第8話 海魔襲来
暗い、暗い、海の底。
光の指すはずのない領域に一つの光源があった。それにつられ、魚たちは誘われるように近づいていく。
その刹那のこと。魚たちの姿は掻き消え、重く響く地響きのような音が僅かに海底を揺らした。
光源に穴が空く。それは巨大な瞳であった。
ゆっくりと瞳は上を向き、ある一点で止まった。どうやら、次の獲物を視界に捉えたらしい。
上も上。それこそ海面を突き進む船が一隻。瞳の主はゆっくりとその身を浮上させていく。
腹はまだ空いていた。
「美味い!この辺りの海はいい魚が取れるんだな」
「大陸内だと運搬している間にどうしても鮮度が落ちてしまいますからね。とれたて新鮮な魚は私も初めてです」
船での航海となると、やはり食料の補給手段に海の恵みを利用するのは最もだ。大陸で食料を買い込んだとしても、やはり主食として出されるのはこういった魚介類となるのは必然であったろう。
チーズ焼きやたたきなど、このレストランでは美味い料理が沢山あった。この数年、魔王の肉体にかまけてほぼ飲まず食わずで過ごしていたために料理の味はより一層俺を喜ばせてくれる。
人間ばかりを捕食していたイムさんも、レフさんへの警戒を忘れて大口で頬張っている。気分が良いようでなによりだ……おいやめろ。腕を液状化するな、いっぺんに料理を取り込もうとするな!
「……?スラーさん、急に俯いてどうしたのですか?何やら震えていますし、ただ事ではないようにみえますが」
「なあに、久しぶりの美味しい料理に感動しているだけですよ。だろ?」
低く問いかければスラーは首をかくかく振る。液状化を止めるためにさっきから足を踏んでるのがなかなか効いているみたいだ。
『まさかイムを手懐ける者がおるとはな。あの魔王軍一の問題児が』
レフさんたち人間の前だから、なるべく目立ったり話しかけて欲しくないんだろう。大陸に着いて俺と二人になれば、またいつも通りになるのは必至だ。
『ほう?数年の旅でだいぶイムについて理解が深まったようだな?』
だって、初対面でさえあれほど喋り倒していたイムさんだ。よくよく見ればウズウズしているのがはっきりわかる。
「べべモットさん。この船は娯楽室もあるそうですよ。食事が終わったら一緒にどうですか?」
「ん……ああいや、結構。長旅だったんで早めに休もうかなって思ってます」
「そうですか…少し残念です」
様子を見るに、この船旅を随分と楽しんでいるんだな。初めてと言っていたし仕方ないような気もするが、少し浮き足立ちすぎてるようにも見える。若いなぁ……。
「ご馳走様でした。じゃあスラー、軽く甲板を見て回ったら部屋に戻ろうか」
顔が明るくなったイムさんが頷き、最後の一口を頬張ろうとした……その時だった。
船が大きく揺れた。そして、重さが偏ったように船は片側へと傾いていく。
テーブルや椅子、そして他の客までも床へ倒れ転がるほどの衝撃。俺は足に力を込め踏ん張ると、投げ出されたイムさんを右手でキャッチ。傾きに対抗するため左手の指を床に突き刺した。
レフさんはと見てみれば、いつの間にか出した槍を床に突き刺し堪えている様子だった。流石の反応速度、やはり並大抵の努力ではないようだ。
「ベヘモットさん!スラーさん!ご無事ですか!?」
「俺は大丈夫!スラーもこの通り無事……!?」
右腕で抱き寄せているイムさんに視線を向けると、そこには今までに見た事もない憤怒の顔があった。
「ど、どうしたスラー。ちょっと人に見せられない顔になってるぞ」
「………………はん」
「え?すまん、今なんて……」
「ボクの、ご飯」
さっきまで持っていたフォークが見当たらない。おそらく先程の衝撃で手放してしまったんだろう。最後の一口は哀れ食べられることは無かったと。
