止まった歌に、そっと光を♪
今日はちゃんと間に合った……! というわけでどうぞ!
最近ずっと、あかりの朝は早い。
というのも、学校で食べるお昼ご飯を毎日自分で作ると決めてから、ちょっと張り切っているのだ。
「よーし、今日は鮭の混ぜご飯にしてみようかな〜♪」
朝のキッチンで、リズムよく歌いながらおにぎりを握るあかり。
小さなハミングが自然と口をついて出て、それに合わせてソラシーが「ピィ〜♪」と可愛らしく合いの手を入れてくれる。
「ママの分も作ってみたし、今日こそ褒めてもらえるかも……えへへっ」
菜月の分の朝食を兼ねた試食品を皿に盛り付け、ラップをかけておく。
完成したお弁当をおかずと一緒に可愛く詰め込み、ランチクロスできゅっと包む。
小さな達成感とともに、エプロンを脱いで制服に着替えると玄関へと向かった。
「じゃあ行ってくるねソラシー!何かあったらリンクでねっ!」
「ソラ!もし何かあったらソラシーも現場に向かうソラ!」
ソラシーへと手を振りながらドアを開け、今日も綺麗に晴れた空からの日差しを眩しそうに受けながら、学校への道を足取り軽く進むのだった。
学校へ向かう並木道、いつも通り葉桜の下で待つアリサとみちるの姿を見つけ、あかりは軽やかに駆け寄る。
「アリサちゃーんっ!みちるちゃーんっ! おっはよ〜!」
「……おはよう、あかり」
「おはよ、今日も元気ね。朝からそんなに飛ばして疲れないの?」
「えへへ〜、今日はお弁当の出来がバッチリだったから、つい!」
みちるはほんの少し微笑んで、「ふふ」と小さく息を漏らす。その様子を見て、あかりのテンションはさらに上がった。
「今日は私もちょっと頑張ってみたから……その、楽しみにしてなさい?」
「わっ!やったぁ~!これで今日も頑張れるっ!」
途中までいつも通り三人で歩き、桜並木を越えて図書館前を過ぎ、しばらく歩いた先の通学路の道中で、三人が来るのを待っていたあおいと合流した。
「三人ともおはよう。……あかりは変わらずテンション高いね」
「うんっ! だって、今日はなんだか良い事ありそうな気がするの!」
「まーた根拠のないポジティブ理論……」
「えへへ、でもたまには当たるんだよ?」
そんなこんなで、不思議な四人組のいつもの朝が始まるのだった。
別クラスのあおいと別れて教室へ入ると、あかりは自席に鞄を置き、いつものように教室を見渡して大きく伸びをした。
さぁ今日も一日ドレミっていこうっ!と気合いを入れている時。ふと視線が止まったのは、同じ窓際の席の二つ前に座る女の子。
そこに座るのは、宮崎ひなた。小柄で、おっとりとした雰囲気のクラスメイトだ。
ひなたはよく、鼻歌を歌っている。
あかりが知っている限り、いつも同じ旋律。でも……とても綺麗なメロディ。
合唱もあかりと同じソプラノパートに属しており、歌の実力はみちるとひなたがクラス内で二大トップと噂されていた。
「……」
しかし、今日のひなたはいつものように鼻歌を口ずさむこともなく、沈黙を保っていた。
どこか落ち着かない様子で、教室の入り口をチラチラと気にしている。
その表情は沈んでいて、元気があるようには見えなかった。
あれ……どうしたんだろう?
そんなひなたの様子が、ふと心に引っかかり、じっと彼女を見つめているあかりだったが、変化が起きたのはそこから数分後の事だった。
「おはよー、今日もギリギリセーフ!」
「おせーぞ相馬ー!」
「悪い悪い!つい昨日バレーの試合の録画見ちゃってさー!」
予鈴が鳴り、バタバタと男子が教室へ駈け込んでくる。その時にひなたの身体がピクリと震え、一気に顔を赤くして一人の生徒を目で追っていた。
バレー部の次期エースとして活躍している相馬ヤマト、明るくお調子者で、クラスの中心というよりもどこか鈍感系の人気者な彼に、ひなたの視線は釘付けになっていた。
ひなたちゃん……そういうことだったんだ……!
