平和な日常
楠マスターの下で住み込みで働けるのか、その鍵を握るのがマスターの御孫さんだという。
たまたま今はマスターの奥様と海外出張中の息子夫婦の元へで旅行に出かけているらしく、明日の帰宅時に最終決定して頂けるとの事。
それまでは皿洗いやマスターのコーヒーを淹れる姿を見て、諸々学びつつ待たせてもらう事になった。
改めてマスターにお礼を言いつつ今日は消灯となる。だが眠気は正直あまりない。
居住スペースのある2階へとマスターが立ち去り、降りて来る気配がなくなった頃。
ナノマシンによる暗視機能を使い客の為に置いてある雑誌から新聞、書籍を読み漁りこの世界の文字や知識を翻訳しつつ頭へと叩き込んでいく。
……その中でもあの素敵なバタートーストの他にも魅力的なメニューが多々ある事もしっかりチェックしていく。
この店の書籍で仕入れられた情報の大半は、当たり前ではあるがコーヒーや紅茶に関する事や、喫茶で食べられるメジャーなメニュー等。
また新聞からは大人と子供で読む新聞が違うらしく、子供新聞からは一般教養から算術の方法植物の育成法等の情報を。
大人用の各新聞からは経済情報から政治家の汚職、殺人事件や窃盗事件、娯楽贅沢品の宣伝等幅広い情報を得る事が出来た。
皇国に比べ文明レベルはまだ低く、魔法の存在も想像上の物だというのがこの世界では常識らしい。
魔法化学はもってのほか、せいぜい性能の限りなく低いナノマシンが僅かに使用されているくらいだ。
ふと時計を見ると4時を過ぎている。この店の開店時間は9時。……あと5時間しかない。
いい加減少し仮眠を取るとしよう。
ふかふかと柔らかいソファーに横になり毛布を軽くかけて目を閉じる。
素早い睡眠は戦場の基本。アリサはすぐに意識を遠のかせた。
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――午前6時。
上階のマスターの動く気配で目を覚まし、使っていた毛布を畳み清掃魔法で喫茶室の埃や細かいコーヒーかすなどを一掃する。
ついでに機材にも修復魔法をかけ、違和感のない様に昨晩マスターが使っていた布巾でカウンターや各テーブルを拭いていく。
アリサが一通り掃除を終えた頃、マスターが階段を降りて喫茶スペースへとやってきた。
「……おはようございます、マスター」
「おはようございます、アリサさん。ん……おや、これは……!?アリサさん、あなたが一人で?」
昨日の閉め作業をした時に比べ、店内が輝いて見え、マスターは思わず目を丸くした。
「……ご迷惑でしたか?」
マスターが道具類や照明カバーなどを見て触り確かめて首を傾げているのを見て、修復魔法まで使ったのはやり過ぎたかと冷や汗が滲む。
「いえ、あまりにも完璧で少々驚いてしまっただけですよ。それよりもアリサさん食事にしましょう」
「……はい。頂戴します」
マスターに続き2階のリビングへお邪魔し、並べられた朝食に胸を躍らせる。
「わぁ……」
思わず声が出てしまう。昨日のバタートーストもとても美味しい贅沢品だったが、これは雑誌に載っていたピザトーストと目玉焼き。
あと横の植物は『サラダ』と呼ばれる食べられる美味しい野菜料理なのだろう。
「すまないね、私一人だと簡単な物しか出せなくて」
マスターは苦笑交じりに言いながら湯気の立つ白い飲み物、昨日のコーヒーに入れた牛乳という物が入ったカップを目の前に置いてくれる。
子供新聞にあった食前の挨拶、まずはいただきますと両手を合わせてから、期待してやまぬピザトーストを一口頬張る。
酸味の効いたソースに、パンの甘味。そして、チーズの塩味と濃厚なコク——。
昨日のバタートーストとはまた違う、旨味のトリプルパンチが口内を蹂躙していく。
急く心を窘めながらサラダへも手を伸ばし、机に並べられた食器で野菜を突き刺すとシャクッと瑞々しい音が耳を楽しませる。
ペラペラした緑の薄い葉と濃い緑の細長い野菜を口へ運ぶと、パリッシャリッとした食感と噛む事で豊潤な水分が溢れ優しい青い植物のほのかな苦味が鼻を抜けていく。
