ⅩⅠ.秘蜜
⚠️本シリーズには実際に実在しているイベントやメーカー名、名称や”アイコン”、データなどが出てきますが、フレーバーとしての使用であり、全てが完全なる架空の産物であり、何ひとつとして真実や正しいところはありません。
⚠️また特別は団体、性別、国籍、個人などを指して、差別、攻撃、貶める意図もありません。
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各自の自己責任でお読みください。
当方は読んだ方に沸いた各感情ついて責任を負いません。
全ての文章、画像、構成の転記転載禁止です。
誤字脱字は見つけ次第修正します。
ご指摘・ご意見・リクエスト等は受け取りません。
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あくまで趣味で書いているので、できるだけ辻褄は合わせますが、
後半になってつじつまが合わなくなったり、
内容が変わったりすることもあります。
諸々御了承ください。
1.
しゅるり・・・・・。
ヘビが、気配を消して獲物に近づくときのような、
そんな音がした。
なにかに引き寄せられるように、それは動いているようだった。
ずる、
しばらく後に、なにかが、床を這っている音が続いた。
ずる、 ずる、
それ、は、確実に近づいていた。
ザアァァ・・・・
彼は、じっと一点を見つめたまま立ち尽くしていた。
シャワールームにある、洗面台のカランから、
勢いよく水が吹き出していた。
彼は、じっと、一点を見つめていた。
けれど、その瞳は、”なにも見ていない”ようだった。
そして、何も聞こえていないようだった。
正面にあるよく磨かれた鏡には、彼の姿が、映りこんでいた。
開かれたままの瞳には、生気がなく、まるで蝋人形のようだった。
彼は、考えていた。今日のことを。
あまりに早く過ぎ、短すぎた、その時間のことを。
激しく渇望していたことが、あまりにあっけなく
叶ってしまったときのような、茫然自失の脱力感にも似ていた。
――レナ・・・・
彼が、彼女の姿を脳裏に思い浮かべた瞬間、青い瞳に光が宿った。
たちまち、肌の表面が赤く色づき始め、人工物のようだった唇から、
息が漏れた。
ふわり、と風になびく、やわらかな長い髪。白い顔の、鼻筋、あご先。
華奢な肩、柔らかな体、体温、そのカラダから漂う甘たるい香り。
あぁ、と彼は恍惚の表情を浮かべたが、
その瞳の焦点は、定まっていなかった。
――もう少しだった・・・。
と、彼は思った。
あの時、邪魔が入らなければ・・・。と。
――あと少し、時間があったならば、
彼女を、完全に虜にできたに違いなかった。と。
彼は、ふと、それまでだらりと、体の脇に垂らしていた、
右腕を浮かせた。
アクアマリンをはめ込んだ瞳が、鏡の中の自分を見た。
じっと、見つめあう。
彼は、浮かせた手を、鏡の中の男の顔に近づける。
頬の辺りに触れ、そのまま輪郭をなぞる。
そのまま指先を滑らせて、コーラル色に色づく唇をなぞった。
彼は、じ、っと鏡の中の男の、その口元を見つめる。
感覚が、じんわりとよみがえった。
やわかな女の唇と、その狂おしい熱。
吸い込んだ、甘いヒトの香り。
