孝行者、空に礼を溢す
その夜、孝行者は火を焚かなかった。
小屋に入らず、草の上に身を伏せ、ただ空を見ていた。
月はなかった。星もなかった。
それでも彼の眼は、空を見ていた。
翌朝、彼は鑑真のもとへ向かった。
弟子たちはすでに散っていた。
幽然も、影一つ残さず、消えていた。
孝行者は、鑑真の遺体に手を触れなかった。
折られた指のかたちをただ見つめ、
そこにあった不完全な説法印に、深く頭を垂れた。
「教えとは、問うてはならぬものだったのか」
その声は、小さく、風にも溶けなかった。
ただ彼の胸の奥で、ひとつ、灯のように揺れた。
彼は合掌しなかった。
掌は結ばず、ただ両腕を垂らしたまま、膝をつき、深く礼をした。
それは人に向けたものではなかった。
亡骸でもなく、教えでもなく、ただ“在った”ということに対しての礼だった。
その礼は、風を伝って、空へと昇った。
誰も見ることはなかったが、
その日、唐招提寺の上に雲が裂け、光が一筋だけ差したと、
のちに麓の者が語ったという。
その話を語った者も、やがて名を失った。
ただ一つ、今も残っているのは、
礼の形を持たぬまま、空に礼を溢した者の伝え話である。
ここまで拙作に目を通していただき、ありがとうございました。