敗走
地方都市第三区の各作戦区域では、至る所で耳を劈くような叫び声と、色取り取りの魔法の輝きが飛び交っていた。
増え続ける反乱兵と義勇兵の勢いは留まる事を知らず、皇国軍の防御線は各所で断ち切られ、隊列は瓦解していた。
「くそ……畜生……!!退け!撤退だ!!」
血走った眼で怒号を飛ばすレオンハルトの声が、通信網を通じて響き渡る。普段なら冷徹な声で命令を下すはずの彼の声音には、明らかな焦燥が滲んでいた。
アリサは無言のまま杖型デバイスを振るい、連続して放たれた切断魔法によって的確に、義勇兵や反乱兵の頭部や胸部を切り飛ばして絶命させる。
兵士らは断末魔の声を上げることなく音を立てて倒れ、最後は粒子となって消えていく。
敗残兵として撤退中の皇帝派の兵士達は、隣を走る兵士が被弾し倒れても、助けを求めて叫び声を上げたとしても、助ける余裕など誰にもない。
皆自身の命が惜しいのだ。
それはアリサも同じだった。
今はただ兄の側にあり、命令に従い、ここから生きて脱すること――それだけが任務だった。
瓦礫の散らばる路地を走り抜け、血を吐き倒れる仲間を踏み越えて進む。叫び声や悲鳴は振り返った瞬間に自分のものになる。だから誰も振り返らなかった。
「置いていくな! 待ってくれ……!」
掠れた声が耳を刺す。レオンハルトの腰巾着と揶揄されていた一級国民の兵士が、脚から氷弾を生やして地を這っていた。
だがアリサは横目でチラリと見ただけで、すぐ横を走り抜けていく。
彼女の瞳はただ、より良いルートを選び、走り抜ける為に動かされていた。
その途中で耳に焼き付いた叫びも、時に視界に映る、助けを乞い願う兵士の顔が胸の内でかすかに疼くだけ。
能面の様な無表情のまま、感情の揺らぎを宿すことはなかった。
取り残された兵士は涙ながらに、去っていく仲間達へと手を伸ばし、空を掴み、やがて力なく下ろしていった。
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破壊された魔導人形の破片が散乱し、倒れた兵士の死骸が粒子となり舞い散っていく中を、彼らは血と汚れにまみれながら進む。
「道を開けぇぇぇっ!!」
レオンハルトが義勇兵によって急設された包囲網を力任せに、雷撃を乱射して進路を切り開く。過剰なまでの魔力消費に顔色は蒼白となり、鼻腔からは赤い線が垂れていたが、それでも止まらなかった。
その背中を見つめ、アリサもまた黙って杖を振るう。迫り来る義勇兵を斬り伏せ、飛び交う魔法を防御魔法で弾き返し、ただ兄の足跡を追う。
血に濡れた泥を踏みしめる度、靴底にぬめりがまとわりつく。それでも立ち止まることは許されない。
やがて戦場を抜けた時、部隊の半分以上が姿を消していた。
疲弊し、満身創痍の兵士らは互いに肩を貸し、崩れ落ちそうな足を前に運ぶ。
そこにはかつての輝かしい皇国軍の姿はなく、ただ命を繋ぎ止めるだけに逃げ出した、敗残兵の群れに過ぎなかった。
ようやく立ち止まる事を許され、荒くなった息を整えるアリサの元へ、レオンハルトが足音を立てながら鼻息荒く近付いていく。
「……おい!」
敬礼しながら兄を迎えたアリサに対し、レオンハルトはアリサの胸倉を掴み上げ、憎悪に満ちた血走った目で彼女を睨みつけた。
「っ……兄様……?」
レオンハルトは血の滲む唇を噛み締め、叫ぶように吐き出した。
「指揮所での攻撃は、どういうつもりだ!今は貴様一匹でも戦力を削るのは望ましくないと目を瞑ってややったが、戻ったら覚悟しておけ……!」
真っ直ぐにぶつけられる憎悪の言葉と、レオンハルトの口から飛ぶ血の混ざった唾。
それを受けてもアリサは無表情を崩さなかった。
「……兄上は、狙撃された事に気付かれていなかったのですか……?」
「何ッ!?」
「……兄上の耳を裂いたのは、凡弾ではありません。明らかな狙撃魔法でした」
「黙れ……ッ!!」
バキィッ、と骨の割れる音が耳に響いた。
レオンハルトの拳が容赦なくアリサの頬へと振り抜かれ、彼女の口から血と砕けた歯が飛び散る。
鉄錆の味が舌に広がり、視界は白く弾け、耳鳴りが頭を締め付けていた。
だが彼はアリサの胸倉を掴んだままで、倒れ込むことを許さない。
アリサはあまりの衝撃に意識が揺らぎ、焦点が定まらなくなるもすぐに持ち直し、力の抜けかけた足腰へ再び力を籠め、しっかりと起立する。
「俺の戦闘ログには、狙撃魔法の通知などない!!……貴様が混乱に乗じて俺を始末しようと画策したんだろう……ッ!?」
「——ッ!」
再び拳が振り抜かれ、鼻と頬骨が砕ける手応えがあった。
折れた鼻から流れ込んだ血が喉を満たし、アリサは堪えきれずに口から噴き出し、激しく咳き込む。
――それでも、レオンハルトは掴んだ胸倉を離さない。
「お前が!お前がッ……!!俺の代わりになんてなれないんだよッ!!」