鏡に触れたまま、彼は、ふとまぶたを伏せた。
栗色の長いまつげが、青い瞳の上にかぶさった。
びっしりと目の際を縁取るまつげの間から、
淡く妖しい光を宿した、碧眼がちらちらと見える。
指先で、自分の乾いた唇をなぞった。
指先の熱が、唇に伝わる。
押し付けると、”その瞬間”の感触がリアルに思い出される。
彼の瞳がうっとりと、潤む。
けれど、と彼は思った。
――あんな程度じゃ、すまない
と。
もっと深く、えぐるように、彼女を味わいたかった。
「・・・・・ハ、」
どろり、と下腹部の奥で、何かがうごめいた。
染み出てくる、黒い、なにか忌まわしい感覚。
――もう一度、アイタイ・・・
しゅる・・・・
足に何かが巻きついた。
この部屋に、息をするものは、彼以外にいないはずだった。
それは、彼の足首に巻きつき、ツルが柱に巻きつくように、
彼の足を”上っていく”。
それは、コードだった。先端はヘッドフォンジャック、その後ろは、
USBに接続できるラインが伸びている。
巻きついたものが、デニムに食い込んでいるのに、
彼はそれには、一向に構わなかった。
内の奥底から湧き上がる、「早く」と急く気持ちをなだめるように、
白い首筋を撫で付ける。
盛り上がった胸板を、Tシャツの上から、
手のひらで、感触をたどるように、撫で付ける。
細いコードが、太ももに巻きつく。
そのまま腰に巻きついて、シャツのすそから、中に潜り込んだ。
ジャック表面の、金属の冷たさが、腰を伝って這う。
彼は、身をよじった。
そのまま、伸び上がって、目を閉じる。
バスルーム内を煌々と照らし出す、強い光が
閉じたまぶたを通過して、視界が白くなる。
眉根が、引き結ばれて、眉間にわずかにシワがよった。
薄く開かれていた唇が、開いてぬめぬめと光る舌が鏡に映った。
「・・・・・・・ハ、 」
背骨と、腰骨の交点の、その一点。
皮膚を突き破り、肉を掻き分けて、カラダの中心めがけて、
”感覚”が、奥へゆっくり進んでいくのがわかった。
台の上に乗せられていた手が、陶器のタイルをかりりと、掻いた。
背中を弓なりに反らせて、
「・・・・・・ァッ、」
声を漏らした。
じゅく、と、その部分にソレが、”収まった”。
瞬間、カラダが、芯から熱くなる。
電気のような感覚が、脊髄を一気に駆け上がり、
延髄を通過し、脳幹に達し、刺激が
”痺れ”となって、じわりと、脳全体に伝播していく。
脳を駆け巡る刺激が、カラダの各神経に飛び散る。
血が逆流するような感覚を覚え、細胞のひとつひとつが、
一気に活性化して、振動し始める。
腰骨の辺りが、ゾクゾクと、鈍く強い痺れを持っている。
まぶたを閉じているので、”見え”ているものは、
一面の白だけだったが、そこに、チカチカと小さな閃光が混じる。
――あぁ、・・・
と彼は、恍惚の中に身を沈めたまま、
カラダを包む刺激に、感嘆した。
体中に散っていた、刺激が急速に収まろうとしていた。
一点に、集約し始めた。
ドクン・・・
彼は、台のふちに手をかけ、背筋を緊張させた。
「真っ白」に”見え”ていた、”視界”は「黒」になり、
カラダから、平衡感覚が抜け落ちる。
自分が今、立っているのか、座っているのか、
わからない。
「・・・・・・は、 ・・・ッ、」
意識が、四方へ飛び散った。
2.
