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視視累々

作者: ないりんさ

人の目に監視カメラが付けられて半年が経った。


とはいえ、実際にカメラが内蔵されているわけではない。視神経にカフ型の電極アレイが巻きつけられているのだ。それが視神経を通る電気信号を読み取って映像化し、位置情報付きで警察機関に送信されている。


それはSSS(Sight Surveillance System=視界監視システム)と呼ばれていた。





きっと近隣住民は、私を快活なじいさんだと勘違いしていることだろう。努めて愛想よく振る舞っているのだ。そうでなくては甲斐がない。


すこし前までの自分では、考えられないことだった。近所付き合いなんて無益だ。そう思っていた。佐伯夫人に出会うまでは。


私が視線恐怖症を克服し、社交的になれたのは、すべてSSSのおかげだった。





定年退職してからの私は、ネット麻雀漬けの日々を過ごしていた。


古希を眼前に控えてなお、ひきこもりだった昔と、さして変わらぬ生活を送っていたのだ。さすがに自嘲もしたが、外へ出ることに比べれば余程ましな暮らしだった。


社会の変化を知ったのも麻雀のチャットでだった。


yuta> 最近、街が暗くなりましたよね。辛気臭くて嫌になりますよ。


udon>AI監視つっても、プライバシーないようなもんだしな。そりゃ気も滅入るわ。


聞くと、SSSの影響で街が変わっているらしい。引きこもりや精神病患者も増加したという。


patriot> 事件感知時だけしか人間は観れないとか言ってたけど、本当なのかな?


udon> 犯罪減ったっつーのも、人足が減った分だけだったりしてな。


麻雀の進行を滞らせて盛り上がる会話に辟易し、私は退室することにした。


yoneda> 落ちます。


ログアウトしコーヒーを淹れようと席を立ち、豆を切らしていたことを思い出した。


コーヒーと、ついでに数日分の食料を求めて街へ出ると、たしかに人通りが減っていることに気づいた。そして、誰もが下を向いて歩いていた。普段は誰も見ないように歩いていたので、気づかなかったのだ。


人々が顔を伏せているのは、きっと目を合わせるのは失礼だという風潮になっているのだろう。


視界の映像がSSSで監視されている今、人に見られるということは、データを警察に提供されるようなものだ。気分を害されないためにも、マナーとして目を伏せているのだろう。


そう憶測しながら歩いていると、目的地のスーパーに着いた。


買い物を終えると、両手一杯の荷物になっていた。


「すこし買い過ぎたな」そうほくそ笑み、はたと自分の感情に気づいた。


私は今、高揚しているのだ。


いつもはきつく絡みつく、視線という名の重たい鎖がその時は感じられなかった。


その理由も想像がついた。きっと今は私だけでなく誰もが、視線の恐怖を感じているはずだ。その共有から来る安心感。私も完全に視線から解放されたわけではないが、みんながうつむいている分、確実にストレスは和らいでいた。そして何より何十年ものアドバンテージがある。締め付ける鎖の緩め方くらい、ある程度は身につけていたのだ。


自分ひとりが優位な状況。それが私に開放感をもたらしていた。


裂けそうなほど肥大化した自尊心。それを傷つけまいとした過保護さが産みだした、過剰な自意識。そして生来のネガティブ思考と被害妄想。それらがないまぜになり視線恐怖症を引き起こしていた。


奴らの猛攻は凄まじく、際限がなかった。外を歩く度、人目に晒される度に刺激されるのだ。終わるはずがないと思っていた。どこまでも続く雪山を転がり落ちるようだった。


「誰も君のことなんて見てないし、気にしていないよ」


そんな当たり前の甘い慰めで止まれるほど、緩い勾配ではなかった。それがその日、思いがけない形で終わりを迎えたのだ。


私は、えも言われぬ全能感を、腕に広がる鳥肌で味わっていた。





私はうじうじと暗かった過去の自分を捨てるため、家を引っ越した。


前よりボロいアパートだ。みじめに思わないでもないが、仕方ない。年金暮らしの老人に不動産屋は厳しかった。


その隣の一軒家に住んでいたのが、ガーデニングが趣味の佐伯夫人だった。


初めて会った時も、彼女はジョウロを持っていた。


品良く収まった小振りな鼻と少し伏せられたまぶた。透き通るような白い頬に長い睫毛の影が落ち、どこか儚げな翳りを感じさせた。


一目惚れだった。


自宅のベランダから彼女の家の庭が見えるのに気づいた時、私の生活の方針が決まった。





私の一日は、彼女が庭の手入れに出てくるのと同時にはじまる。急いで支度をし、外へ出る。


「今日も寒いですね」


私はベランダから窺っていたことをおくびにも出さず、偶然を装って挨拶する。


「風が強いと余計に寒く感じますよね」


彼女は目も合わせないまま言った。


みんなそうだった。彼女以外の住民とも付き合いを持ったが、主婦たちの井戸端会議でも、誰もが目をそらせたまま話す。私は、見られていないのをいいことに、まじまじと目を、顔を見た。老人の古い習性だと解釈してくれているのか、誰からも咎められることはなかった。実際はほぼ嫌がらせの気持ちでやっていたのだが。人と目を合わせられなかった、昔の自分を見るようで気分がよかったのだ。


