春風は彼方へ 後編
またまた文字数が大変なことに……
どうぞごゆるりとお読みくださいませ…!
――威力偵察任務が始まった日から、死は隣人からルームメイトになった。
『皇国軍は攻めてこない。頑丈な殻に篭って噛みつくだけの臆病な弱者である』
救済の御手副首領であるバルナ―ドによって、挑発的な演説が毎日皇国軍の支配下にある地区にまで流れ続ける。
演説の映像を流すのは潜り込んだ工作員か内通者か。
何にせよ、皇国軍が攻めの姿勢には入らないのは事実であり、守備隊の士気も日に日に尻すぼみとなっていった。
一方、皇国軍で唯一前線を飛び越え、敵勢力下の遥か後方へ侵入し、威力偵察を繰り返す特別侵撃魔導機動部隊は、内通者によって飛行ルートが漏れ、激しい対空砲火や雲に潜んだ敵の奇襲を受け続けていた。
もう同じ作戦は通用しない事は、現場の皆が理解していた。
それでも、皇国軍の勝利にはこれしか取れる手がないのだ。
高速の輸送機も次第に落とされ、旧式の輸送機若しくは飛行魔法で作戦地点まで移動しなければならない。
輸送機に乗れば魔力の節約は出来るものの、攻撃されたのなら乗員も一瞬で空の塵と消える。
飛行魔法で移動すれば多少の融通は利くが、その分魔力と気力の消耗が激しい。
皇国の勝利の為、命は使い捨てられ続けていた。
いよいよこの内乱も末期に差し掛かっているのか、それとも底なし沼の如く全てを飲み込むまで終わらないのか。
自然と人々の視線は下を向き、笑みは消え、ただ他者を憎んだ。
――暗く冷たく渦巻く陰鬱な空気を裂くのは……いつもあの人の笑顔だった
作戦会議の最中も、行軍の途中でも、戦闘の直後でも。
いつだって変わらず柔らかい笑顔で「大丈夫だよ」と微笑み、明るい笑顔を咲かせる少女がいた。
S-087。
私の隣を走り続ける戦友。
守りたいものがあるから。
守る側が勝つ未来を信じているから。
私の隣で、春風は今日も優しく吹いていた。
——だが戦場は、優しさを許さない。
それを、アリサは誰よりも知っていた。
優しさは判断を鈍らせる。
躊躇は致命傷になる。
そして、守りたいと思った瞬間から、人は弱くなる。
だから彼女は、隣を歩くS-087を「戦友」と呼び続けた。
それ以上でも、それ以下でもない関係として、心に線を引いた。
それでも。
出撃が重なる度。
空を裂く対空砲火の中を並んで飛ぶ度。
薄氷を踏むようなギリギリの戦いから生き残る度。
その線は、少しずつ……少しずつ……摩耗していった。
——春風の乙女と、白銀の死神。
いつしかアリサまでそう呼ばれるようになった頃には、もう後戻りは出来なかった。
二人は国を背負うエースであり、非戦闘員である民衆の憧れの的。
記録用の器具を向けられた時、S-087はいつもより少し恥ずかしそうに笑っていた。
「ほら、アリ……H-163も笑顔笑顔!」
「やっているつもり……。難しい」
時折このように器具を向けられ、様々な姿勢で写真や映像を撮られる。
これが他の戦線の兵士達を勇気付けるとか言っていたが……私には良く分からない。
浮ついた取材を終えると、いつも通り戦地へ赴く。
今日も間違いなく激しい抵抗が予想されるだろう。
今回も少ない戦力を更に分け、複数のルートから合流し、作戦目標へと進撃する。
果たして何部隊が生きて合流できるだろうか。
飛行中に時々ガタガタと揺れる旧式の輸送機に乗せられ、静かに呼吸を整えているアリサに、隣に座るS-087が小声で囁いた。
「……今日も一緒に、生きて帰ろうね」
アリサは答えずに、そっと彼女の手へと自身の手を重ねた。
「……大丈夫。今日もいつも通りやればいい。きっとうまくいく」
心を開けば、失う苦しみが強くなる。
他人を信じれば、裏切られた時が苦しい。
……それでも。
それでもアリサは、S-087の笑顔から目を逸らせなかった。
――もし、この戦争が終わったなら。
ほんの一瞬だけでもそんな軟弱な考えが脳裏をよぎってしまった事を、アリサは自分自身で驚いていた。