現れては流れ飛んでいく、赤やオレンジの、
街のイルミネーションを、惚けたように眺めていた。
後頭部の辺りが痺れていて、上手く思考が働いていない。
ペースは完全に乱され、いつのまにか崩壊して、
あとは、相手の思うツボだった。
――いいえ、送らせてください。
ド派手な銀髪に、明らかにパンク好きのチンピラな風貌で、
やたらフレンドリーな外国人が、車で彼らの前に飛んできて、
有無を言わせない口調で、言い放ち、
レナが、困惑している間に、車に乗せられてしまった。
確か、とレナはぼんやりと、彼の名を思い出す。
――ランドル・ウォルターです。
コイツのマネージメントをしています。
風貌とのギャップに、思わず思考が止まってしまったのが、
そもそもいけなかったのかもしれない。
「すんませんでした!!」っと、と日本人でも頻繁にしない、
最敬礼で勢いよくお辞儀をされ、呆気に取られている間に、
「コイツが、遅くまで付き合わせたようで、
是非お宅まで送らせてください!」と、たまったのである。
レナは、「あ、いえ・・・」と丁重にお断りしようとした瞬間、
あのセリフで、「No!」と、押し切られたのだった。
さすがに、なのか、「外国人は押しが強烈だわ」と思った。
車には、もうひとり、いた。
彼は、『Tim Delix』の者だと、名乗ったが、特に愛想のない男だった。
銀塗りの。この車は、彼のものらしかった。
――野村です。
と一言、運転席に座っていた眼鏡の男は、日本人のようだった。
レナを一瞥して表情も変えずに、軽い会釈をした。
狭い空間に男4人に女が1人、明らかに危険な構成比にしては、
あまり危機感のない、妙な空間だった。
こつ、と腕に軽い衝撃を感じた。
「・・・・?」
振り向くと、長い足を放り投げて、だいぶくつろいだ様子の
窓に肘をついたエリックの顔が、こちらを向いていた。
さっきの感触は、彼が指でレナの腕をこづいたようだった。
いつから見ていたのか知らなかったが、
口元に浮かべた笑みの感じからして、大体予想はできた。
「・・・・なに見てたの?」
「・・・・」
レナは、答えに困ってしまう。
意識が、前の席に座っている、つまり運転席と助手席の男には、
聞こえてしまうから、そっけなく「別に、」とは、言えなかった。
悪態をつくほど、親密な関係でもない。
「・・・・ちょっと考え事よ」
と、目元に「営業用」の笑みを貼り付けた。
外の夜の明かりで逆光になった顔の、
その表情に不敵な笑みが浮かんだ。
「・・・・・へぇ、仕事のこと?」
レナは、くだらない質問だと思った。
その表情から察するに、レナが本当に仕事のことを考えていた、
とは、本気で思っている風ではなかった。
「本気でそう、思うの?」
思わず、前の座席にいる二人の反応を、気配で伺ってしまった。
エリックは、レナのセリフには、大した反応をしなかった。
代わりに、伸ばした手で、レナの手に触れた。
「ーーッ!」
一瞬驚いて、カラダがピクリと、反応してしまう。
全身に緊張が、走る。
エリックは、レナの膝の上に置かれた手の甲の上に、
重ねるように手を置く。
チラ、とレナが、前の二人を見てしまったのを、
彼は見逃すはずはなかった。
口の端を吊り上げて、笑みを浮かべたが、
そしらぬフリをして、また窓の外に顔を向けてしまった。
エリックの関係者が周りにいる以上、無下にその手を払えないレナは、
まじまじと、その白い手の甲を見てしまう。
手の甲から、じんわりと、エリックの手の感触と、熱が伝わってくる。
数年前の自分は、こんな状況を夢見ていたはずだった。
突然、目の前に現れ、彼は、この自分に一目ぼれする。
そして、何度も愛を囁く。
しかし、いざ目前に提示されると、こんなにも戸惑ってしまうのは、
何故なのだろう。と、思った。
――アタシは、一体何様なのかしら・・・・
ふと、「孝也」を思い出した。
さっき、電話をしてきてくれたのに、あれからどうしたのだろう、
と思った。あの時、回線は切れてしまったのだろうか。
それとも、落ちた衝撃で、壊れてしまった・・・?