何かのソースがかかった場所を食べると香り付けされたオイルと塩、何かの香草のフレッシュな香りが野菜等の苦味を掻き消し食べやすさを増しているみたいだ。
ふとあまりにも食事に意識が向き過ぎていた事に今更気付き視線を上げると、目の前で同じ食事を取るマスターの暖かい目と目があった。
これでは食い意地の張った馬鹿みたいじゃないか。
二食目でここまで私が骨抜きにされるとは、恐るべし贅沢品……。
冷静を装い温かい牛乳を一口——。
「ッ……!これは……」
まさにこれぞ至高……
昨日舐めた物よりも甘さがあり、朝晩に飲めるなら何よりの贅沢だろう。
もしかしたら私はこれに出会うためにこの世界へ導かれたのかもしれないと、ほんの一瞬だけ本気で考えてしまった。
「はは、ホットミルクが気に入りましたか?」
「……はい、とても」
ピザトースト、サラダ、ホットミルクとトリプルパンチを食らい、しばらくの間思考を放り投げ、ただ目前の悦に浸るも、始まりがあれば終わりもある。
最後の一口はまたしても切ない……。
これまでの数年間、完全に感情を殺してきた為に……この悲しみの感情も表情も、顔へ出すことはない。
鍛えていなければ、涙すら滲んでいたかもしれない。
恐ろしきかな美食の魔力……。
アリサが食べ終えたのを見計らい、マスターは笑みを浮かべながら口を開いた。
「さてアリサさん、今日は息子達が帰ってくるまではまだ時間がかかるらしい。午前中から慣らしも兼ねて働いてもらいますが、午後のピークが過ぎたら少しこの近くを歩いてみませんか?」
これはありがたい申し出だった。
ナノマシンの索敵機能で、すぐ近くに図書館なる無料で使えるデータアーカイブ施設がある事は昨日のうちに調べがついている。
マスターの御孫さんが帰ってくるまでは、図書館でこの世界の情報を仕入れなければ。
「……はい、喜んで」
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食べた食器の片付けや開店前の諸準備をしているとあっという間に開店時間。
マスターの指示でドアに掛けられたクローズの看板をオープンにひっくり返し、店内に置いてあった立て看板を外へと出そうとドアを開けるともう既に開店待ちのお客様の姿が。
「……いらっしゃい……ませ」
カチカチになってしまった表情筋を無理やり動かし笑みを浮かべながら挨拶をする。
昨日の新聞にも書いてあった………挨拶は古来より続く大事な作法だと。
「おや、見かけない顔だね。新人さんかね?」
「外人さんかい?お人形さんみたいで可愛いねぇ」
老夫婦はニコニコしながら店内へと入っていきマスターに「おはよう、いつものをお願いね」と声をかける。
開店直前からマスターがもうパンを焼き始めていたのは常連の彼等を迎える為だったみたいだ。
惚けている暇はない。
すぐに看板を外へと設置し店内へと舞い戻ると、老夫婦の為にウォーターピッチャーから二つ水を注ぎ、彼等の座るテーブルへとおしぼりと共に並べていく。
トレーに乗せたコップの水は暴れやすく、こっそり左手とトレーの接触部からナノマシンの衝撃バランス補佐システムを使っていたのは内緒だ。
今回の二人は常連故に、今更注文を聞かなくて良い物らしい。
余計な事を言わずに静かに会釈しテーブルを離れキッチン近くのカウンター付近にてマスターの淹れるコーヒーとサンドイッチが出来上がるのを待つ。
程なくして二組のコーヒーとハムとチーズが挟まれたハムサンドがカウンターに出され、それをトレーに乗せ速やかに老夫婦の下へサーブする。
内心目下のハムサンドが気になって仕方なかったがこれはお客様の物。今後働いて得た賃金でマスターに作ってもらえば良い……。
「……お待たせ致しました。こちらお飲み物とハムサンドです。ごゆっくりどうぞ……」
軽く頭を下げ会釈し、すすっとその場を離れカウンター付近の定位置へと舞い戻る。
……だが、すぐにドア越しに店へ近付く気配を察知し、入口を注視していると次のお客様が入ってきた。
若い男女や電子機器を抱えた男性、彼等も常連なのだろうか?