あかりは目の前で起きている青春の一ページに目を輝かせ、密かにひなたを全力で応援する事に決めたのだった。
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午前中の時間はいつも通り、慌ただしく、そしてどこかのんびりと過ぎていった。
「はぁ〜……やっと昼休みだ〜!」
教室にチャイムが鳴り響くと同時に、あかりは机に突っ伏した。
小テストがあまりにボロボロだったらしい。
「……あおいちゃーん、ご飯食べよう~?」
ワイシャツの袖で隠していたブレッシング・リンクを軽くタップし、別クラスのあおいへと声をかける。するとすぐに画面にあおいとみちるの顔が映った。
『うん、みんなも中庭で良かった?』
『大丈夫、じゃあいつもの場所でね』
よしっとお弁当の包みを握り締めてあかりは立ち上がった。すぐ後ろの席のアリサにも声をかけ、もはや定位置となった中庭へと、廊下で合流したあおいと共に四人で向かう。
春の陽気が心地よく、芝生の匂いが鼻をくすぐる。
中庭の定位置――大きな木陰の下にレジャーシートを広げて腰を下ろすと、毎度おなじみのお弁当お披露目タイムが始まった。
「じゃ~んっ!今日は一口アジフライを作ってみました!もう衣に味つけてあるからそのまま食べてね!」
小さなタッパーにぎっしりと詰められたアジフライを見せびらかすように掲げるあかり。
朝から頑張って作ったおかずに、どこか誇らしげな笑みを浮かべていた。
「私は和風の鶏の照り焼きにしてみたわ。ちょっと甘めよ」
「……私はミニお好み焼き。冷めても美味しくなるように、調整した」
「あたしはガイヤーン。タイの料理、本で読んで作ってみたんだ」
「えっ!!ガイヤーンて何!?」
あかりは見知らぬ料理に興味津々で、あおいのお弁当へと手を伸ばし、早速一口……。
「んんっ!!これ……!すっごいエスニック……!」
「どういう感想よ……あおい、私も貰っていい?」
「うん、みちるの鶏の照り焼きも貰うね」
「……アジフライ、美味しい」
いつの間にか恒例となった、おかずのシェアタイム。
四人の笑い声と談笑が中庭に心地よく響く。陽射しは優しく、風は穏やかで、まるでこの時間だけ切り取って保存しておきたいくらいに心地よかった。
そんな、かけがえのない昼休みは――あっという間に過ぎ去っていった。
昼休みが終わり、次の授業は音楽だった。
あかりはいつものように元気に音楽室へと向かう。お弁当の出来がよかったからか、午後も絶好調の様子。
「今日は”そらのきせき”の合唱練習だっけ? あれ、好きなんだよね〜♪」
教室の左前にはグランドピアノ、正面の黒板の上には五線譜が描かれ、教卓の脇にはCDプレイヤーが鎮座している。
生徒たちはそれぞれ指定のパートに分かれて座っていた。
あかりはソプラノパートの列に腰掛け、ふと前を見ると、すぐ前の席に座るひなたがどこか不安げな表情をしていた。いつものように鼻歌も聞こえてこない。
背筋を少し丸め、顔を伏せるように座るその姿は、どこか心ここにあらずといった様子だった。
あれ……やっぱりまだ元気ない……?
そんな様子を見つめているうちに、先生が教室に入ってきた。
「はい、それじゃあ午後の音楽を始めます。今日は1番を通して練習してみましょう。ピアノの伴奏に合わせて、各パートはしっかり声を出すようにっ!」
伴奏役の西ヶ谷さんがピアノの椅子に腰掛け、指を鍵盤へ置いた瞬間、空気が一変する。
伴奏が始まると、教室には清らかな旋律が満ちていった。
その流れに乗って、生徒たちの歌声が一つ、また一つと重なっていく。
けれど——
その中に混じるはずの、ひなたの歌声だけが……どうしても、聞こえてこなかった。
教室いっぱいに響く清らかな歌声。
ピアノの旋律と共に、クラスの合唱は1番のサビへと差し掛かっていた。
あかりも、精一杯声を出す。
音程は少し不安定だけれど、心を込めて。
けれど――
……やっぱり、ひなたちゃんの声が聞こえない
すぐ横にいるはずの彼女は、ただ口を閉ざしたまま、俯いていた。
指先はぎゅっとスカートの裾を握りしめ、肩も小さく震えているように見える。
それは、歌いたくないのではなく……歌えないというような、そんな雰囲気だった。
どうしたの……? あんなに歌が好きだったのに。
前までのひなたなら、あかりの数倍は正確に音程を取り、美しい声を響かせていた。
ソプラノパートの希望として、音楽の先生からも一目置かれていたはずなのに。
その沈黙は、先生の目にも留まったのだろう。
伴奏が終わると、先生がそっと近づいてきた。
「……宮崎さん、体調が優れないなら無理に歌わなくていいですからね。保健室に行きますか?」
「……だ、大丈夫です……すみません……」
ひなたは小さく頭を下げたが、その声はか細く、まるで霧の中でかすれる風のようだった。
先生はそれ以上は追及せず、次のパート練習へと進めていく。
けれど、あかりの心はそれどころではなかった。
……大丈夫なはず、ないよね。
だって、ひなたの声が止まったのは、体調の問題じゃない。
もっと――心の奥の、何かが原因のはずだ。
そんな確信のようなものが、胸に残った。
あかりは決めた。
放課後、話しかけてみよう!