そんなたられば、今は何の役にも立たない。死する事への恐怖を悪戯に高めるだけだ。
余計な雑念に思考を割けば、本当に大事な時に自分を優先してしまう。恥じるべきだ。
それからも、綱渡りの日々は続いた。
敵の抵抗は苛烈さを増し、空を飛ぶ度に死が近付く感覚にも、兵達は次第に慣れていった。
あるいは、慣れたフリを覚えただけなのかもしれない。
今日生き残れた事を喜ぶ暇もなく、次の作戦のデータが配られる。
仲間が減り、補充され、また減る。
それが日常だった。
———————————————————————————————————
目まぐるしく移り変わる記憶を見て、みちるは思わず目頭を押さえた。
肉体的疲労は、共鳴魔法中は感じる事はない。これは彼女の心が疲労を訴えているのだ。
『……みちる、そろそろ戻る?」
『ううん。まだ……まだ見せて。このままじゃ、S-087さんが気になって寝れないもの』
『……分かった。無理はしないように』
そうして二人は次の記憶へと降り立って行った。
———————————————————————————————————
……無論私もずっと無事だったわけではない。
手足が吹き飛ぶ事も、死ぬ直前まで深手を負うこともあった。
嬉々としてやってきた死神の鎌が私の首を掻き切る直前になって、いつも邪魔が入り私は生き長らえている。
とことん死に嫌われているのか、それとも幸運の女神の手の中で転がされているのか。
自分の預かり知らぬ所での勝手な英雄視と皇国軍のプロパガンダで、友軍からは過度な期待の眼差しで、敵軍からは血走った殺意の籠もった目で狙われる事になり、息が詰まる思いだった。
そして、そんな日常の中で、S-087は少しずつ変わっていった。
最初に気付いたのは、アリサだった。
笑顔が増えた。
正確には、いつもの笑顔とは違うどこか落ち着きのない、浮ついた笑顔。
髪を整える時間が増えた。
法衣の汚れを、戦闘後すぐに落とすようになった。
それは些細な変化で、誰も気に留めない程度のものだったが、アリサにははっきりと分かった。
S-087には――気になる相手が出来たのだ。
観察の結果、相手は第一分隊所属、識別コードK-946。
S-087より僅かに年上の青年兵。
野営地で食料配給を待つ列の中、偶然声を掛けられたのがきっかけだと、後から聞いた。
取り立てて特別な話ではない。
天気の話、任務の愚痴、次の配給は何が出るか。
そんな、平和な話題。
それでも。
K-946と目が合う度に、S-087は分かりやすく頬を染める。
遠くからでも見えるくらいに。
手を振られれば、少し大げさなくらいに振り返す。
名前を呼ばれれば、声が一段高くなる。
そして、アリサの隣にいる時よりも、ずっと――少女らしい顔をしていた。
……きっと彼女は、愛に憑りつかれてしまったのだろう。
そう、アリサは思った。
戦場では最も不要で、最も残酷な感情。
いたずらに判断を鈍らせ、対象を失った時に深い傷を残す毒。
アリサはそれを、痛いほど知っている。
だからこそ、彼女は何も言わなかった。
祝福もしなければ、忠告もしない。
冷やかす事も、嫉妬で距離を詰める事もしない。
ただ、以前と同じように、S-087の隣を走り続けた。
彼女が少し浮ついた足取りで前に出れば、その半歩後ろを。
彼女が第一分隊を気にして自身の警戒を怠らぬよう、周囲を確認しながら。
それが戦友としての、正しい付き合い方だと信じて。
「……えへへ、アリサちゃん。私……頑張るね!」
持ち合わせた所で重荷にしかならないソレを得たS-087の笑顔が、以前よりも少しだけ眩しく見えた事を、アリサは否定出来なかった。
———————————————————————————————————
それからしばらくたった、夏の日差しがじりじりと肌を焦がす頃。
配置転換の為、雲一つない晴天の下を飛行魔法で移動する魔導機動部隊。