拳が繰り返し叩き込まれる。
己の拳がアリサの折れた歯で裂け、血が流れたとしても、殴る手を止める事はしなかった。
いつの間にかアリサの瞳は、痛みも怒りも映さず、ただ冷たい硝子のように光を失っていた。
対照的に、レオンハルトの瞳は狂気に爛々と輝き、理性を失った獣そのものだった。
何度も、何度も。
やがて彼女の身体から力が抜け、されるがままになっていても、兄は殴るのをやめなかった。
あまりに痛ましく、あまりに理不尽な暴力を目の当たりにしても、周囲の兵士は見て見ぬふりに徹していた。
今のレオンハルトに歯向かえば、今も殴られ続ける少女の二の舞になってしまうから……。
――そして、世界は闇に包まれ消えていく。
暗闇へと放り出されたみちるは、何も声を発する事も出来ず、肩を震わせ両手で顔を覆いながら、首を横へ振っていた。
ほんの数秒前まで見せつけられた記憶は、戦場の悲鳴よりも、血飛沫よりも、何倍も残酷に心を抉っていた。
『……どうして……』
掠れた声が、闇の中に滲む。
『どうして……兄妹なのに……あんな……』
涙がぽたりと頬を伝い落ちる。
必死に堪えようとしても、胸の奥でざらざらと音を立てながら何かが削れていくのを、みちるは止められなかった。
『そんなに……一方的に理不尽に傷付けられて……。どうして……耐えてたの……?』
返事はすぐには返ってこなかった。
沈黙の中、ただ虚ろな瞳がみちるを見返す。
やがてアリサは、表情ひとつ変えぬまま、低く淡々と呟いた。
『……生き残る為に。そしてお父様と兄様の為に』
その言葉は冷たく硬い。
それでも、ほんの僅かに揺らぐ声色に、みちるは確かに痛みを感じ取っていた。
『違う……っ』
みちるは首を横に振る。
『それは……そんなのは必要なんかじゃない……!こんなの、あんまりだよ……!』
声が震え、涙が止まらない。
だがアリサはただ黙って見つめ返すばかりだった。
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レオンハルト小隊が必死に帝都を目指している頃、帝都から遠く離れた地方都市の通信塔の制御室で、救済の御手の技師が軽やかに指で操作盤を叩いていた。
「……接続、完了しました!」
次の瞬間、皇国全土で繰り返しAIアナウンサーにより報じられていたニュース映像が乱れ、赤い旗を掲げる人影——バルナ―ドの姿が映し出される。
『聞け!人々よ!我ら救済の御手は、皇帝の剣たる第七機動鎮圧部隊を完膚なきまで叩き潰し、多くの同胞……無辜の民の命を奪った悪夢の兵器――魔導砲を我らが物とした!』
バルナ―ドの良く通る声が響き渡り、放送を見る者聞く者の心を震わせる。
『二級国民の同志達よ!賢明なる一級国民の同志達よ!我らは再び立ち上がった!皇帝に虐げられた全ての人々の救済の為に、我々は戦う!』
映像が切り替わり、敗走する皇国軍の姿と、その背へと威勢良く勝鬨の声を上げる赤い布を巻いた皇国兵士と、救済の御手の義勇兵が映し出された。
義勇兵達は姿格好や年齢性別は違えど、揃いの劣化版杖型デバイスを手にしており、十分正規軍とも渡り合える事を証明していた。
再び映像が切り替わると、反乱兵の指揮官——ヴィーと、義勇兵の代表が笑顔で固い握手を交わし、その背後に救済の御手の旗と魔導砲の姿が映し出された。
『見よ、今や皇国軍にすら我らの賛同者がこんなにいる!人々よ、同志よ!勇気を持って立て!!皇帝も皇国軍も恐るるに足らず!我らの手によって真の自由を、救済を勝ち取るのだ!!』
放送ジャックが終わると、AIアナウンサーが捲し立てるように戯言に耳を貸さず、不審な集会を目にしたら通報するよう呼びかける放送が繰り返される。
だが、モニターから垂れ流されていた言葉に、映像に帝都の人々は恐怖を覚えていた。
ハニカムを灰燼に帰した、大量破壊兵器である魔導砲が敵の手に落ちた。
つまり……いつこの帝都に、いつ自分達のいる場所へ破滅の凶弾が降り注いでも可笑しくないのだ。
やがて恐怖は波紋のように広がり、情報モニターを見ていなかった人々にまで口頭で伝えられ、シェルターへと我先に避難を行い始める一級国民の姿が、帝都だけでなく周辺都市、地方都市にまで広がっていく。
一度掻き消され、燻りながら僅かな煙を上げるだけであった反乱の火種は、今や大地を覆い尽くし黒々と焼く大火へと姿を変えようとしていた。
地方都市に駐屯している治安維持部隊は、既に壊滅or寝返りによって機能を失っています。
それでは次回予告です。
~~次回予告~~
やっとの想いで帝都に戻った元第七機動鎮圧部隊の兵士達。
だが彼等を待ち受けていたのは、冷たい侮蔑の視線と指揮官であるアウグスト死亡の知らせだった。
悲しみと怒りに狂う兄に告げられたのは、残酷な言葉でした。
次回「H-163」
それでも私は、立ち止まらない。