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「……ねぇ、ひなたちゃん!」
放課後の昇降口――
校舎の外へ出る最後の場所で、あかりは思い切って声をかけた。
夕方の光が差し込む中、上履きを脱いで靴を出していたひなたの背中が、ぴくりと震える。
「えっと……あのね、今日の音楽の授業、ひなたちゃんどうしたのかなって……気になってて……」
あかりの声は優しく、どこまでも真っ直ぐだった。
ひなたは少しだけ振り返る。けれど、その表情には戸惑いがにじんでいた。
「わ、私……っ、だいじょぶ、だから……!」
「……でも、もし何か悩んでるなら私……話聞くよ? ひなたちゃんの歌、すごく好きだし――」
そこまで言いかけた時、ひなたは急に頭を下げると小さな声で
「……ごめんねっ」
そう呟いて、そのまま踵を返し足早に昇降口を駆け出していった。
「ひなたちゃんっ……!」
追いかけることもできず、あかりはその場に立ち尽くす。
――ほんの少しだけ、届いたと思ったのに。
悩みに手を差し伸べようとして、でもその手をすり抜けていった感覚。
そんな切なさが、胸の奥にぽつんと残った。
……ううん、まだ諦めないよ!
あかりは、ぎゅっと拳を握る。
ひなたの歌が止まった理由。
それを知るまでは、絶対に――見て見ぬふりなんか、しない。
いつもの集合場所の中庭へ、あかりは沈んだ表情で向かった。
「どうしたのあかり?……何かあった?」
先に来ていたあおいが、そっと肩に手を添えて声をかける。
「ひなたちゃん……逃げちゃって……。せっかく声をかけたのに……」
ひなたちゃんという名にあおいが首を傾げると、みちるが小声で事情を補足した。
あおいは「なるほど」と小さく頷き、あかりへ視線を戻す。
「……突然無理に踏み込もうとすれば、誰だって戸惑う。あかりは十分優しかったと思うよ」
「う~ん……私、どうすればよかったんだろう……」
その言葉に、あおいが腕を組んだまま答える。
「難しいね。でも、それでも気にかけてるって伝わったと思うよ。あとは、焦らずに待つしかないかな」
アリサは沈黙を守っていたが、ちらりとみちるに目をやる。
「な、なによ」
「……いえ」
短いやり取りに、少しだけ空気が和らぐ。
あかりは大きく息を吸い込み、深呼吸した。
「……うん、ありがとう。焦らないで、見守るよ。ひなたちゃんが自分のタイミングで話してくれるその時まで……!」
春風が、ふわりと吹き抜けた。
制服の裾が揺れ、どこか前向きな決意だけが、心に残る。
明日もまた、話しかけてみよう。私にできることを、ちゃんとやろう。
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帰宅後のあかりは、少しだけ菜月と話をして、夕飯を食べたあとは部屋に戻っていた。
今日はなんだか、身体がいつもより重い気がする。ソラシーも察してくれたのか、いつもより静かに、あかりの隣で丸くなっていた。
「ねぇ、ソラシー……私のやってる事って間違ってるのかな……」
「ピィ……そんなことないソラ。あかりは優しいソラ!優しすぎるってそれはそれで大変な事なのソラ……」
いつものように無条件に味方をしてくれるソラシーの声に、あかりは思わず苦笑した。