突き刺すような光から目を保護する為、ナノマシンバイザーの遮光性能を高め、アリサは隣を飛ぶS-087へと視線を向けた。
桃色の法衣は風を孕んで涼し気に翻り、いつもより軽やかに見える。
うだるような暑さだというのに、彼女は妙に上機嫌だった。
『ね、ね……アリサちゃん』
ナノマシン通信によりアリサの脳内へ、秘め事を囁くように音量を落としたS-087の声が響く。
『……何』
『聞いても……怒らない?』
その問いかけだけで、アリサは察していた。
――まただ。
S-087は飛行姿勢を保ったまま、真っ直ぐ前を見続けていた。
その表情はバイザーで伺うことは出来ないが、きっと笑みを浮かべているのだろう。
『あのね……私、言ったんだ』
『……何を』
『……私の気持ち。ちゃんとね』
一瞬、沈黙が流れ風の音だけが支配する。
S-087の声は、明らかに弾んでいた。
隠しきれない、抑えきれない喜びが、通信越しでも伝わってくる。
『そしたらね……了承、してもらえたの』
その瞬間、彼女の飛行がぐらりと僅かに乱れた。
嬉しさで魔力のコントロールを間違えたのだろう。
『……そう、おめでとう』
アリサは、ただそれだけ返した。
本当なら、もっと祝福の言葉を掛けるべきなのかもしれない。
戦場という失う方が多い絶望に満ちた場所で芽生えた、ささやかな希望。
アリサはそれに対し疎ましく思っているわけでもなく、妬ましく思っているわけでもない。
ただ……困惑していた。——理解できないのだ。
『えへへ……ね、聞いてる?』
『……聞いている』
『ねぇ、私ね……すごく怖かったんだ。拒絶されたらどうしようって。でも……』
S-087は一度言葉を切り、深呼吸する。
『でも、ちゃんと正直に生きたいって思ったの。好きな人に、ちゃんと好きって伝えて……駄目なら駄目で諦められる。けど……言わないまま終わるのは嫌だったの!』
その言葉は、あまりにも真っ直ぐで。
……あまりにも、戦場に似つかわしくなかった。
アリサの胸の奥で、何かが静かに軋んだ。
――生きたい。
――好きな人と明日を迎えたい。毎日を生きたい。
それは、誰もが持つべき願いで。
そして、この戦場では叶う可能性の最も低い、残酷な願いだった。
『……浮かれていると、死ぬ』
アリサは淡々と告げる。
『うん、分かってる。それはそれ、これはこれだもんね!』
S-087は、それでも笑った。
『分かってるけど、私は……今、すごく幸せだよ!』
前を飛ぶ彼女の声は、驚くほど晴れやかだった。
アリサは、それ以上何も言えなかった。
過度な忠告は、彼女の希望を……喜びを折る刃になる。
祝福は……自分が踏み込んではならない、理解してはいけない領域へ足を進める合図になってしまう。
だからこそアリサは、いつもの距離を保ったまま、ただ並んで飛び続けた。
――戦友として。
それが、彼女に許された唯一の立場だから。
続けて話し続けるS-087の声を聞いているうちに、アリサは気付いてしまった。
彼女はもう、向こう側の人間になってしまったのだと。
自分は……愛を知らず、求めず、与えられずに生きている。
その違いが、新月の夜空よりも暗く、深く、二人の間に横たわっていた。
———————————————————————————————————
真夏の空は、夜になっても生温かった。
まるで、まだ燃え尽きていない死の気配が残っているかのように。
高度を保ったまま飛行魔法で夜空を渡る中、突如視界いっぱいに広がるのは、白に近い閃光と、一瞬で肌を焼き焦がすような赤・青・黄色の焔。焦げ臭い硝煙の煙。
激しい対空砲火と炸裂・爆裂魔法による爆炎の花が至る所で咲いていた。
回避行動を取りながら急上昇急降下を繰り返し、パワードスーツの内側は緊張と晒される熱でじっとりと汗ばみ始めていた。
地上から見上げている人間は、夜空を彩る美しき花々が咲いていると皮肉交じりに野次を飛ばしているのだろう。
だがその上空——魔導機動部隊は必死に逃げ纏い、避け切れない人間から身を焦がして墜ちていく。