「おっと待ち給えよ。言いたいことがあるんだろうボクにはわかるよ。魔王軍No.3でありスライム魔人であるこのボクがそんな食いしん坊キャラのような可愛らしいものであるものかと言いたいんだろうだけどそんなことはわかっている。ボクが可愛らしいかと言われれば可愛いよりも天才とかそういった言葉が理想的であることは否めないし自負しているつもりさ。だが一度だけでもいいから逆に考えてみてくれないか。そんなビッグネームのボクが最後まで残しておいたものだったんだぞ?とてつもなく美味しいに決まってるじゃないか!ここで最高とか一番とか言わないのはまだ一回しか来ていないしまだ食したことのないこのレストランのメニューもたくさんあるのにそういった頂点を豪語するのもいかがなものかと謙虚な姿勢を示しているからというわけであるということを理解してもらおうか。もちろんこの料理もどびっきりに美味しいがね?しかしだ!食べたいのを我慢して食事の最後にとっておいた至福の一口を台無しにされてしまってはさすがの神や仏にさえ称されるほどの寛容と寛大さを持つボクであっても擁護しきれないというか擁護というよりも激おこプンプン丸になる側の立場になってしまうのも仕方がないというかつまり何が言いたいのかというとこの事態を引き起こしたクソ野郎は何処だ今すぐ出て来いボクの最後の楽しみを無に帰しやがってぶっ潰してやるバラバラにしてやるぶっころころころ…………」
ああ、爆発してしまった。度重なり積もりに積もっていたストレスを抑えていたダムが、今回の一件によって決壊しちゃった。
サラッと魔王軍のこととかとんでもないこと言っていた気がするけど、幸いにも今の状況に皆が気を取られ誰も気が付いていないようだ。
レフさんもイムさんが無事であることを確認すると自分の姿勢を安定させるために四苦八苦しているし、イムさんのマシンガントークはおそらく一切聞いていないだろう。
止まらないイムさんの呪詛を間近で聞かされ続けていると、船の傾きが戻った。それと同時に低い重低音が聞こえてくる。
「ッ!ベヘモットさん!外を!」
体勢を立て直した俺たちが外の様子を知るために窓を見てみると、なんとそこには巨大な触手があった。
よく見ればそれはタコ足のようであり、幾本もの足が船に纏わりついている。
その様子を見た船員が、顔を青ざめて叫んだ。
「コイツは……海魔だ!【海魔クラーケン】が出たぞぉっ!!」
窓を突き破り、叫んでいた船員が絡め取られ外へと連れ去られた。それを皮切りに客は悲鳴をあげながら逃げ始め、しかしタコ足はその先端を無数に分け人々を攫っていく。
海魔クラーケン。それは海に疎い俺でも聞いたことがある。神出鬼没の大怪獣。その巨体は山のようで、無数に生えたその触手を自由自在に操り船を沈める船乗りの悪夢。
なるほど、なかなかのネームを持った魔物。俺の配下に相応しいんじゃないか?いや、というよりもペットか。知能というよりも捕食本能で動いているように感じるし。
そうと決まれば早速行動だな。レフさんたちから速やかに離れて海中で決着を……んん?
何やら裾が引っ張られる。どうやらイムさんが俺に物申したいようだ。
「ねぇ、ベヒーモス様。タコって美味しいのだろうか」
え、まさか食うつもりかアレを。いやでもどうせなら仲間にしておきたいし……。
「いいよね」
待ってくれ。待って。怒るのはわかるけどまずは落ち着いて。
「いいよね」
「うん、いいよ」
イムさんには勝てなかったよ…。
「さて……それじゃあボクの実力を、この辺りでベヒーモス様に見せておこうかな。水場でボクにちょっかいをかけたその愚行……その体で償ってもらうよ」
不気味に舌なめずりをするイムさんには、さすがの俺もビビるしかなかった。おいタウロス、こんなイム見たことないとか弱々しく言うんじゃない。声震えてるぞ。