初恋は、まぼろしの虹
ホタルがいない。
気が付いたのは新幹線の中だった。
『茉莉花』に置いてきてしまったのか? それとも、どこか途中ではぐれたのか。
思い出せない。
そもそも、ホタルは『いた』のか?
古城市を出て最寄り駅の駐車場に車を停め新幹線に乗ったとき、そこにホタルはいたか? 僕はホタルの分も新幹線のチケットを購入したか?
頭がぼんやりしていて、今朝のことなのにはっきりしない。
新幹線の窓の外を瞬く間に都会のビル群が流れ去っていく。抗う術もなく過去へと引きずり込まれる透の意識のようだ。
ホタルは――蛍は。
蛍は国際結婚の夫婦から生まれた子供で、そのためか別の理由があるのかわからないが、地元の小学校で仲間はずれにされていた。
透と同じく長期休暇の間のみ祖父母の家へと遊びに来ていて、友達は透だけだと言っていた。
蛍はかわいらしい女の子だった。
いじめられているなんて思えない、活発で明るい少女。
もしかしたら素直でいられる透の前でだけ、そんな姿を見せていたのかもしれない。
けれど、透にとっては、引っ込み思案な自分を新しい世界に引っ張っていってくれる憧れの対象だったのだ。
そんな蛍を。
僕は。
その日も、透は蛍に誘われて外に出た。
『透、川に行こうよ』
姫沙羅の葉がかすかな風にそよぐ縁側で本を読んでいた透の手を引いて、炎天下を走り出す蛍。
少年向けの冒険小説は、パタタッと軽い音を立てて茶の間の畳に放られた。
その渓流は、ほたるび骨董店から歩いて三十分ほどの距離にあった。
大人たちには子供だけでは行くなと禁じられていたけれど、そんなに遠くもないし、たまに『冒険』に行くにはちょうどいい場所だった。
特に暑い日の水辺は気持ちいい。
『冷たい……!』
『ほんとだね』
清流の水は日光に温められることなくひんやりしていて、熱した河原の石に焼けた足の裏を冷やしてくれる。
透はそれほど活発な子供ではなく、これまであまり羽目を外すことはなかった。
でも、そのときは直前に読んでいた冒険小説の影響も残っていて、常よりも心が沸き立っていた。
しかも、隣には蛍がいる。
少年らしい純情さで表には出さなかったけれど、ひそかに憧れ、かわいいと思っている女の子だ。
少しは頼りがいのあるところを見せたくて、透は蛍の手を引いて川の流れの急なところに歩いていった。
『ほら、すごい。足が持っていかれそうでおもしろいよ。……うわっ』
突然深みにはまった。
それほど水深があるわけではない。
ただ膝ほどの深さでも一度転んでしまうと、速い流れに巻き込まれて立ち上がることができない。
『透!』
蛍の声がした。
つないでいた手は、いつの間にか離れている。
渦巻く水の塊が次から次へと襲ってきて、息ができない。
『透! 透!』
もう駄目だ……!
透が死を覚悟した時、白い小さな手が透の腕をつかんだ。
――蛍!
無我夢中でその手にすがる。
細い少女の腕を支点にして浅瀬に這い上がる。
『はぁっ、はぁっ、はぁっ』
肺が引き絞られるように痛いけれど、透は全力疾走したあとのように思い切り息を吸い込んだ。
助かった。助かったんだ……。
『蛍』
思わぬ窮地からの生還を笑って祝おうと蛍を探すが、そこに少女の姿はなかった。
『蛍……?』
赤い運動靴だけが、ぽつねんと草むらの中に置き去りにされていた。
透が大人に助けを求めたのは、彼女が流されてから二時間以上経った昼時だった。
蛍がいないということの意味を、幼い少年は理解できなかった。
しばらく呆然として立ち尽くしたあと、もしかしたら蛍は藪の中か土手の向こう側に隠れて透を脅かそうとしているのかと思って、あちこち探しまわった。
けれど、いない。
先に帰ってしまったのかもしれない。急にお腹が空いたのかも。
……透を残して? 靴も履かずに?