ぎゅ。
手に力が加わった。
レナの手に、手を重ねている男が、その手に力を加えたからだった。
ぐ、と緩慢に把握される。
また、エリックに心を読まれたのかと、思ったレナは、
思わず隣を振り返った。
けれど、エリックは、まだ窓の外の、遠くの方を見ていた。
レナの視線に気が付いたのかそれから数秒後、ふと振り返りった。
逆光になっていても、彼の造作の美しさは、際立っている。
ドキ、
もう”その感情”は捨てたはずなのに、
じわりと、染み出してきそうになるのを、必死で耐える。
おもわず見とれてしまいそうになるのを、
誤魔化すように視線を外した。
ふわ、と顔に、髪が落ちかかって、顔が影になった。
視界が遮蔽されて、嗅覚が冴える。
”他人の車”独特の匂い、男物の香水の匂い、それから、
――隣に座る、この男から発する、なんとも言われない魅力。
「レナ!」
家の近くまでと、念を押し、車を降り、
別れ際、振り返ると、小走りで走り寄ってくる、大柄な男の姿。
今日夜の口に、会ったときはは、ニットキャップをかぶっていた、
とレナは、唐突に思い出したのだが、
今は、短くトリミングされたくるくると癖のついた、金髪が、
露になっている。
吸い込んだ息が冷たい。
吸い込んだ空気が、肺に溜まっている。
ふわりと、浮いた髪の毛を、片手で押さえて、
走り寄る男の姿を、なんとなく眺めてしまった。
確かに、長い足といい、長い手といい、
盛り上がった胸のその起伏といい、小さな顔といい、・・・
「・・・・、はぁ、 レナ、」
小さく、目の前で息を整えて、
ぐ、っと、両肩を強い力で掴まれ、強制的に、
エリックの顔を振り仰いだ。
そして、その男が、それほど背が高いのかを、思い知った。
頭の、頭頂よりも上に顔がある、と。
エリックは、わずかに身をかがめ、レナの目の前に、
笑顔を浮かべて、自分の顔を押し出す。
ミルクティー色のまつげが、街灯の明かりに浮かび上がった。
その中心に、納まっているのは、つるり、とした水色の瞳。
水色のゼリーの奥に、黒い丸が見え、それはただの目だったが、
彼の目には、どこか、妖しげな強い引力のようなものがあって、
無意識のうちに、どんどん引き込まれていってしまうようだった。
「・・・・・・」
レナの視線にエリックの口元が、なにかを言いかけた。
意識を無防備にしていたレナは、おもいがげず、
エリックの瞳に思考を吸い込まれてしまっていた。
エリックも、レナの両肩を掴んだところまではよかったが、
レナの視線に、当該の目的を完全に蒸発させてしまったようだった。
そのまま、硬直して、動きを止めてしまった。
レナは、その目が自分の意識を、どんどん吸い込んでいってしまうのを、
自力では止められない。視線を外せなかった。
止められないから、どんどん意識は、水色の目の中に、
吸い込まれていってしまう。
顔が近くなった。
けれど、止められない。
顔に、影が差した。
けれど、動けない。
一瞬だった。
ごつ。
口の周りの皮膚に覆われた、歯の骨が、
互いぶつかり合う衝撃を覚えた。
熱が押し付けられた。
一瞬、レナの瞳が、大きく見開いたが、
それ以上の動きはなかった。
「・・・・・レナ、」
唇を離して、愛おしそうに、頬を撫でて、
またそこにキスを落とした。
身じろぎひとつ、できない。
エリックは、名残惜しそうに、
唇の端に、数度キスをして、「またね」と囁いた。
レナは、果たしてその瞬間、「えぇ」とでも、
返事ができたのか、自信がなかった。
呆然としているのか、うまく思考をつなぐことができずに、
そのまま走っていく背中を、ただ、目で追っていた。
「それじゃ、どうも!」と、離れたところに停めていた車の窓から
助手席のランドルが、顔を出して、手をかざすのに、
ようやくレナは、上半身を、わずかに動かした、”よう”に、
彼女自身では思っているのだが、果たして本当に、
”会釈”のようなものを、できたのかすら、怪しかった。
サラ・・・・
夜風が、辺りの木々を揺らす音が、流れてくる。
長い髪が、顔にかかる。
首に巻いたストールが、風になびいている。
トレンチコートの裾が、むき出しの膝を擦った。
3.