ただ、彼女を見る時だけはちがう。陰湿な感情はなく、眼福を得るためだけに眺めるのだった。


彼女はいつものように憂いを帯びた表情で、竹箒で枯れ葉を集めてていた。


「これだけ冷えると、老体にはこたえますよ」


私はそう言って駅へと向かった。


私ももう歳だし、彼女は人妻だ。邪な感情は一切なかった。こうして彼女と他愛ない挨拶を交わし、見つめることが生きる糧になっていたのだ。


駅に着く頃にはいつも8時ごろになっていた。通勤ラッシュの時間だ。


私は駅前のベンチに腰かけ、人並みを眺めていた。みんなうつむきがちに歩いている。明らかに足取りの重い者もいた。


「間もなく1番線に電車がまいります」


アナウンスが聞こえてきたので、私は腰を上げていつもの場所へ歩き出した。


そこからは、ちょうど1番線のプラットホームが見える。背後を若い男が走り抜けていった。


しばらくホームを眺めていると電車がやってきた。乗客を大きく呑み込んで輸送していく。


遅れてホームに若い男が現れた。さっき後ろを通った奴だろう。白い息を荒く吐き出している。無事に乗り遅れたらしい。


「ざまあみろ」


別に彼に恨みはないが、小さく呟いてその場を離れた。


憂鬱そうに出勤する社会人を眺めるのが、外出するようになって新しくできた趣味だ。1年前まで自分もあの中にいたと思うと、余計に痛快だった。


駅を後にしてぶらりと散歩をしていると、歩みの遅い女が前を歩いていた。私は心の中で「邪魔だ」と悪態をつき、颯爽と女を追い抜いた。


以前はこんなことできなかった。


人を抜かして前に出るということは、自ら見られにいくようなものだから。なので追い抜けないまま、後ろを同じスピードで歩いていた。すると今度は「気持ち悪い奴が着いてきてるわ」と思われているのではないか、と考えてしまう。


そうして追い抜けない苛立ちと、不審がられていないかとの不安で板挟みになっていた。


しばらくすると、信号に出くわした。こいつが一番の天敵だった。


横断歩道を渡っている間の、信号待ちの車の視線が怖くて足が竦んだ。さらに私を掻き立てるのは右左折車だった。あいつらは故意に威圧感を与えているとしか思えない。人が渡っているのにジワジワと前進してくる。


「早くどけよ」


そう言う声が聞こえるようだった。


だから私は信号が青になった瞬間にしか渡らなかった。信号が青になった瞬間に渡り始めると、右左折車からプレッシャーをかけられることが少なく済む。ベストな待機位置はもちろん左側だ。


青信号に間に合いそうでも、右左折車がある時は、道を確認するふりや、脇にある店に興味を持ったふりをして赤信号になるのを待っていた。


その徒労感と屈辱をみんなも味わうといい。


立ち方さえ、歩き方さえわからなくなる生きづらさを体感するといい。


人々が暗くなっていくのと反比例して、私は明るくなっていった。





ある朝、玄関のチャイムが鳴った。


電話に続いてもっとも嫌いとする音の一つだった。ドアを開けると二人の警官が立っていた。


「米田さんですね。暴行罪で逮捕します」


事情が飲み込めないまま、示された逮捕状らしきものを見ると、確かに私の名が記されていた。


「何かのまちがいでしょう? 私は暴行なんてしていないですよ」


「視線による暴行です。SSSによって立証が可能になり、新たに加えられました。人の顔をジロジロ除き込むなど、精神的苦痛を与えた場合に適用されます」


思い当たる節がないわけではなかった。だからといって、やすやすと受け入れられるものでもなかった。


「ふざけるな! そんな罪は知らん。私は断じてやっておらんぞ。そもそも昔は人の目を見て話せと——」


かつて、よく怒られた文言を披露しようとしたところを、警官の一人が制した。


「無駄な抵抗はよした方がいい。知らないっていうのもすべてSSSでわかるんだ。案外どこかで目にしているかもわからんよ。もし中吊り広告なんかでちらっと情報が映っていただけでも知っていたことになるんだ。もしそうだったら心証に響くぞ」


憤りを覚えつつも、従うほかなかった。


パトカーに乗せられる直前、庭の手入れをしていた佐伯夫人と目があった。彼女はすぐに目をそらしたが、私はしばらく目を離せなかった。


その表情にはいつも見せる翳りはなく、安心したようなやわらかな微笑。今まで見たどの表情より美しかった。


そして、すべてを悟った。


結局、私は何も見えていなかったのだ。



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