どす黒い不安が小さな胸の奥にたまっていくが、どうしてもそれを認められなかった。
透が祖母に蛍のことを相談したのは、祖母の作った素麺を食べ終えて麦茶を飲んでいる時だった。
『蛍、もう家に帰ってるよね? 僕、蛍を置いてきちゃったかな?』
祖母はその場で蛍の祖父母に電話をした。
蛍は帰っていなかった。
少女の体は、ほんの二百メートル下流で発見された。
魂の抜けた体だけが。
まだ幼い少女の葬式は悲嘆の声に覆われていた。
憔悴した父親、慟哭する母親、虚空を見つめたまま動かない祖父母。
蛍の住んでいた地元から離れていたため参列者は少なかったが、その場にいる者はみな嗚咽していた。
祖母と母に連れられた透が入っていくと、蛍の母は半狂乱になって透につかみかかり、周囲に止められると泣きじゃくりながら透を罵りつづけた。
僕が。
――殺した。
自分のせいで、彼女は死んだのだ。
のちに少女の事故が原因で、蛍の両親は離婚したと聞いた。
蛍。
蛍の命、未来、家族。
すべて、自分が奪った。
なにもかもが透のせいでなくなってしまった。
ついさっきまであった温かい微笑みが、浮き立つ気持ちが、永遠に手の届かないものになってしまったのだ。
あまりの罪の重さを背負い切れずに、透の記憶はぽっかりと失われた。
ほたるび骨董店を去り母と暮らす家に戻ると、その夏のことはぼうっと霞む夢の中の出来事のように次第に消えていった。
かすかな夕虹が、夏の終わりを彩っていた。
「まさか、そんな……」
新幹線の自由席で、透は自分の犯した罪に震えていた。
自分が、蛍を……。
おかしくなりそうだった。いや、既におかしくなっているのかもしれない。自分が正気なのかどうか、もうはっきりしない。
昨日突然ほたるび骨董店に現れた、蛍と同じ名前の少女。
夕凪杏子が差し出した写真に写っていた蛍と、同じ顔の少女。
あのホタルは、蛍なのか。
なぜ今、透の前に姿を見せたのか。
そもそもホタルは本当に存在していたのか。
会社を辞めさせられた過程での重度のストレスと、自ら封印した過去の記憶から漏れ出す罪悪感とで、疲れ果てた脳が作り出した幻影ではないのか。
振り返ってみれば、妙なところはたくさんあった。
杏子が蛍の母親なのだとしたら、おそらくもう一度会いたいと焦がれつづけた愛娘と同じ年ごろの、よく似た顔立ちをした少女が目の前にいるのに、なぜなにも言わなかったのか。
杏子はホタルのほうに視線すら向けなかったのだ。
違和感の源はまだあった。
クリームソーダを頼んだとき、杏子は驚いた顔をしていた。
あれは透がアイスコーヒーとクリームソーダをひとりで頼んだと思ったからではないのだろうか。
そして、杏子はふたつのグラスを両方とも透の前に置いた。
杏子には、ホタルの姿が見えていなかったのではないのか。
「……SNS」
ふと昨日ホタルが店にいたとき、女性客が写真を撮っていたことを思い出した。
『写真、SNSにアップするので、見てください』
『素敵なお店だったって宣伝しておきます』
彼女たちはそんなふうに言っていた気がする。
透はスマートフォンをボトムスのポケットから取り出して、冷たく痺れた指でSNSの投稿を検索した。
「古城市……ほたるび骨董店……」
ふたつ目のSNSで、それらしき投稿を見つけた。
何枚かの写真が載せられている。
若い女性が昭和初期の階段箪笥の前で自撮りしている写真や、天井の梁に掛けられたつるし雛を指さしている写真。
そして、三枚目の写真に、透が写り込んでいた。
困ったような顔で微笑む透。年代物のレジカウンターに、炭酸水を飲み干して空っぽになったグラス。
そこに、少女はいなかった。
単に角度やトリミングの問題なのかもしれない。
でも、ホタルは透の前に立っていた。
透と話をしていたはずなのに。
最寄りの駅に着いたとき、透は泣いていた。
無性に、蛍に――ホタルに会いたかった。
まぼろしでもいい。この世ならざる者でもかまわない。
透が思い出さなければ、彼女はそばにいてくれたのだろうか。これからも、ずっと。
「ほたる……」
最後に一度だけでいい。
謝りたい。少女の笑顔が見たい。
大人になった今はもう小さく感じるようになってしまったその手で、もう一度僕を外の世界に連れ出してほしい。
「蛍……ホタル……」
通りすがりの乗客に奇異なものを見る目で遠巻きにされながら改札を抜け、駐車場に向かう。
今は車の運転などできそうになかったが、とにかく独りになりたかった。
空色の軽自動車のドアを開け運転席に乗り込むと、車内にこもった熱気が有毒ガスのように透を蝕む。
窓を全開にしてハンドルに額を預ける。
涙が止まらない。
そのとき、遠くで硝子の風鈴が鳴る音がしたような気がした。
――チリン、チリリン。
暑い車の中を、かすかに冷えた風が吹き抜ける。
「とおるは、なきむしだね」
少しひび割れたような、細くて高い声がした。
「そんなに、なかなくていいのに」
助手席に、栗色の髪の少女が座っていた。