「・・・・・・なんッ、・・・」
回線の中を、”信号”となり駆け抜け、出た世界は、
今までと、違う場所だった。
レナの部屋よりも、もっと、猥雑な匂い。
足元に無数のコードが、這いまわっている。
足の裏に、冷たい床の感触を覚えた。
”この姿”でいるとき、エリックは、人間の肉体を持っていた時と、
ほぼ同じ感覚を持っていた。
もっとも、人間の肉体を通した感触の方が、
リアルでいいのだが、”彼女”には、簡単に会えない事情のため、
”この姿”は、便利だった。
いっとき、彼の肉体は、回線に乗って、世界中に散る。
”肉体”から、開放される瞬間、四肢が離れていく感覚を味わう。
それも、異常なほど、強い快感。
それから、レナの部屋で、再構築され、”この姿”に”戻る”。
・・・はずだった。
(・・・・ここは、)
不思議そうに、辺りを見回したエリックが、
下方からの視線を感じ、それを見た。
女が、そこに座っていた。
マロンブラウンのボブヘアの、女だった。
彼女が、じ、っとこちらを見ていた。
驚愕や畏怖の入り混じる視線には、
しかし、強い好奇心が、前面に見えた。
モニタが発する光が、彼女の頬を照らしている。
彼女の顔は、やはり白くのっぺりとして、
どこか子供のように幼く、淡白。
しかし、その目元には、強い意志が宿っていた。
レナが「水」なら、彼女は「火」のようだった。
見つめすぎれば、心の奥を見透かされ、
そして無残にも、燃やされてしまいそうだった。
ガタ、
女が立ち上がる、と、エリックは、じり、と
後退した。
こっちへ近づく、と。
それを見た女は、ニヤ、と笑みを浮かべた。
エリックは、ドキリとしてしまう。
――まずい、
なぜか、そう思った。
その女に、すべてがさらされてしまいそうになる。
問答無用で、身ぐるみを剥がされて、すべてを見られてしまう。
見たくないものを、見られ、見せられて、
その女に、蹂躙されてしまう様を、想像してしまった。
エリックは、一歩、後退する。
怖い。と、初めて彼は思った。
「エリック・・・・?」
ドキン、
ここには、存在していない臓器が、
強く脈打ったような気がした。
その音まで、鼓膜に伝わって聞こえる。
どきん、 どきん、
逃げなければ、と思うほど、どうしたらいいのか、
上手く考えられない。
そもそも、彼は”好きなとき”に帰れない。
いつも、もっと居たいのに、”時間が来る”と強い力が、
彼をもとの肉体に戻してしまう。
こんなピンチは、初めてだった。
「・・・・逃げなくてもいいじゃない、」
女が、詰め寄ってくる。
顔に不敵な笑みを浮かべて、瞳からは驚きの色は失せて、
好奇心でいっぱいになっているのが、ありありと見えた。
背中が、壁に当たった。
もう、後ろには行けない。
自分の胸の辺りに、彼女の顔はあって、
面白いものを見るような目で、彼を見上げている。
「・・・・すごいわ・・・」と、感嘆の声を漏らして、指を浮かせた。
エリックは、その指の動きを、目で追う。
触れないで欲しいと願うのに、彼女はお構い無しに、
頬に触れた。
「・・・・すごい・・・・ちゃんと、”感じる”わ・・・」
と、確かにヒトの皮膚の感覚を、指が感じたのを、
指先と、頬を見やりながら、感心する。
「どう、なっているのかしら」
「ーーーーッ、・・・・」
「・・・・そんなに嫌がらなくても、いいじゃない?」
「・・・・・」
「減るもんじゃないわ・・・・フフ、」
他人の指の腹が、頬を撫でる。
「やめてくれ!」と、心底から叫んでいるが、
恐怖が先に立ってしまい、声にならない。
しかも、この女が、先刻から何を言っているのか、
全くわからないことが、彼の恐怖をさらにあおっている。
「・・・怯えているの?・・・・こんなものが怖いなんて・・・」
彼女は、しげしげと、エリックの造作を、眺め回す。
触れていた頬のラインをたどり、あご先、首筋をなぞる。
頚部の動脈がある辺りを、押す。
どく、どく、とそこが、脈打っているのが、わかった。
そうして、彼女はひとしきり、エリックの脈拍を確かめ、
また感心したように、うなづいた。
彼女の好奇心は、止まらない。
胸板に手のひらを乗せ、やはりその感触を確かめている。
