忘れていたことを、思い出す物語
大人の皆さん。こんにちわ。こんばんわ。おはようございます?
あ、いま「うるせーな」と思いましたね?「くっさ」と思いましたね?
皆さん落ち着いてください。
忙しく、責任を抱え、息苦しく生活をしているサラリーマンの皆さん。
たまには思い出しましょう。故郷のことを。昔遊んだあの公園を。あのグラウンドを。
自転車を乗り回したあの道を。
今より高く感じたあのビルを。
この話は、背伸びをしない、ライター希望のサラリーマンの話です。
お願いだから、たまには思い出してください。
身動きの取れない、こんな疲れ切った世の中で。
楽しかった、その時のことを。
大学を卒業して、そこそこの企業に就職して、がむしゃらに働いて、素敵な人と結婚をして、かわいい子供ができて、幸せに生活していた。
という夢から目が覚めた。最悪な目覚めだ。
体を起こすと、見慣れたマンションの一室で、、時間は6時50分だった。今日は何月何日だ?はっ!仕事に遅刻してしまう!
入社して間もなく8年は経とうとしているいつもの会社に、人生で初めて遅刻してしまうかもしれない!まずいぞこりゃ。急げ急げ。
急いで支度を済ませて、自宅を出る。エレベータで下りながら、俺は夢の出来事を反芻していた。大学を卒業して、そこそこの企業に就職をした。ここまではその通りだと自負する。だがそこからは?彼女がいたことももはや久しい。結婚?子供?どこにそんな幸せが転がっているのだろうか。今の仕事のやりがいも薄れてきているし、この生活に、意味はあるのか…?
遅刻ギリギリで出勤した。しかし、会社でももう中堅だし、咎める者もいない。「おはようございまーす。」と平静を装ってデスクに荷物を置く。よかった。始業には間に合った。隣の同僚が「めずらしいな、ぎりぎりなんて」と茶化してくるので「嫌な夢を見てな」と適当に流した。寒い季節だ。今年も終わる。今日はお得意さんにお歳暮を出す手配をする。そのあとは…どこか喫茶店にさぼりにでも行くか。
朝礼で、「今年の忘年会は総務部全体でやりますので、少し人数が多くなります。出欠の返信はメールにて、早めにください。以上です。」そうか、忘年会か。そんな時期だよなー。今年も何事もなく終わったな。
12月も半ば、会社の忘年会が開催された。お酒を飲むのは好きなので、端っこの席で静かに飲む。部長がやってきて「こっちで飲もう」と誘ってくる。「お付き合いします」とそちらの席に移動して、改めて乾杯する。「今年もよくやってくれた」部長が言うので「営業や技術部からすれば、我々は何も生み出していないんですって。そんなこと言われても、どうしようもないですよね」と適当に相槌を打ち「じゃああいつらの給料、計算してやらねー」と笑いが起きる。怖い怖い。
だいぶお酒も入ってくると、「おまえ、総務でやりたいことあるか?」と部長が聞いてきた。ないよ、そんなの。「まあ特段ない…ですけど。なんですか?仕事ぶりに対するお説教ですか?」とふざけて聞くと、「仕事ぶりはむしろほめるところだ。しかし、お前もこの部署に来てもう3年だろう。今までは現場にいたわけだし、そろそろそっちに戻りたいかなって思ってな。」
なんだ?部署異動か?「ただの雑談だ。別にここでの話どうこうではない。」部長はそういうと「西野、お前はもともとライター志望で入社してたよな。今もその情熱は消えていないか?」いつかの遅刻しそうになった時の朝のことを思い出した。情熱か。熱意をもって仕事を、というのは、ずいぶん久しい。「ライターですか。まあまだやりたい気持ちはありますね。」
俺の勤めているこの会社は杉浦堂という出版社である。ライター志望で新卒入社した。いろいろな部署で勉強をさせてもらった。経済部、政治部、芸能部、地方部、書店出版部…どこでも先人たちからよい知識を享受した。今は本社の総務部で何でも屋さんみたいなことをやっているが、確かに現場でものに触れて、文章を起こしたい気持ちはある。
「まあいつか現場に戻ることになるだろうな。俺としてはお前みたいなのが本社にいるのが一番助かるんだが」部長がため息をつくので「そういってもらえるとありがたいっすよ」とつけておいた。
忘年会は縁も酣なところでお開きとなった。人数が多かったため、早めに開けたので各々にグループだれて二次会へと消えていった。俺は友人が近くに来ているというので他の誘いを断り、飲み直しに行くことにした。夜の街に消えるって、なんかいい響きだよね。
そんな夜の街のチェーン居酒屋で、俺は地元からの付き合いの佐山という男と飲んでいた。佐山というやつは、大学を出てからは病院関係の仕事をしている。彼女はいない。仲間だ。
「まあまあ、今年もお疲れさんでした。」
佐山とはこっちでもよく会うから、懐かしさはあまりない。話題もだいたい野球の話か仕事の話くらいだ。今日も「俺、転勤することになったわ」と佐山が言う。そうかー。「系列の病院に異動って感じか?」そう尋ねると、若干浮かない顔になった。「どちゃくそ田舎なんだよね…」とつぶやくので、ついつい爆笑してしまった。俺たちの地元も、大層田舎だ。「地元と変わんねーじゃん。いいじゃん。そんなに都会志向なかっただろう」と聞くと「西日本のほうまで行くんだぜ…」と言った。なるほどそれは遠いな。「どのくらいいるんだ?」「未定だ。何年もいるかもしれない。死ぬまでそこに住まないといけないかもしれない…」そっか。でもそんな落ち込むなよ、まあ飲めよ。独り身なんだし、気楽に行こうやと慰めて、生ビールを追加した。
とはいえ、地元には行事ごとで帰るというし、今いる都会ともアクセスが全くないわけではない。気楽に行けと背中を押すくらい、無責任でもいいだろう。頑張れよ。