「えへへ……ありがと。明日は、もうちょっと……ううん、私らしく、行ってみるよ」
そう言って、小さく伸びをして布団に潜り込む。
夜風がカーテンの隙間からそっと揺れて、あかりは明かりを落とした部屋の中、目を閉じた。
翌朝。
昨日よりほんの少しだけ、気持ちが軽い。まだ完全に元気じゃないけれど、お弁当を作る手は止まらない。
「うーん……今日は、卵焼きに挑戦してみようかな。甘いやつと、出汁巻きと……どっちが喜ばれるかなぁ……」
独り言を交えながらキッチンに立つ姿は、昨日の自分と違う。
きっと、何かを伝えたい誰かがいるって、それだけで、少しだけ強くなれる。
「ソラシー、行ってくるね」
「ピィ!気をつけて、がんばるソラ!」
晴れた空に小さく手を振り、いつもの道を歩き出す。
通学路の並木道では、アリサとみちるが既に待っていてくれた。
「おはよ、あかり。顔色戻ってるわね」
「……昨日よりは元気そうで何より」
「うんっ!もう一回、頑張ってみるって決めたから!」
小さくガッツポーズを見せるあかりに、二人も頷く。
途中であおいとも合流し、四人はいつものように歩く。
けれど、今日はほんの少しだけ、あかりの歩幅が力強かった。
教室の前まで来て、引き戸に手をかけた瞬間。
片手で小さく胸の前で拳を握って、深呼吸。
――今日こそ、ちゃんと声をかけるんだ。焦らず、でもちゃんと想いを伝える。
教室の中には、すでに何人かの生徒が席に着いていた。
朝の光がカーテン越しに差し込む中、窓際の定位置——そこに、今日も宮崎ひなたの姿はあった。
けれど今日は、机に伏せるでもなく、ただ静かに窓の外を眺めていた。
長い睫毛が薄い光を受け、どこか切なげに見える。
そっと近づいたあかりは、昨日よりも少しだけ優しい声で話しかけた。
「ひなたちゃん、おはよう」
ひなたが、びくっと肩を震わせる。
けれどすぐに、ゆっくりと顔を上げた。あかりと、目が合う。
「……あ……ぉはよ、ございます……」
ひなたの声はとても小さく、掠れていたけれど、昨日とは違っていた。
あかりはふんわりと微笑む。
「うんっ、おはよう!」
その笑顔に、ひなたは一瞬だけ目を丸くする。だけど……また、視線を伏せてしまう。
「あの……柚木さん?わ、私に……何か……?」
「……私、ひなたちゃんの事気になるんだ!」
「ふぇ……!?いや、あの、でも……私……もう心に決めた人が……」
「え?」
「……え?」
一瞬、二人の時間が止まる。窓から吹き抜けた風がカーテンを揺らし、登校する生徒達のにぎやかな声が遠く聞こえた。
「ち、違うの!?そういう意味じゃなくてっ!!」
「わ、わたしこそごめんなさいっ!!」
お互い慌てて手を振り、同時にひなたも立ち上がってしまい、机がカタリと鳴った。
教室の前方から数人の視線がこちらを向き、二人は揃ってぴたりと動きを止める。
……数秒後。
「……あの……ごめん、何だかすごく変なこと言っちゃって……」
「う、ううん。私の方こそ、びっくりしすぎて……」
目を合わせられないまま、ひなたはそっと座り直す。
顔を真っ赤にしながら俯いたあかりは、ぎゅっと自分のスカートを握る。
でも、ちゃんと話さなきゃ……このままじゃ、伝えたいこと、伝わらないままだよ……!