「いらっしゃいませ、こちらのお席へどうぞ……」
若い男女は私の案内に従いテーブル席へと座るが電子機器を抱えた男性は勝手にカウンター席の一番端を陣取り徐に何か作業を始めた。
増えたお客様へそれぞれ水とおしぼりを配り、注文が決まるまで定位置へと戻り、呼ばれては注文を聞き料理を運び、新しく来た客を捌き、帰る客の会計をする。
これが昼頃になると更なる忙しさが襲って来て目が回りそうになる。
ここもまた戦場なのだと感情を殺しひたすらに目前の任務に専念する。
その途中で簡単な軽食として出されたハムサンドを急いで食べてしまった事が、仕方ないとはいえ非常に残念で心残りではあった……。
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「……ありがとうございました、またお待ちしています……」
気が付けば時計は午後2時、ようやくホールも落ち付きを取り戻し残っているのは朝から居座っているパソコン男ともう間もなく退店するだろう女性客の二組だけ。
溜まった洗い物もマスターの目を盗み、魔法を使いつつ素早く片付ける。
定期的にテーブルやイスなども布巾で掃除し、床に散らばる外からの埃やパン屑などのゴミや土汚れも風魔法で一か所にまとめて手早く回収する。
そうしていると、予想通り女性客が伝票を手にレジへとやってくる。
もう既に各メニューの値段は頭に入っている為、迷いなく金額を打ち、片目で念の為記載されている合計金額と差異が無いか確認し、金額を伝え金銭をやり取りし、お見送りをして軽く会釈する。
「アリサさん、もうここも落ち着きましたので今日は上がっても大丈夫ですよ」
「……! ありがとうございます、では少しこの近くを散策させていただきます」
借りていたエプロンを外してバックヤードのイスに掛けておき、店入り口とは違う私用のドアから靴を履き——いざ、外の世界へ。
角膜にナノマシンのナビシステムを投影し、図書館へ向けて歩を進める。
その道中で道端に多種類な草木が植生している事にアリサは感動を覚えていた。
彼女の記憶にある草木はもっと嫌悪感を感じさせる汚い色をしたものしかない。
だが、今目の前にあるのは甘い良い香りを漂わせ、触れれば柔らかくすべすべな美しいものばかりだ。
その中でもひらりはらりと、可憐な小さな桃色の花を舞わせる木。……幹にワイヤーで括られている看板曰くソメイヨシノには特にどこか惹かれるものがあった。
「あー、あのー?」
――どこか懐かしい戦友を思い出す。同じ分隊で一緒に生き残びて、一緒に戦場を駆けて、時には星空を見て一緒に話もしていた。
どうせすぐにいなくなってしまうと、他人に興味を持たなかった自分でもまだ覚えている。あの少女……識別コードは……。
「あれ?あの~……?」
――確かS-087だった。
あの子も、このソメイヨシノみたいな淡い色のパワードスーツを着ていた。
せめて女の子らしくと、珍しいふんわりしたモデルを好んでいたのをまだ覚えている。
……何故か他人におせっかいを焼くのが好きで、私の髪も彼女が良く結んでくれていた。
私が見た彼女の最後は、負傷した青年兵を守って集中砲火を食らい、パワードスーツをこのソメイヨシノの花弁のように散らしながら消滅した……あの時の彼女の顔は、恐怖に引きつったものではなく、微笑みを浮かべていた……な。
「まさか……!?そこの人!早まらないで!!」
「……?」
何事かと視線をソメイヨシノから声の方へと向けると、同じ年齢くらいの女子がこちらを見て、必死そうな表情を浮かべて駆け寄ってきており、そのままがっしりと両手で私の手を握り締めた。
「悩み事があるなら私に言って!一人で抱え込んでいたらダメだよ!」
「……は?」
ぎゅっと手を握られたまま、次々と慰めや励ましの言葉を投げかけてくれるが、何故この初対面の少女がここまで必死なのかが分からない。
何かの欺瞞作戦かと思えど敵意感知には全く引っかからない……。底なしの善意なのだろうか?
ここで固辞しても引き下がってくるだろうし簡単な道案内でも頼もうか……。
「……では、図書館の場所を」
「うんっ!!任せて!!」
キラキラした笑顔が非常に眩しい、完全に表情筋が死んでいる自分とは対極にいる人だ。
「そうだ!自己紹介がまだだったね。私、柚木ひかり!4月から中学2年生になるんだ!」
――中学……教育機関の青年前期の年代が行く場所だったか。
教育時間の効率の悪さは気になるが、脳への負担は遥かに少なさそうだ。
それに……選別もないのだろう。
何やらじっと柚木とやらがこちらを見つめてくる。
キラキラしている瞳には何かを期待している色が浮かんでいた。
……こちらが名乗るのを待っているのだろうか?
「……アリサ」
私がそう呟いたのを聞いた柚木は、一層目をキラキラさせ嬉しそうに笑顔を浮かべた。
「わぁ……!可愛い名前……!よろしくねっ!アリサちゃん!」
柚木は握ったままの手をぶんぶん上下に振って喜びを表してくる。
でも、そろそろ手を離してほしい……。なぜか、胸のあたりに奇妙な感覚が走っている。
「……手を、離してもらえるだろうか?」
「え?あ~、ごめんね!ついつい……」
ようやく手を放し、にへへと笑う彼女の顔は本当に眩しい。笑顔……笑顔か。
「えーっと、図書館だったよね!すぐ近くだからいこっか!」
「……よろしく頼む」
ソメイヨシノのひらりはらりと舞う中、私は一人のお人好しな少女と出会った。