一瞬でも気を抜けば、死ぬ。
激しい対空砲火を抜け、幾人かを失いながらも魔導機動部隊は帰還する。
損耗率は想定内。
報告書にはそう記された。
ゆっくりと身体を休める暇もなく、次の作戦ブリーフィングが始まる。
簡易指揮所に集められた複数部隊。
投影された戦域図には、これまでよりも明らかに敵勢力の奥深くへの侵攻ラインが引かれていた。
――長距離侵攻作戦。
輸送機の使用が認められているが、万が一途中で輸送機が落とされれば、敵の勢力下で魔力が切れる。
一秒たりとも油断する事が出来ない。
いつ敵の魔導人形が這い寄って来るのか、いつの間にか包囲されているかもしれないと恐怖に怯えながら休息を取らねばならない。
それでも誰も異を唱えず、沈黙のまま敬礼し、迫る任務に備え準備へと戻っていく。
今より更に犠牲者が増えるという事実を、全員が理解した上での反応だった。
春風の乙女と白銀の死神。
勝利の女神と信じられている駒が、最も危険な場所へ置かれる。
そうする事で、勝てるかもしれないと兵士達へ希望を持たせるのだ。
――例え、薄氷を踏むような薄い薄い希望でも。
そろそろ傷も目立ってきた魔導デバイスを手入れしていたアリサは、ふと何となく隣を見る。
同じように装備の手入れをしていたS-087がアリサの視線に気付くと、一瞬目を大きく開き、柔らかく微笑んだ。
——大丈夫だよ。
そう言っているかのように。
アリサは、ゆっくりと視線を手元の魔導デバイスへ戻し、静かに息を吐いた。
夜営地は、不思議なほど静かだった。
明日になればまた空が焼け、誰かが欠ける。
それが分かっているからこそ、兵達は無理に声を出さず、それぞれの時間を過ごしていた。
アリサが装備点検を終えたのを見計らって、S-087が声をかけた。
「ね、アリサちゃん。聞いて欲しい事があるの」
声の調子が、いつもより少し高い。
それだけで、彼女が今どんな気持ちなのかが分かってしまう。
「……何?」
S-087は少しだけ周囲を気にしてから、ナノマシン通信に切り替えた。
その声は、戦場では場違いなほど、楽しげだった。
『今回の任務ね……K-946さんも一緒なんだって!』
アリサは一瞬だけ眉を顰めた。
何故そうしたのかは自分でも分からない。ただ反射的に眉が動いたのだ。
『部隊の合流地点も同じらしくて……!』
嬉しさを隠そうともせず、S-087は続けた。
『だからね、私……頑張らないとな~って思ってるの!私が彼をちゃんと守って、ちゃんと生き残って……この戦いが終わったら……』
言葉が、少しだけ柔らかくなる。
『一緒に、普通の話をしたいなって』
平和だった頃、何をしていたか。
戦争が終わったら、どこの街で暮らそうか。
軍人をやめて、何の仕事に就くか。
今のこの世界では、贅沢すぎる未来の夢物語。
『戦争が終わったらね、私……』
S-087は一瞬、言葉を切った。
恥ずかしそうに、でも確かに前を向いて。
『……普通の女の子として生きたい。好きな人と一緒に毎日おはようからおやすみまで……ううん、夢の中でも一緒にいるんだ!……欲張りかな?』
その声は希望に満ちていた。
今はどうしても叶わない夢でも、きっといつかはと未来を見据えていた。
それに対し、アリサは何も言えなかった。
否定も出来ない。
肯定も出来ない。
羨ましいとも、間違っているとも、口にする資格がない。
だから只、ゆっくりと頷く。
「……良いと思う」
それだけ。
たったそれだけでも、アリサにとっては何とか絞り出した一言だった。
S-087は少しだけ不満そうに唇を尖らせたが、すぐに笑った。
「もう、相変わらずだね。でも……それでいいや」
そう言って、彼女は拳を小さく握る。
「よーし!今回の任務、完全勝利してみせるっ!」
冗談めかした声。
だが、その奥にある本音は、ひどく真剣だった。
アリサはじっと彼女を見つめる。
希望を語るキラキラと輝く瞳。
未来を疑っていない表情。
……だが、それ故に危うかった。