同時に、エリックの反応を、見ていた。
彼は、彼女が指先を滑らせる度に、怯えたように、
伏せたまつげを、震わせていた。
怯えをさとらせまいと、顔を背けているのが、
余計、彼女を喜ばせた。
(・・・・こんなものの、どこが、怖いって言うのかしら・・・)
彼女は、彼女の友人が、真っ青になって、
「お願いなんとかして」と、持ち帰ることを拒んだ、
その切迫した表情を思い出した。
――藤沢レナという女。
普段、親しいものだけにしか、表情を見せない。
何も知らない、他の部の男性社員らに、
密かに”狙われて”いることすら、レナは知らない。
彼女のどこが、そんなにいいのか知れないが、
――いや、
と、彼女は思った。
あの、”鈍感さ”が、男をひきつけるのかもしれない、と。
――”蜘蛛女”
密かに、彼女はレナをそう、形容している。
蜘蛛の巣の、妖しい輝きに、吸い寄せられた男は、
巣の粘液に、カラダを絡め取られ、身動きがとれなくなる。
しかし始末におえないことに、その蜘蛛は”肉食”ではない点だ。
彼女は、巣に絡め取られた虫達を、”口にする”ことはない。
食べてもらうことすら叶わない彼らは、
長い時間、激しい飢餓感に苛まれながら、
そうして、絶望と失意の中、死んでいく。
しかし、その蜘蛛は、虫達の飢餓感など、知らない。
気がつきすらしない。
この男も、それに”毒された”のか・・・・?
彼女は、じっと耐えている目の前の男を見た。
――いや、・・・・
彼は、恐らく、”洗脳”されているだけだろう、と思った。
ヒトの脳は、刺激に、驚くほど簡単に屈服してしまう。
健忘症、幻覚症状、・・・すべては、脳の機嫌で起こる。
怒り、悲しみ、喜び、そして、恐怖、「心」は、心臓にはない。
「脳」に納まっている。
「脳」が、その”人間”の”姿”を、すべて決めてしまう。
つまりヒトの肉体に、「心」はあるのではなく、「脳」にある。
「脳」が「白」と言うのなら、本当は「黒」であっても、
「白」に見えてしまうものだ。
「・・・・ふぅん、」
故に、肉体が、なくとも、存在するためのツールがあれば、
「存在」することが、できるはずだった。
エリックの”出現”は、まさに彼女の仮説を裏付けているように
思えたが、しかし、理解できないのは、
――このエリックは、どこから出現したのか。
ということだった。
彼を、ここに投影するような、プロジェクターのようなものは、
見当たらない。
もっと言えば、エリックの姿を仮に、「立体映像」とするならば、
その技術は、まだ開発途上だ。
感触が分かるほど、精巧なホログラムが、発明されているならば、
既にニュースになっているべきものだ。
では、このエリックは、一体「何」なのか。
彼女は、しげしげと、エリックの姿を、眺めながら、
そのカラダに触れ、奇妙なほど「正確な」感触を確かめる。
ちなみに、彼女の概念には、「幽霊」という言葉はない。
これっぽっちも、信じていないからだ。
「・・・・・ッ、」
唸りながら、腰を撫で回すと、エリックが小さく悲鳴を上げた。
彼女は、その哀れな男を見上げた。
耐えかねた表情は、泣く一歩手前だった。
目元が羞恥から、紅く色づき、それはそれで、見ものだった。
「・・・・エリック、」と、名前を呼ぶと、
そのカラダが、ぴく、と震えた。
――面白いわ・・・・
彼女は、新しい”おもちゃ”を見つけた子供のように、
心が高ぶるのがわかった。心底、楽しい。
「そうね、我慢したら、レナに、会わせてあげるわ」
彼の興味を引くに十分過ぎる言葉を、
彼が「理解できる言語」で、差し向けた。
それは、覿面の効果を発揮した。
怯えきっていた瞳に、突如強い光が宿る。
恐怖から、カラカラに干からびてしまった心に、
水が注がれ、生気を取りもどす様が、ありありと見て取れた。
「・・・・それは、」
エリックが、かすれた声を絞り出した。
しかし、ヒトの声にしては、なにかノイズが混じっている。
機械を通過してきた、ヒトの声。
「・・・・でも、なんで・・・、」
最初に彼に訪れたのは、恐らく「希望」だった。
そして、次に訪れたのは、「疑問」らしかった。
なぜ、キミが、レナを”知っている”?
