それでも前へ
先程まで見ていた世界が闇に包まれ、何もない暗闇へと放り出されたみちるとアリサ。
足場はなく、上下左右の感覚すら曖昧な空間。
だが、完全な虚無ではない。
みちるはすぐ隣に力無く漂うアリサの背中へと、自身の身体を寄せた。
抱き締める……というよりも、引き留めるように。
触れ合う場所から伝わるアリサの体温は、アリサが今生きて、確かにここにいるという事実を、みちる自身に言い聞かせるようでもあった。
みちるは気付いていたのだ。
S-087が爆散した、あの瞬間。
アリサと繋いでいた手が、ほんの一瞬だけ――震えていたことを。
それ以外、彼女は悲鳴を上げるわけでも、取り乱す事もしていなかった。
むしろみちるの方が思わず声を上げてしまう程だった。
あまりにも小さく、あまりにも一瞬の揺れ。
だからこそ、見逃してはいけない震えだった。
みちるはぎゅっと腕に力を込め、耳元で静かに声をかける。
『……アリサ』
返事はない。
それでもアリサの呼吸がわずかに整っていくのを、みちるは背中越しに感じ取っていた。
『ごめん……無理しなくていいよ。思い出すの、辛いなら……』
もうやめようと言いかけて、みちるは言葉を飲み込む。
アリサは自分の為に、辛い事ばかりの記憶を一緒に見せてくれている。
自分が知りたいと、そう願ったばかりに……彼女を深く傷付けたであろう出来事を、もう一度——何もできずにただ相棒の死にゆく姿を、その瞬間を再び見る事になったのだ。
両腕の力をさらに強め、より近く、より強く――もう溶け合ってしまうくらい、みちるは自分の身体をアリサへ押し付けた。
もしかしたらアリサ、痛いかもしれない。でも……絶対に私は離れない。
『……私は、ここにいる。ちゃんと傍にいるから』
闇の中で、アリサがほんのわずかに首を動かした。
それは頷きとも、拒否とも取れない、曖昧な動きだった。
『約束する。絶対……どうなっても、例え魂しか残らなくたって私、アリサの傍にいる。だから――』
『みちる、それは許さない』
低く、掠れた声。
感情を削ぎ落とした、いつもより冷たいアリサの声。
『え……?』
みちるは呼吸を忘れ、抱き締める腕から力が抜けていく。
拒まれた――そう理解するよりも先に、胸の奥がひやりと冷えた。
『……どうして?』
縋るような問いかけは、囁くような細く小さい声だった。
アリサは答えぬまま、自身を抱くみちるの腕の力が抜けた事で、その腕から逃れた。
そして彼女へと向き直ると、今度は自分からみちるを抱き締めた。
『ぁ……』
『どうなってもなんて……許しません。みちるはみちるのままで、傍に居て下さい……』
抱き締める力は決して強くない。
それでも、この手を離したくないというアリサの本心が、指先をみちるの柔らかい肌に食い込ませていた。
みちるの胸に、アリサの額がこつんと軽く触れる。
吐息が、ほんの少し震えているのが分かった。
『……私のまま?』
問いかけは、戸惑いを隠せていなかった。
アリサはみちるの胸元に顔を埋めたまま、低く言う。
『……話す事も出来ず、触れる事も出来なくなるのは……辛い』
その言葉に、みちるの指がぴくりと跳ねた。
『……S-087には最後まで伝えられなかった。……私が失うのが怖いから、求めてくれていたのに、私は拒絶した』
アリサはそれ以上何も言わず、ただみちるを抱き締めた。
そこにいるのだと、確かめるように。
みちるはしばらく何も言えず、ただアリサの背中に腕を回す。
抱き締め返す腕には、精一杯の想いを込めて。
『……ずるいよ』
やっと絞り出した声は、かすれていた。
『そんな言い方されたら……離れられないじゃない』
アリサの肩が微かに震え、次第にどこか安堵したかのようにゆっくりと身体から力が抜けていく。
『私は……この世界に来て、あなたに会えて良かった。……今度こそ、奪わせはしない』
それが、今の彼女に出来る最大限の返答だった。
やがて闇の中に冷たい光が灯り、世界が再構築されていく。
――次の記憶はもうすぐだ。
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戦後処理の段階において、『春風の乙女』――識別コードS-087の戦死は、しばらくの間伏せられた。
彼女の存在は、単なる一兵士ではなかった。
前線において彼女が生き、戦い、微笑む姿が他戦線の兵士達の士気を底上げする装置として機能していたからだ。
遠き戦場で彼女が奮闘している。
彼女がどこかで笑っている。
彼女が今日も生きている。
その物語が失われる事は、