「……無理は、しないように」
ぼそりと呟いた言葉は、小さけれどしっかりと隣のS-087の耳に届いていた。
彼女は少し驚いたように目を瞬かせ、すぐに嬉しそうに笑う。
「うん!ありがとう、アリサちゃん!」
その笑顔が、あまりにも眩しくて。
アリサは視線を逸らした。
胸の奥に、説明のつかぬざわつきが広がる。
――嫌な予感。
理屈ではなく、直感が告げる警鐘。
これは自身の事なのか、それとも……。
———————————————————————————————————
出撃前。
薄暗い待機エリアで、最終確認が行われていた。
各員が装備を点検し、魔力残量を確認し、簡潔な命令が飛ぶ。
いつもと変わらない光景。
いつもと変わらないはずの時間。
アリサがナノマシンバイザーを展開した時だった。
「……アリサちゃん」
振り返ると、S-087が立っていた。
浮かべる表情はいつもの明るい笑顔ではなく、真剣なもの。
「……?」
周囲を気にするように一歩近付き、彼女はナノマシン通信に切り替える。
『ね、お願いがあるの』
その声音で、アリサは嫌な予感を覚えた。
このタイミングでのお願いは、ほとんどが碌なモノではない。
『今回の作戦……もし、もしもの時があったら』
一瞬、言葉が詰まる。
『私より……K-946さんを守ってあげて』
『……は?』
突然彼女は何を言い出すのか。
思っていたより遥かに冷たい声が出てしまった。
『その……彼の方が……ね?ほら、まだ慣れてないし。私より、ずっと危なっかしいから』
『……』
『私が彼を守る。でも……私じゃ、どうしても間に合わなかった時があったら』
S-087は、はっきりと続けた。
『その時は、彼を優先して』
それは命令でも、作戦指示でもなかった。
ただの、個人的な願い。
アリサは、すぐに返事をしなかった。
それが何を意味するかを、理解していたからだ。
その選択が、どんな結果を招く可能性があるかを。
『……その約束は、了承しかねる』
一度は、そう答えた。
『……分かってる。無茶だよね』
それでもS-087は、引かなかった。
『でもね、私……後悔したくないの』
『好きな人を守れるのに、守らなかったって思いながら生きる方が……ずっと怖い』
その言葉はまっすぐで迷いのない、熱い心が込められていた。
「……」
アリサは拳を握り締め、視線を足元へと落とす。
正しい判断ではない。
軍人として、完全に間違っている。
それでも——
『……分かった』
その瞬間、S-087の表情がぱっと明るくなった。
『ありがとう!やっぱりアリサちゃん、優しいね』
『……約束は守る』
『……うん、本当に、ありがとう』
彼女は、いつものように笑った。
だがその笑顔は、アリサの胸に重くのしかかっていた。
ああ答えてしまったが、どこぞの一兵卒と春風の乙女、どちらを優先するかは考えるまでもない。
なのに……何故、了承してしまったのか。
胸にしこりを残したまま、作戦が始まる。
戦闘は、想定以上に苛烈だった。
複数部隊による同時突破。
濃密な対空砲火。
視界を埋め尽くす爆炎と、断続的な魔力反応の消失。
誰かが、次々と落ちていく。
その中で、件のK-946も被弾し片腕を吹き飛ばされるも命は繋ぎ、負傷兵として庇われながら進軍を続けた。
多くの犠牲を払って攻撃を仕掛けた地方都市。そんな遠征の結果は――ハズレ。
これ以上余計な損害を出さぬ為に、即時撤退命令が下される。
また次の地方都市を狙うしかない。
疲れ切った魔導機動部隊は、帰還用の輸送機との合流地点まで全速力で飛行していた。
もうすぐ合流地点。ここまで目立った追撃も無く、兵士達の中にも何とか生き残れたとほっと緊張の糸が緩んだ者が出始めた――その時だった。
「——ッ!!対空砲火ッ!!」
突如直感が警鐘を鳴らし、アリサがナノマシン通信で全隊に通告するも、既に何人かの兵士が敵の爆裂魔法に飲み込まれ、力なく落ちていく。
