らの目が店内の過剰な眩しさに慣れるのを待っていた。
休みなく動く店主の手は、つかんだ布切れと一体化したように、しきりとなにかを擦り磨いていた。いくらか目が慣れた僕は、それが検眼用のレンズだと見て取った。
机上にきちんと整列した検眼用レンズは、どれもピカピカに光り輝いている。それでもなお粛々と磨き作業を続ける店主は、眩しさを乗り越えた僕の目を(あるいはメガネレンズを)見て言った。
「いらっしゃいませ。ご用件をどうぞ」
僕は春生が遺した前払い金受取証を差し出した。
「おお。滝田春生様。お待ちしておりました。ご注文の眼鏡はとうに出来上がっております。はて、ご本人様はどちらに?」