そっと息を整えて、再びあかりはひなたの横顔を見つめた。
「……ひなたちゃんが、どこか元気がないように見えて……だから。何か、困ってることとかあるなら、話してくれたら嬉しいなって思ったの。……それだけ、なんだ」
ひなたは、小さく目を見開いた。
「柚木さん……」
それ以上何も言わず、ひなたはまた俯いてしまったけれど——
あかりの言葉に何かがほどけたように、ひなたの肩から力が抜ける。
机の上に置いていた指先が震え、小さく握り締められる。
「……私……」
ぽつりと、声がこぼれる。
「私……ずっと……相馬くんのことが、好きだったの……」
「……!」
「でも……話しかけることもできないし、ただ見てるだけで……緊張して、声が出なくなっちゃうの。合唱の時も……あの人の隣にいるだけで、頭が真っ白になっちゃって……」
「ひなたちゃん……」
あかりはそっと、ひなたの言葉の続きを待った。
「こんなの……変だよね。歌うの、好きだったのに。私、音楽の授業も、合唱も……すごく楽しみだったのに……」
目元が潤み始めたひなたは、それでも涙をこぼさないように、ぎゅっとまぶたを閉じる。
「……昨日ね、男子が相馬くんに好きなタイプ聞いてて……」
「えっ」
「……そしたら、『ああ、咲良さんみたいな子かな』って……」
「えっ……?」
あかりの思考が止まる。
「……あの、冷静で、静かで、完璧そうな感じが……かっこいい、って……」
「……咲良さんって、楠さんと……その……一緒にいる子、だよね……?すごく綺麗で、落ち着いてて……私とは……全然違う」
あかりは何も言えなくなった。
ひなたの小さな唇が震えて、ぽつりと最後の一言が漏れる。
「……そんな私が、好きになったって……意味ないよね……」
——沈黙が落ちる。
あかりは、ただ静かに、ひなたの肩にそっと手を置いた。
「……ひなたちゃん、それは……意味がないなんて、絶対にないよ」
小さな声で、けれど力強く、あかりが言葉を重ねる。
「だって、気持ちは誰かと比べて測るもんじゃないし……歌だってそう!どんな声も、たった一つのメロディだよ。ひなたちゃんの声、私……すごく好きだよっ!」
ひなたの瞳がゆっくりとあかりに向けられる。
「……昨日、ひなたちゃんが歌ってないって気づいて……寂しいなって思ったの。だから、また……あの綺麗な声、聞きたいな」
涙が、ひとすじ、ひなたの頬を伝う。
「……柚木さん、ほんとに……優しいね」
それだけを呟くと、ひなたはまた静かに、うつむいた。
けれどその背中からは、昨日のような拒絶ではなく、少しだけ心が開かれた気配が、確かにあった。
予鈴が鳴り響き、あかりはポンとひなたの肩を優しく叩く。
「またあとでねっ」
小さく手を振りながら自席へと戻るあかり。その頬には、少しだけほっとしたような笑みが浮かんでいた。
——と。
すぐに後ろの席のアリサが、すっと顔を寄せて小声で告げた。
「……あかり、私は相馬何某のことは、どうとも思っていない」
「えっ!? う、うん……そ、そうだよね……。っていうか……聞こえてたんだ……?」
耳まで赤くなったあかりは、あたふたと手元の教科書を開いたが、ひなたのことが気になって仕方ない。
結局その後の授業は上の空で、先生に当てられても頓珍漢な答えを返してしまい、教室に乾いた笑いが響く羽目に。
……そんな一幕は、ブレッシング・リンクのログにも残されることはなかった。
そして、あっという間に時間は過ぎて……放課後。
チャイムの音が鳴り終わると、教室の空気はどこか緩んだ。椅子のきしむ音、雑談、机に鞄を置く音。一日を終えた生徒たちのざわめきが、校舎の中に響いていた。
部活に走っていく男子達を見送ったひなたは、鞄を持ち足早に教室を後にしていた。
「じゃあ私たち、先に帰ってるね」
そう声をかけてきたあおいに、あかりは少し申し訳なさそうに微笑む。
「うん……ひなたちゃんのこと、ちょっとだけ気になってて。もう少しだけ、残っていくね」
「……わかった。無理しすぎないでね」
みちるも静かに頷き、アリサは一瞬だけ視線を残してから何も言わずに背を向ける。
教室を出ていく三人の背中を見送りながら、あかりは自席に座り直した。
静かになっていく教室。机に手を添え、軽く深呼吸をひとつ。
ふと窓の外に目をやれば、校庭では運動部の掛け声が飛び交っていた。
まだ夕焼けにも染まらない時間帯。白く反射する太陽の光が窓ガラスに滲んでいた。
けれど、その日差しの向こうに、あかりは何かの予感を抱いた気がした。
ひなたちゃん……もしかして。
ゆっくりと立ち上がり、鞄をしっかりと肩に下げて、あかりは音楽室の方へと歩き出した。
