きみは僕に「 」と言った
「とおる」
少女の声は不自然にかすれていた。
真夏の午後だというのに、なぜか彼女のまわりは物の影が薄い。
並んでいる車や駐車場のフェンス、街路樹や電柱が強い光にくっきりと浮かび上がり、存在感のある影を落としている。
その中で、少女だけがほのかに霞んでいるように思える。
「と、おる……」
サザッ、サザッと電気的なノイズのような音がする。
どこかで遠雷が鳴っているのかもしれない。あるいは、透にしか聞こえない耳鳴りなのかも。
透が声を出そうとしたその刹那、周囲を暗闇が覆った。
――サザッ、サザーッ、サザーッ。
アスファルトがたちまち黒く濡れていく。
夕立だ。
「……ホタル」
焦げたアスファルトが急速に冷やされ、埃くさい熱気が舞い上がる。
少女は能面のような顔のまま、一種異様なたどたどしさで言葉を発した。
「かえら、なく、ちゃ」
「どこへ帰るの……?」
「…………」
口を閉じると、本当に人形か立体映像みたいだ。
透はまた泣きそうになって、必死に少女に話しかけた。
「お願いだ、行かないでくれ。もう少しだけでいいから、僕のそばにいてほしいんだ」
車の窓から雨が吹き込んできて、肩を濡らす。
その不快に温い水滴も、まったく気にならない。
――サザッ、サザザーッ。
「もう、じかんなの」
激しい音を立てて、雨が降る。
「僕は……僕は」
少女が絞り出すようなキシキシとした声でささやく。
「なかなくて、いイん、ダよ」
透の頬を目尻からあふれた涙が伝っていた。
「……ごめん……ごめんなさい。僕のせいで……。蛍を、もっと早くきみを探していれば」
雨がやまない。
「とおルの、せイじゃない」
涙が止まらない。
「ずっときみに謝りたかった。あの日、見捨てて帰ってごめん。ずっと……忘れていて、ごめん」
蛍。
「カワに、さそったノは、わたし」
ホタル。
「とおルを、たすケタかったのも、ワたシ」
ほたる。
「とオる、ガ、ぶじデ、ヨカ……タ」
僕は。
「きみが大好きだった。本当に好きだったんだ」
少女がふっと、濡れたフロントガラスの向こうを見た。
夕立は嘘のように通り過ぎていた。
「と、お、る」
「ほたる……?」
「もウ、かえ、ラ、ナキャ」
きみはまた、いなくなるのか。
現実と幻想の狭間で、また僕を救って死ぬのか。
「かエ、ル」
「行くな」
「オバア、チャンチ、カエル」
キシキシと軋む声。
おぼろげに微笑む少女。
唇の端が持ち上がり、榛色の瞳が優しく細められる。
最後だとわかった。
妄想なのかもしれない。奇跡なのかもしれない。
何が真実なのかは定かではないけれど、これで本当に最後なのだ。
少女の魂の欠片が消えていく。
ほたるのまぼろしが、透の心の奥底の虚ろの中から旅立っていく。
「ナカ、ナク、テ、イイ、ンダ、ヨ」
――泣かなくて、いいんだよ。
「ほたる」
とめどなく涙があふれる。
肝心な時に、前が見えない。
ほたるが見えない。
「ほたる」
埃くさい夏のアスファルトの匂い。
黄昏の予感をほんのりと抱いて広がる、深く高い空。
乾きはじめたフロントガラスの向こうに、大きな虹がかかっていた。
「ニ、ジ」
「うん。虹だね」
雨と空と虹と。
生と死と再生と。
透は泣きながら笑った。
失われた蛍の命を、透の中で生き生きと輝く優しいホタルの魂を笑顔で見送りたかった。
「……さ……よ……な……ら……」
一音一音を確かめるように、少女が喉から柔らかな声を押し出した。
全身を使ってかろうじて人の声を保ち、最後の音を言い終える。
小さな声は、とけるように夏空に消えた。
「ほたる」
少女は青空に弧を描く虹の橋を見上げ、ちらりと一瞬だけ透に視線を戻して笑った。
「 」
雲が流れ、風が光り、
虹が
消えて
少女は
「……ほたる……さよなら」
ほんのりと杏色の滲んできた空。
透は時の止まったままだった少年時代に別れを告げた。
* * *
「いらっしゃいませ」
八月になると、風通しのいいほたるび骨董店にもさすがに熱気がこもる。
クーラー嫌いの透は、扇風機を三台持ち込んで暑さをしのいでいた。
一台はレジのうしろにある透の指定席に向け、あとの二台は店舗の中の空気を循環させる。
「ごゆっくり、どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
ちらちらと透を見ながら、ふたり連れの客がささやきあっていた。
なんだろう。最近また、若い女性客が妙に増えた気がする。
今話題になっているドラマの舞台は、古城市から別の場所に移ったはずだけれど。
「あの」
「はい」
「写真、撮ってもいいですか?」
「いいですよ」
「わぁい、やった」
女性たちが華やいだ声を上げた。
ほかに客もいないし、まぁいいだろう。
「じゃあ、真ん中に入ってくださいね」
透の左右に、なんだかひらひらした服装の女性たちが陣取る。
透は焦って、椅子から落ちそうになった。
「え? 僕も入るの?」
戸惑う透に、うんうんとうなずく女性客。
「もちろん! イケメン店長さんがいるって、SNSで話題になってて」
「え? ええっ?」
きゃっきゃっと賑やかにはしゃぐ女性たちに結局何枚も写真を撮られ、透はぐったりとしてその日の午後を過ごした。
お気に入りのグラスに炭酸水をそっとそそいで、しばらくその泡を眺める。
商売繁盛はありがたいが、今後写真は断ろうと透は固く心に誓った。
* * *
きみと初めて出逢ったのは、遠い夏の日――。
あんなに大好きだったのに、なぜか顔も思い出せなかったきみ。
祖母の営む骨董店の名と同じ響きだった、その儚げな名前を、僕は一生忘れない。
きみの名は、ほたる。
これから新たな出逢いがあるかもしれない。
家庭を築いて、子供を持つこともあるかもしれない。
今はまだ、そんな未来があるとは思えないけれど、あの遠い日に、きみとめぐり逢えたのだから。
奇跡はふと気が付くと、ありふれた日常の中に転がっているものなのだ。
ほたる。
僕は、この街で生きていくよ。
「さよならとつぶやいて、きみは夏空に消えた」了