と。
眉根をよせた表情から、目の前の見知らぬ女を、
信用していいのかどうか、推し量っているのは、わかった。
「・・・・だって、”あれ”を、私に預けたのは、レナだから・・・・」
だから、彼女は、わざと、”それ”を見せた。
背に「Teo2000」とロゴの入った、ラップトップのパソコン。
それを見つけたエリックの動揺は、激しいものだった。
一瞬、瞳に絶望がよぎる。
「裏切られたのか・・・?」とでも、言いたそうな目をして、
目の前の女を見た。
「・・・・あれは、 ・・・どうして・・・・、 レナ・・・・」
明らかにエリックは、動揺していた。
「アレ」がなければ、エリックは、レナの「元」には行くことはできない。
そのたかだか、A4サイズパソコンのあるところにしか、
「彼」は、「行けない」。
彼に、その「理屈」は説明できないが、「そう」だと、認識している。
「・・・・・・エリック、 あれ、が「本体」なんでしょ?」
彼女は、ずばり核心を突いてきた。
知られていけない、とエリックは、頭の片隅で思っていた。
けれど、激しい動揺のせいで、恐らくそれはバレてしまう。
――・・・終わりだ・・・・ッ、
「あぁ、」と、エリックはうめき声をあげてしまった。
彼女は、「やはり」と内心確信をした。
恐らく、アレを”叩けば”、「このエリック」は消える。と。
レナは、盲目的に彼女を愛しているに違いない、この男から、
彼女に関する記憶が、消えてしまってもいいというのだろうか、
と、ふと思った。
彼女は、レナが、この男に「妄執」していた過去を知っている。
嬉々として、「かっこいいわぁ~vv」と目を輝かせていたレナの姿を
知っている。もっとも、それは、いっときの事だったが。
健忘症の患者と接したモノは、親疎関係なく、ショックを受ける、
という話はよく聞く。
つい数分前に話をしていたのに、数分後には「はじめまして」と
言われてしまう。
肉親だったならば、どんな精神的苦痛が訪れるか、想像にたやすい。
たとえ、それを望んでいたとしても、エリック・エバンスという「ヒト」の
「脳」が、藤沢レナという存在を、消してしまったとしたら、
一生会うことはなくとも、その事実にさらされながら、生きていくことは、
どんななのだろう。
「・・・・キミの名前を教えて欲しい!」
「え・・・?」
思いにふけっていたが、すぐに現実に呼び戻された。
切羽詰った表情のエリック・エバンスが、彼女の肩を掴んでいた。
「名前?」と思ったが、構わないと判断し、「アキよ」と答えた。
すると、エリックは、「アキ!」と、彼女を見つめ、
「頼む、協力して欲しいんだ!・・・・」
「ふぅん、見返りは・・・・?」
「・・・・い、今は、時間がもうないから、・・・」
「時間・・・・?」
「と、とにかく、 望むことはなんでもするッ、」
「へぇ・・・? なんでも・・・?」
と、アキが、猥雑にとても意味深な笑みを浮かべると、
エリックは、一瞬ひるんだように、顔を引きつらせた。
しかし、背に腹は変えられないのか、すぐに、
「・・・・なんでもする・・・・、なんでも・・・・だからッ、」
なぜそこまで、必死なのかアキには分からなかったが、
しかし、にっこりと微笑んでやった。
「いいわ・・・・、 色々教えてもらうわ」
「・・・・う、 わかった・・・・」
「交渉成立ね」
と、アキが言うや否や、エリックの「姿」が、ブレた。
ブゥン、と音が、どこからか聞こえたかと思うと、
エリックが一瞬、表情を苦しそうに歪めた。
「ーーーーーァッ、」
短い叫びをあげた瞬間、姿が掻き消えた。
ガガガガ、と音を立てていた、レナの「Teo2000」が静かになった。
電源ランプが、消えている。
つまり、電源が落ちたのだろう。
アキは、唐突に静かになった室内を見渡して、
先刻、この部屋で起きたことを思い出した。
電源が、自動的に入り起動すると、エリックが送信されてくる・・・?