皇国軍にとってあまりにも手痛い損失だった。
故に発表は先送りにされ、死亡報告は机上で保留され、彼女はしばらくの間、生きている存在として扱われ続けた。
——それが、『春風の乙女』に与えられた最後の役割だった。
彼女が命を懸けて守ったもの。
それはK-946という、特に秀でた才能を持たぬ、ただの青年兵だった。
英雄でもなければ、戦局を左右する存在でもない。
戦果の記録においても、評価の対象にすらならない兵士。
『春風の乙女』という象徴的価値と天秤にかければ、あまりにも釣り合わぬ存在だった。
軍の論理に照らせば、彼女の死は全くの無駄であり、彼の生存は記載ミスレベルの誤差でしかない。
——それでも、彼女にとっては違った。
S-087にとっては、自分の命と引き換えにしてでも守るべきものは、世界でも、勝利でも、未来でもなく、目の前にいた、ただ一人の愛した人だったのだ。
彼女は選び、そうして死んだ。
アリサはその事実を理解していた。
理解はしていても、影で囁かれる兵士達の非難や嘲笑に対し、彼女の選択を「尊重しろ」と訴えるつもりはなかった。
自分が言わねばならぬその言葉は、あまりにも安く、あまりにも無責任だったからだ。
S-087の戦死が伏せられている間、K-946は生き残った者として前線に残された。
PTSDなど認められる訳がない、ただの甘えだと尻を蹴り飛ばされて出撃させられるのだ。
英雄の恋人。
春風の乙女に守られた男。
英雄を縛る枷。
彼女の死因。
誰もが彼に冷たい言葉を吐きかける訳では無い。
口には出さず、視線と沈黙だけで同じ意味を突き付けてくる。
何も成していない。
何も有能さを証明していない。
ただ無価値に生きているだけだ。
それが、彼に背負わされた罪だった。
彼は何度も彼女の名を持ち出され、彼女の死と並べられ、生きている理由を問われ続けた。
やがてK-946は、自ら死を選ぼうとした。
失った彼女の代わりに、英雄的に挺身する訳でもない。
ただ、この場から消えれば少しは釣り合いが取れる気がする。そんな言い訳をして。
震える手で魔導デバイスの杖先を己の額に当て、頭を吹き飛ばそうとした。
――だがその瞬間を止めたのは、アリサだった。
彼女は何も言わず、ただ無感情にその行為を妨害し、無表情のままK-946の頬を殴り飛ばした。
そして、静かに言った。
「S-087が命を懸けて繋いだ命だ。それを、自分で捨てるつもりか」
声は低く、同情の色は微塵もない。
だが言葉の一つ一つが、彼の逃げ道を塞いでいた。
「貴様が自ら死ねば、彼女の選択は誤りになる。
それでも死にたいというのなら——
S-087に、どの顔で会いに行くつもりだ」
K-946は何も答えられなかった。
アリサはそれ以上責める事も、慰める事もせず、彼をそのまま次の戦場へと引き摺り出した。
——生きろ、とは言わない。
——だが、死ぬ事も許さない。
それが、彼女に出来る唯一の介入だった。
数度の出撃の後、K-946は帰還しなかった。
作戦に参加する以前の移動中に、対空砲火でつまらなくあっけなく死んだとだけ聞かされた。
それ以上の詳細はなかった。
アリサは報告を聞くと無言のまま歩き出し、足元に転がっていた小さな石を蹴り飛ばした。
石は弾かれ、乾いた音を立ててどこかへ消えた。
それで、この出来事は終わりだった。
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それ以降、アリサが他人と組む事は無くなった。
誰かに背中を預ける事も、頼るという選択肢も、いつの間にか彼女の中から消えていた。
――自分一人で十分。それだけの技量も経験も、この身に染み込んだ。
日々は戦いに費やされ、いたずらに犠牲を出しながら出撃を繰り返す中で、季節は再び冬を迎える。
冷たい空気に息を白く染めながら、今回もまた、成果の見えない任務へと身を投じる。
無駄足に終わるかもしれない。
何も得られないかもしれない。
――それでも、前へ。
立ち止まってしまえば、そこで終わってしまう。
もう二度と、歩き出せなくなってしまう。
――だから、私は立ち止まらない。
~~次回予告~~
別動の威力偵察部隊が全滅した。
だが、死ぬ直前に残された情報がある。
敵の地下本拠地――ついに、探し続けていた当たりを引いた。
皇国軍は、持ちうる兵力を集め、地方都市ヴィクトリアへ侵攻を決定した。
点だった犠牲が、線になる。
塵は、積もった。
次回『塵も積もれば』
それでも、私は立ち止まらない。




