正しい悪態のつき方
喧嘩ってのは面白い。
喧嘩の何が面白いって、ぶん殴ったり蹴飛ばしたりするそれ自体よりも、まずその構図が面白い。子供より大人の方が良い。大人同士の喧嘩、これはもう、一つの見世物だ。お互いに何かがひっかかって目くじらを立てる。そこで喧嘩の華、啖呵だ。相手の悪口を歯切れよく言ってやる。『8Mile』と言えばピンとくるだろう。悪態ってのは本来、ああでなくちゃいけない。
正しい悪態に必要な条件は何か。
ブラックラグーンで、かのバラライカが言っている。『命を乞う時のコツは2つ。一つは命を握る者を楽しませること。もう一つはその人間を、納得させるだけの理由を述べることだ』。ちょっと血なまぐさすぎるかもしれないが、これが正しい悪態の条件だ。理由だけ並べて論破しようって腹の奴がいるが、それじゃあ犬の遠吠えと実質何も変わらない。楽しませろ。
この期に及んで、俺のそれは喧嘩じゃない、とか言ってるお利巧さんはいないだろうと考えて次に進む。上で少し「理由」という言葉を使った。しかし、ある程度心得のある書き手や論客ならわかっていると思う。この「理由」というやつは、その巧みさがあれば、どんな形にでも組み立てることができる。AとB、対立する二つの意見があったとしても、スキルがあれば、そのどちらをも支持でき、あるいはコテンパンにぶちのめすロジックを組むことができる。その巧みさを競う頭脳スポーツが弁論やディスカッションというわけだ。
じゃあこのエッセイジャンルで行われていることは何か。
弁論やディスカッションがスポーツと言った。これにはルールがある。つまり、リングの上の戦いだ。察しの良い読者は今ピンと来たはずだ。この「なろう」という大きいんだか小さいのだかわからないサイトの一画で行われる舌戦はさしずめ、赤ちょうちんの並ぶ路地で行われる酔っ払い同士の喧嘩だ。
――だというのに、皆がこう思うとか、皆のために代弁してるとか、そんなことを宣う下手がいる。我こそはと思って出てきた癖に、オーディエンスに頼るようなめそめそしたことしか言えないなんて情けない。お上品なインテリには喧嘩は向いてないよ。宇多田ヒカルじゃないけれど、剣と剣のぶつかる音を聞いて楽しみたいんなら、代弁者か何か知らないけど、そのステージから降りろよ。自分の立場を守りながら自分の剣の良い音に酔いしれたいだけだろ。
「小説を書くな」についても書き添えておこう。
まずその、どこの馬の骨ともわからない奴に「書くな」と言われて書かなくなるような作家、いるのかよ。しかも、作家のモチベーションがポイントや誉め言葉だけだと思ったら大間違いだ。むしろ、抑圧された怒りのような感情が、噴火のように良い作品を生むのではないか。「書くな」はむしろ、作家にとっては「薪」だ。どんどん「薪」はくべろ。
私はこのサイトを「温かい」なんて思ったためしはない。ランキングを見てみろ。タイトルを見てみろ。何千文字っていうわけわからないあらすじを見てみろ。なろう発で書籍化された作品群を見てみろ。その中に、良い作品が一つでもあったか。そういう作品群に埋もれていく悲しみは誰が癒すというのだ。
皆わかっているはずだ。この中の誰か一人が筆を置いたからと言って、誰も気にしはしない。私もそうだ。まだプロでもない私が一人ここで筆を折ったとて、誰も困らないし、それどころか気にも留めない。書きたい人間なんて、いくらでもいるんだから。
カイジの利根川がいい事を言った。『世間はお前らのお母さんではない』。そうだ。わかっているから、主人公が無条件で皆に興味を持たれるような作品群が流行るのだろう。そうならない現実を知っているから。
「なろう」は現実だ。読者は作品世界を楽しめば良いけれど、作者はこの現実を受け止めなければ、良い作品なんて作れるわけがない。一文字も書けない苦痛、自分の表現しようとしている事と世間の求めていることの差から生じる不安――「もう自分には書く資格が無いんじゃないか」という自問を悪夢のように繰り返す日常。それでも、どうしても、己の意地と執念で文字を進めていく。そうじゃないのか。
「書くな」だの「書け」だの、そんな他人の言葉で右往左往するな。大体、作品に対して最も厳しい批評家が自分の中に居なくてどうするのか。「お前もう書くな」って、それは日頃、各々の中にいる批評家が常に自分自身に指摘していることじゃないのか。
薪をくべろ。湿った薪はやめてくれ。『自分にしかわからないことを誰にでもわかるように表現する』――山崎ナオコーラは言っていた。その表現のために、やるんだったら中途半端に濡れた材木じゃなく、最高に良く燃える薪をくべてくれ。