と、エリックがこの部屋にいたのは、15分程度だろう。
それしか、「電源を維持できない」ということは、
エリックの立体映像を維持するのには、この小さな「バッテリー」の電力では、
それが精一杯なのだろうか。
コンセントには、しばらくつなげていない。
レナの「Teo2000」には、そんな「電力」は宿っていないはずだ。
せいぜい、一瞬起動させるだけの電力しかないはずだった。
では、エリックの姿を20分程度維持するための、「電力」はどこから・・・?
そうして、アキは思い出した。
この世界に、一体何台の「Teo2000」が、今現在存在しているのか。
そのうちの、何台の「動作不良」が見つかっているか。
「動作不良」の報告されていない、「Teo2000」は一体何台あるのか。
「ゴーストPC」という言葉を聞いたことがあった。
ユーザーの知らないうちに、コンピュータウィルスの発信元になっている、
というパソコンのことを。
「Teo2000」は2000年に、ミレニアムを記念して、
ZAP社が特別に発表した、パソコンである。
当時一番センスのよいオシャレなラップトップパソコンとして、
爆発的なヒットを飛ばした。
また、他社のものとは、異なるシステムを採用しているため、
他社との互換性はなかったが、故に関連製品はよく売れた。
しかしZAP社は、「Teo2000」の次のラインから、
他社との互換性を意識したOSを採用したため、
システムとして、完全に孤立してしまった「Teo2000」は、
数年後生産を中止している。
各所ストック分は、既に処分されたと聞いた。
しかし、依然そのソフトを手元において使う人は、
未だにいることは確かだった。
唯一の孤立したシステムのために、
ウィルスには疎かったからだ。
日々何千何万というウィルスが、生み出されては各所に潜み、
地雷を踏むものを待ち受けている。
ウィルスを生み出すハッカーは、より多数のユーザーを狙う、
全パソコンユーザーの数パーセントしかいない、「Teo2000」を、
わざわざ標的にするような、暇なハッカーなどいない。
しかし、とアキは思った。
「Teo2000」だけを狙った、ウィルスだとすれば、
誰が生み出したのだろう。
しかも「フジサワレナ」という個人に、焦点を向けたウィルスなど、
生み出す意味がない。
彼女に恨みがある人物なら、「I WANT TO RENA(レナが欲しい)」
などと、言わない。では、レナを盲目的に好きな人物か・・・。
ならば、どうして、「わざわざ」、セレブリティの
エリック・エヴァンスを選んだのだろう。
なぜ、それを”知って”いた・・・・?
考えるだけ、よくわからなくなってくる。
パソコン自体が、「意志」を持つなんて事があるのか。
「A.I(人工知能)」にしては、あまりに精巧すぎる。
まるで、・・・・。
と、彼女は思った。
パソコン自体が意志を持ち、エリック・エヴァンスという存在を、
まるごと、「インストール」したみたい・・・・
ゾクッ、
アキの背筋に冷たいものが走った。
話自体は2000年ごろに書いたものなので、技術が古いです。
実際のデータ、名称などを使っていても、全て架空物であり、真実はありません。