——静かな廊下の奥、その扉は半分だけ開いていた。
まるで、誰かが来てくれることを待っていたかのように。
「……ひなたちゃん?」
小さく声をかけて中を覗くと、グランドピアノの傍ら、ひなたがひとり立っていた。
ひなたは譜面台に広げた楽譜をじっと見つめ、まるで何かにすがるように、かすかに唇を動かしていた。
「……声って……どうやったら、まっすぐ出てくれるんだろう……」
その背中はまだ細く、かすかに震えていた。
自分への自信のなさがひなたの背を押しつぶそうとしているかのように、前かがみに、視線も下を向いてしまっていた。
「……それでも私、歌うの……やっぱり、好きだから」
ぽつりと落ちたその言葉は、空っぽの音楽室に広がっていく。
譜面の前に立ち直し、ひなたは静かに息を吸い込んだ。
音が流れそうになる——その瞬間。
「——っ……やっぱり、ダメだ……っ」
小さく掠れた声が途中で止まる。胸の奥が震え、目元が潤む。
視線を譜面から外し、膝が折れそうになる。
そんなひなたの肩に、あかりはそっと手を添えた。
「……無理しなくていいんだよ、ひなたちゃん」
まるで、倒れそうな心を支えるように。
その手は温かく、どこまでも優しかった。
「柚木さん……」
「あのね、私、ひなたちゃんがまた歌えるようになるまで、ずーっと応援するって決めたの。だから……焦らなくていいよ」
声を張り上げるでもなく、大げさに慰めるでもない。
けれど、その言葉には確かな想いが込められていた。
ひなたはそっと、あかりの手に自分の指を重ねる。
その指は冷たくて、だけど確かに震えながら、繋がろうとしていた。
「……ありがとう。柚木さんがいてくれたら……声、出せるかもしれない」
「うんっ!」
あかりの瞳がまっすぐにひなたを見つめ、光を宿す。
小さく頷きあった、その瞬間——
廊下の奥、誰もいないはずの空間で、ふと空気が揺れた。
ピアノの蓋が、カタン……とわずかに鳴る。
「……あれ?」
「……今、揺れた……?地震?」
ひなたが不安げに辺りを見回す。
けれど、すぐ近くには異変はなかった。ただ、どこか冷たい空気の名残が、そっと教室を撫でていた。
——この感覚。
あかりは思わず、左手首につけたブレッシング・リンクへと目を落とした。
ディスコードの出現を感知したのか、画面にはソラシーが慌てたような顔のイラストが点滅しており、ブレッシングノーツの出番を知らせていた。
でも今はまだ、ひなたの前で不安を煽るわけにはいかない。
あかりは微笑んで、そっと手を握る。
「ちょっと用事思い出しちゃって、ひなたちゃんはまだ練習していく?」
「……うん!頑張ってみる。」
「そっか!……応援してるからねっ!ひなたちゃんのかっこいい姿見たらきっと相馬君も……!」
「そ、そうかな……。でも咲良さんと比べたら私なんて……」
再び表情を曇らせるひなたに、あかりは握ったままの手の力を少しだけ強めた。
「ひなたちゃんは、ひなたちゃんだよ!みんなそれぞれ得意なものは違うんだから!……アリサちゃんだって、確かにスポーツも勉強も……スタイルだって完璧だけど、歌は得意じゃないんだよ!」
あかりの熱の籠った言葉にひなたは思わずパチパチと瞬きをして呆けたようにあかりを見つめた。
「それに、ひなたちゃんって自分じゃ気付いていないかもしれないけど、とっても可愛いよ!同じ女の子の私でも守ってあげたくなっちゃうし!」
「へ……?いや、そんなこと……」
そうしているうちに、ブレッシング・リンクが、焦るように短く振動を繰り返し始めた。
急かすような通知が、あかりの手首を叩く。
……もう、行かないと。
けれど、まだ不安げに自分を見上げるひなたの顔を見てしまうと、足がすぐには動かなかった。
だからあかりは、優しく微笑んだまま、声をかける。
「……ひなたちゃん、自信がなくなったら、この手のこと思い出してね」
「え……?」
「ぎゅって、握ったでしょ?あれ、私の応援の印だからっ」
ひなたが呆けたように自分の手を見つめる。
そこには、確かにあかりのぬくもりが残っていた。
「……柚木さんって、ほんと……変わってる」
「えへへっ、よく言われる~♪」
とびきりの笑顔を見せて、あかりはひなたに小さく手を振った。
「じゃあ、また明日ね!……ひなたちゃんの歌、楽しみにしてるから!」
「……うんっ!」
ひなたの返事に背を向け、あかりは音楽室を後にした。
背中越しに、微かに「ファイト……です」と聞こえた気がして、思わず足を止めそうになったけれど——
今は……私も頑張らなきゃ!
いよいよ次はミーザリアさんの対ブレッシングノーツ初陣です。
次回もお楽しみに!!




