無題Ⅴ
どれくらい前のことだろう。自分は初めてこの人と歩いたとき、この人はきっとこちらのことなんて一切気にせず歩いて行ってしまうひとだろうと思った。が、それが予想に反して歩調を合わせてくれる人だったので驚いたのを覚えている。今も彼女は自分に肩を近く歩いている。
自分たちはTとの待ち合わせ場所に向かっていた。複雑な城の回廊を乏しい電灯の下言葉少なに歩いている。Tは最近転職して城内の郵便配達に勤しんでいる。その業務は忙しく、待ち合わせの約束をすると城内の各地にわたっていることからその行動範囲の広さが窺われた。今日もまた城の西端のとある通りを指定されて慣れない道のりを辿っていた。
Tはこの仕事を気に入っていた。入り組んだ城の奥深く知らない道を辿るのが楽しいという。そして城の地理に明るくなるのが嬉しいという。が、城の一般の感覚でいうと『郵便配達』という仕事は城内で最も難しく敬遠される仕事の一つだ。なぜなら常に増改築を繰り返して変成される城内の地図を覚えるのは一苦労だし、大量の郵便物を限られた時間内にさばかなければならないノルマも厳しいという噂だからだ。何より、悪徳組織の仕切る地域に「配達員」というちゃちな名札のもと踏み込んいかなければならない責任を負った。この危険業務を敬遠する者が多かったのだ。その点について、Tに尋ねたことがある。不安はないのかと。するとTはけろっとして答えた。「この手のおかげかなあ。同族意識があるからあんまり抵抗ない」と。
自分は心底軽薄だなとTを蔑んだが、口には出さなかった。なぜならTの経験には自分の及びもしなところがいくつもあると思っていたからだ。
…Tの経験。それは両親が幼い頃に亡くなっていること、引き取られた親類の元を飛び出して独りこのスラム街に乗り込んで来たこと、今は安定的に自活しているけれど、乗り込んできた当初はうまくはいかなくて、一番の拠り所だった同僚の女の子に騙されて手首に罪人の刺青なんてものを入れられてしまったこと、エトセトラ。
その刺青は今は黒く塗りつぶされていた。しかし当時のTの腹の虫はその箇所を塗りつぶすだけでは治まらなくて、右手の指先から前腕の真ん中辺りまで真っ黒な刺青が入れられていた。これを一目見た者は一様に目を見開き、かつ容赦ない奇異の目をTに向けた。
自分は少なくとも憐れんでこの入れ墨を見ていた。Tが当時得た激情が、その無鉄砲な気質を更に助長して郵便配達という危険業務を気軽にさせているのだろうと考えた。でもそんなものは催眠療法のようなものに違いない。実際の危険が減るわけではないはずだ。自分はときどき無性にTが心配になって仕方ない。しかし、今だTにまともな忠告ができた試しはなかった。むしろ日を経るにつれて彼女に尊い念が湧いていることを自覚し、どっちつかずな己を恥じる一方だった。