鋼鉄の家にて
新しい両親に連れられ、初めて機関の外へ出たアリサは、生まれて初めて浴びる日光に思わず目を細めていた。
人工灯が張り巡らされた灰色の施設内で過ごしてきた彼女にとって、それは未知の衝撃だった。
蛍光板や映像投影では決して再現できない、肌を焼くような強烈な光と熱。瞬きの合間に、網膜の奥まで焼き付けられる白。
アリサは一瞬、足を止めて空を仰ぎたい衝動に駆られた。だが、直後に脳裏に響くのは教育機関で叩き込まれた命令だった。
——指示無く止まるな。周囲を見回すな。前だけを見て歩け。
ぎゅっと唇を結び、彼女は衝動を押し殺す。自らの鼓動がひどく早鐘を打っているのを感じながら、オルディス夫妻の背中にぴたりと付き従った。
外気は重く、汚く、臭い。
密閉空調の下では味わえなかった、ざらつく匂いが鼻腔を突く。焦げた鉄のにおい、排気の混じった煤煙、どこか薬品めいた消毒臭、そして乾いた砂の粉っぽさ。
それらが渾然一体となって風に乗り、アリサの感覚を刺していた。
だが、彼女にとってはすべてが新鮮だった。むしろ心臓の奥底からわき上がる喜びすら覚える。
――これが……生きている世界の匂い……?
胸が熱くなる。けれど、それを表情に出してはならない。
自分は自由になったわけではない。何故なら、両親の望む人形なのだから。
小さな手は震えていたが、それも拳を握り込むことで隠した。
機関の施設から出て、床が自動で動く長い廊下を過ぎ、また自動で動く階段に乗って降りていくと、広いロータリーへと辿り着く。
そこには黒く塗られた武骨な車が一台止められていた。
「……後ろに乗れ」
「はい、お父様」
三人が近付くと自動でドアが開き、アリサは後部座席へと乗り込んだ。
両親は前方の席へと乗り込み、安全ベルトを着ける。
父、アウグストが端末へと手をかざすと、車内に駆動音が一度だけ響き、三人の乗る自動車は静かに滑るように動き出した。
『あっ……いっちゃう……』
オルディス夫妻を追いかけていたみちるとアリサは、三人の乗る車が発車し宙を浮きながらあっという間に遠ざかっていくのを見送っていた。
――瞬間、世界が暗転する。
耳に残るのは車が遠ざかる残響だけ。
やがてそれすらも霧散し、無音の闇が辺りを満たす。
光も、風も、匂いも消え、ただ虚無の中に取り残される感覚。
……そして、また構築が始まる。
黒の中に粒子が舞い、微かな線が形を結んでいく。
それらが数秒ごとに明滅しながら積み上がり、世界が再生されていった。
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次にみちるたちが降り立ったのは、無機質なワンルームの内部だった。
壁は白くも灰色がかっており、合金に樹脂を混ぜ合わせたような人工素材。滑らかではあるがどこか冷たい質感が漂い、均一に配置された光源が淡々と部屋を照らしていた。
家具は最低限。壁に固定されたベッド、簡素な作業机と椅子、デジタル式の時計と収納用のロッカー。柔らかな曲線も木目もなく、効率と清潔さだけを追い求めた配置だった。
娯楽や装飾の類は一切存在しない。生活の快適さではなく、無駄なく生きる為の空間とでも言うべきだろう。
そんな部屋の中心で、幼いアリサはぽつんと立ち尽くしていた。
彼女の瞳が、壁から床へ、ベッドから机へとせわしなく揺れ動く。だが次第にその動きは緩やかになり、やがてベッドへ腰を下ろした。
『ね、ねぇアリサ。これって……本当にさっきの人達の家なの?』
思わずみちるが声を上げる。
彼女の目には、ここはただ冷たく息苦しい牢獄にしか映らなかった。あの立派な軍人夫妻の家とは到底思えず、むしろ機関で過ごしてきた日々と何が違うのだろう、と疑念が募るばかりだったからだ。
だが、隣に立つ現アリサは目を細め、どこか懐かしむように小さく頷いた。
『……はい、間違いなくオルディス家での私の自室です。……とても懐かしい』
その声音は、鋭さも皮肉も帯びず、まるで慈しむような穏やかさが滲んでいた。
みちるは一瞬、隣にいる彼女を凝視してしまう。
幼いアリサは、ベッドに座りしばし無言で部屋を見回していた。
広さは六畳に満たないだろう。窓はなく、外の景色は一切見えない。
冷却効率を優先した循環装置の音が、かすかな機械音として響く。
それでも彼女の頬は、不思議なことにわずかに緩んでいた。
『死の危険がない、自分一人の空間。それをようやく……手に入れたのです。嬉しくない訳が無い』
アリサが静かに言葉を重ねる。
その声は、幼い自分の内側を正確に代弁するかのようで……。