回避が遅れたのは不意打ちの一撃だけ。それぞれ編隊を崩しつつも各々回避行動を取り、時に防御魔法で軌道を逸らし突破を試みた。
アリサを始めまだ満足に戦える兵士は効率的に回避を行い、誰一人として落ちる事無く突き進むのに対し、しばらく防衛戦しか経験していなかった補充兵や負傷兵は思ったように進めず、追い込まれるように固まって飛行し、運悪く直撃を食らって塵に帰る者もいた。
その団子になってしまっている集団に、K-946の姿があった。
アリサの横を飛行していたS-087が左右を見回し、K-946の姿が無い事に気付くと即座に反転し、迷わず負傷兵等の方へと向かっていった。
『S-087!!何してる!!』
『だって!私が助けなきゃ!』
アリサは舌打ちを一つ溢し、彼女を追って激しい砲火に晒される後方集団へと舞い戻った。
先行したS-087がふらつくようにして飛ぶK-946の腕を取り、気遣うように寄り添い、回避行動を取る。
一人で飛ぶよりも重量が増し、魔力コントロールも困難な状態であっても彼女は諦めずに前だけを見て飛び続けた。
——だが、戦場の悪魔が牙を剥いた。
「きゃっ!?」
寄り添って飛ぶ彼女達の近くで爆裂魔法が炸裂し、爆風で大きくバランスを崩し、S-087が掴んでいたK-946の腕から離れてしまう。
格好の得物だと思ったのか、中々体制を立て直せないK-946に向けて敵の集中砲火が迫る。
——S-087との約束が、頭をよぎった。
「……仕方ないッ!」
アリサが防御魔法をK-946へと叩き込み、半透明の防御障壁が彼を包み込むように展開される。
――だが。
「ッ……!?」
その瞬間、あろうことかS-087は彼を庇うように自身の身体を迫る砲火の前へと滑り込ませた。
「だめぇっ!!!」
彼女への防御魔法は……間に合わない。
「————!」
まるで時がスローモーションのようにゆっくりと粘つき、身体も時間に追従して自由に動いてはくれない。
それなのに意識だけははっきりとしていた。
いくつもの閃光が彼女へ襲いかかり、僅かに耐えてくれていた防御魔法の障壁が砕け散る瞬間。
彼女はこちらを振り返り、精一杯の微笑みを浮かべていた。
――刹那、彼女のトレードマークであった桃色の法衣がバラバラに引きちぎれ、四散した。
「S-087……ッ!!」
急激に元の速度に時間が戻り、伸ばした手が空しく虚空を掴む。
惚ける暇も与えてくれず、目まぐるしく追撃の砲火が迫る。
直感の警告が、耳鳴りのように喧しく脳裏へ響く。
「ぐ……ッ」
反射的に、アリサは加速した。
高速飛行へ移り、突き進む身体で空気が引き裂かれる。
今は彼女を偲ぶ時間ではない。自分が生き残る事を優先せねばならない。
そして……彼女の意思を、最後の願いを叶えねばならない。
「うわぁっ!?」
多少強引ではあるが、ふらついて飛ぶK-946の腰を抱き込み、その場を離脱する。
情けない声を出す彼に苛立ちを覚えながらも、せめて彼女が命を散らしてでも守ったコレを、今回は守ってやらないと彼女に示しが付かない。
私が守っているのは彼ではない。……彼女の最後の意思だ。
延々と嗚咽を漏らし続けるお荷物を抱えながらも、何とか危険領域を突破し輸送機へと帰還した。
ハッチが閉まるその瞬間。
アリサを守るように法衣に引っかかっていた桃色の布切れが、ふわりと外へ吸い出されると一瞬で遥か後方へと流れ、宵闇に染まる空へと消えていった。
アリサはそれを一度見送った後、もう振り返らなかった。
統一皇国歴6256年
『春風の乙女』の異名を持つ識別コードS-087。
東部戦線の空に散る。
齢十七の短い生涯であった。
それでは次回予告です
~~次回予告~~
皇国軍が失ったものは、限りなく大きかった。
彼女が守ろうとしたものは、彼女にとっては何より重要で
人々にとっては全くの無価値なものであった。
もう誰も名を呼ぶ者のいないこの空の下
私はただ前を向き、進み続ける。
次回「それでも前へ」
それでも、私は立ち止まらない




