引っ越しの挨拶
そこからは早かった。記事の校正を終え、牧野さんにも画像のデータなど編集をお願いし、校了した記事を本社に投げて、しばらくは支社待機。手が空いたぞ、と思っていると牧野さんからどこに隠していたんだという量の雑務を手伝ってほしいという依頼を受け、すごい勢いでこなしていた。「さすが元総務部のエース」といううれしくない誉め言葉ももらった。
夜は佐山や課長を連れて居酒屋さんちに行ったり、休みの日は豆腐屋さんで豆腐買ったりカフェでコーヒーを飲んだりした。駄菓子屋はなんとなくまだ行っていない。
出版時期が大方決まってきた。本社から伝達を受け、進捗会議には記事を書き終えたライターも出席、ということで移動など費用の関係で俺は本社勤務に戻ることになった。
「あっけないもんだなあ…ま、サラリーマンだし仕様がないか」
そう呟きながら、引っ越しの準備を始めた。
引っ越しの準備はすぐに終わった。男の一人暮らしなんてこんなもんだ。すごく寂しい感じがする。東京からこちらへ来るときはそんなこと思わなかったのに。まあ、「いずれ戻る」という感覚があったからに違いない。なんともいたたまれなくなって、俺は駄菓子屋に向かった。
「駄菓子屋―、いるかー」
駄菓子屋についた俺は一声かけるが、返事はない。
「こんにちわー。いますかー!」
居留守かよ。まったく。しばらくして、駄菓子屋が出てきた。
「なんだあんたか。どうしたの?」
「なんか、元気ないか?」
「別に元気よ。何か用?もうあんたに売る駄菓子はないわよ」
いや、目の前にたくさんあるだろう。売人のセリフかよ。
「実はな。今月末で本社に戻ることになったんだ。引っ越しの挨拶だ」
そういって用意していたビールを1本差しだした。
「そう。それはお疲れ様ね」
駄菓子屋はビールを自然に受け取り、開けた。
「まあ、そうだな。ありがとう。飲もうぜ」
そういって俺もビールを開けて、缶を当てた。何も言わずに駄菓子屋は缶ビールをすごい勢いで飲み干した。
「お、おい。一気飲みはやめなさい」
そういうと
「帰ってほしくない」
ん?何か言ったか?
「西野には帰ってほしくないわ!ずっとここにいなさいよ!」
駄菓子屋よ。うれしい相談だが、俺もサラリーマンなんだ。すまない。
「そうよね。ごめん」
しばらくしてたははと笑いながら
「なんか恥ずかしいわがままを言ってしまったわ。あーはずい。あ?何見てんのよあんた」
いつもの駄菓子屋に戻っていた。
「駄菓子屋。さっき言ってたのは本気か?」
そう聞くと、うっとした表情になった。
「…本気だったら何よ」
「そうか。それなら」
俺は一呼吸おいて
「俺とパートナーになってはくれないか?」
カウンターから勢いよく立ち上がり、一瞬時が止まり
「本当…?」
「本当だとも」
いつも以上に落ち着いて見えるようにふるまった。つもりだ。
「少しだけ待てしまうが、待っててくれるか?」
「ん?どういうことよ」
駄菓子屋が聞く。
「まあ、とにかく待っててくれ」
「よくわからないけど…」
駄菓子屋は今まで見た中でいちばんやさしく微笑んだ。
「わかったわ」
その月、俺は東京へ帰った。