みちるは理解した。幼いアリサの口元に浮かぶかすかな笑みは決して幻ではなく、本心からの安堵なのだと。
最初は驚きに固まっていた幼い表情が、やがてふっと解け、唇がほんの少し綻んだ。
それは子どもの無邪気な笑顔ではなかった。
長い死の恐怖から解放された兵士がようやく自分のベッドに腰を下ろし、初めて息をつく時の笑みに近かった。
みちるの胸に、ちくりと痛みが走る。
――自分なら耐えられただろうか。おもちゃも本もなく、窓すらない閉じた部屋。
ただ生きることだけが保証されているだけの場所に救いを見出すなんて。
それを幸せだと口にできるなんて――。
『……アリサは、ちょっとでも……救われたの?』
恐る恐る問いかけるように、みちるは隣の彼女へ振り向いた。
『……はい、間違いなく』
アリサの返事は即答だった。けれど、その直後に彼女は小さく息を呑み、ほんのわずかに視線を落とす。
その仕草を、みちるは見逃さなかった。
即答できるほどの確信――だが、その奥底にはきっと言葉にできない影も潜んでいるのだ。
救いと同時に、拭えぬ孤独と静かな痛みを刻み込んだ部屋。
それがこのオルディス家の一室なのだろう、と。
みちるは唇を噛み、幼いアリサの微笑を見つめ直した。
喜びであると同時に、胸を締めつけるような寂しさを孕んだ笑み。
その表情に、彼女はどうしても目を逸らすことができなかった。
『……あら?』
――幼いアリサが突然、何の前触れもなく立ち上がった。
視線は机でもベッドでもなく、虚空に向けられている。
そしてまるで糸に引かれるように、迷いなくドアへと歩き出した。
『急に出ていっちゃったけど、どうしたの……?』
『……呼び出しを受けたのです。ナノマシンを通じて、命令や指示が直接流れ込んできます。部屋に音が鳴るわけではないので……外から見れば、突然立ち上がったようにしか見えないでしょう』
『それは便利だけど……じゃあ、今のも……?』
『はい。両親の元へ来いという命令が入ったのです』
みちるは、無表情でドアを開き去っていく幼いアリサの背中を見送る。
そこに喜びや迷いはなく、ただ指示に従う人形のような姿。
さっきまで「救われた」と穏やかに語っていた少女が、再び冷たい枷に繋がれているようで、胸がきゅっと痛んだ。
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幼いアリサに続き、廊下へと出るみちるとアリサ。
ある程度幼いアリサとの距離が離れると、見えない紐で引かれるように勝手に彼女へと引き寄せられる。
恐らくナノマシンの記憶外には傍観者の二人は出られないのだろう。
壁やドアをすり抜けて歩けるのは、まるで幽霊になった気分だった。
『……みちる、こっち』
アリサに手を引かれ、ショートカットしながら幼いアリサを追いかける。
オルディス家は集合住宅の3フロアを所有し、アリサが先程までいた部屋はその中でも一番下。
部屋から中廊下へ出て、専用の階段を登り、1フロア上の一つしかないドアをすり抜ける。
オルディス家のリビングに入った瞬間、みちるは思わずきょろきょろと視線を巡らせた。
華美さも派手さもない。だが、そこには洗練された未来の雰囲気が漂っていた。
壁には薄型の情報パネルが埋め込まれており、必要に応じて文字や映像が浮かび上がる。
机は艶消しの金属と木材を組み合わせたような質感で、引き出しは見当たらない。
代わりに、表面を軽く叩けば天板に収納された端末や照明がせり出してくる仕組みだった。
リビングに併設されているキッチンはコンパクトで、調理器具の類は見当たらない。
棚に並ぶのはトレーとコップ、食器だけ。
天井の光は柔らかく、窓からの自然光と調和している。
無機質なだけではない、どこか整えられた暮らしを感じさせる空間だった。
「……来たか」
広いリビングに置かれたテーブル。その上座にこの家の主であるアウグストが座り、次に妻のセリーヌ。
その隣には、冷ややかな視線を隠そうともしないスーツ姿の女性と、腕を組んでふてぶてしく笑う青年がいた。
一同の視線が一斉にアリサへ注がれる。
特に初めて会う二人の眼差しは鋭く、あからさまに敵意と侮蔑を宿していた。
青年は椅子に深く腰かけ、片方の口角を吊り上げてアリサを値踏みするように睨みつける。
女性は組んだ腕のまま顎を上げ、まるで虫けらでも見下ろすかのように冷笑を浮かべた。
「……これが新しい拾い子?」
「随分とみすぼらしいものだな。父上の気まぐれも度が過ぎる」
嘲るような声が、静かなリビングに刺さる。
思わずアリサは身震いしそうになるも、必死に耐えて胸を張り、一身に視線を受け続けた。
「H-163です。この度、オルディス家へお迎え頂き……改めて心より感謝申し上げます」
アリサは跪いて頭を下げる。決して身体を震わせぬよう、弱みを見せぬように。
アウグストは表情を変えず、頭を下げたままのアリサへ告げた。
「……この家では、必ず子には名を付けるようにしている。お前はアリサだ。良いな」
「……はい、お父様。ありがとうございます。私はアリサ……アリサ……」
番号ではない、人らしい名前。——私の、名前。
続けて、アウグストが淡々と告げた。
「家族として迎え入れる以上、順に名を名乗れ。……セリーヌ」
「……あなたの母になるセリーヌよ。よろしく」
彼女は表情を崩さず、ただ形式だけの言葉を返す。
続いて隣に座るスーツ姿の女性が、深いため息を吐いた。
「……イルゼ。——まあ、名乗れと言われたから言っただけ。あなたに姉と呼ばれる気はさらさら無いけど」
アリサの胸がきゅっと縮む。だが次に名を告げる青年の声は、さらに冷たかった。
「……レオンハルトだ」
わざとらしく腕を組み直し、椅子をきしませて顎をしゃくりあげる。
「アリサとやら、俺を兄と思うなよ。父上が勝手に連れてきた子供だ。勘違いするな」
「……っ」
幼いアリサの小さな肩が震える。
アウグストはそれを止めもせず、ただ一言、低く締めくくった。
「以上だ。お前はこれからオルディス家の、皇国の剣となるのだ。……わかったな、アリサ」
「……はい、お父様、お母様。……イルゼ姉様、レオンハルト兄様」
わざと聞こえるように舌打ちがレオンハルトから発せられ、イルゼは鼻で笑い顔を背けた
アウグストは何も言わず、セリーヌも表情を変えず、ただ目を伏せた。
『な……なんなのよっこの家族っ!!この……!!バカ姉とバカ兄……ッ!!』
やり取りを見て怒り心頭なみちるが、イルゼとレオンハルトの頭をはたくように手を振り下ろすも、何の手応えもなく空を切る。
当たらない事は分かっている、それでも一発叩いてやらないとみちるの気が済まなかった。
『……ありがとうみちる。イルゼ姉様も、レオ兄様も……私が怖かったのだと。……今はそう思えます』
未だにブンブンと手を振り回すみちるの腕をそっと掴んで止めながら、アリサは静かに告げた。
『怖い……?一回り近く年下のアリサが?』
アリサはちらりと、頭を下げたまま僅かに震えながら手を固く握り込む幼い自分を見た。
『姉と兄、二人の年齢は私より遥かに年上です。……姉は成人済み、兄は17。本来ならばこれ以上オルディス家に新しい子供は必要ないはずです。なのに……私が来た』
続けてアリサは、冷たく突き放すように、見下すように言葉を吐いた姉と兄を憐れむような目で見遣った。
『今なら理解できる。イルゼ姉様は、両親の愛情を独占できなくなることへの恐怖に怯え、レオ兄様は自分より優れた存在かもしれない私を前に、必死に焦りを隠していたのだと』
『そ、そうなの……?』
困惑の色を浮かべながら、みちるはイルゼとレオンハルトの顔をじっと交互に見る。
『はい。——あのお父様が、無駄な事をするはずがないと、二人が一番理解しているはずですから』
『……でも、それで済ませていいわけないじゃない!』
みちるの声は小さく震えていた。理由があるにしても、恐怖や焦りがあったにしても——幼いアリサがあんな目に遭わされる正当性にはならない。
『アリサが耐えてくれたから丸く収まってるだけ。怖いとか焦ってるとか、理由があるにしても——だからってあんな風に突き放していいわけないっ!』
ぐっと唇を噛みしめるみちる。悔しさとやるせなさが胸に広がり、両手を強く握り締める。
『私なら……絶対に許さない』
そう呟いた彼女の視線は、アリサから顔を背けた姉兄に突き刺さるようだった。
アリサはみちるを背中から抱き、耳元でささやいた。
『……ありがとう』
たった一言。
しかしその一言に籠められたアリサの想いに、みちるは何も言えなくなる。
けれどみちるの胸には、どうしても針のような痛みが残り続けた。
アリサが迎え入れられたオルディス家は、彼女にとって安息の地であり地獄でした。
これまで他人から明確な悪意を向けられたことのなかったアリサには、姉兄からの容赦のない言葉と態度はとても苦しく、重いものだった。
~~次回予告~~
オルディス家での日々は、厳格で息の詰まる場所でした。
叩き込まれる教育、体を酷使する実践訓練。
そして――兄から浴びせられる、冷たい視線と嘲笑。
だけど……屈してはいけない。
彼らが何を思おうと、私は私。
その重圧が、私を鋭く、強く、鋼鉄の剣のように磨き上げていく。
次回――『刻まれる使命、芽吹く才能』
それでも、私は立ち止まらない。




