リッチとプア/出会いのエチュード
「ジーザス」
そう呟いて車を走らせる。
「急いでちょうだい。不味いことになってる」
連絡が取れなくなった。
仕事を任せたことをほんの少しだけ後悔し、頭を振るう。
そもそもレディー・プアの狙いは私一人だ。
逆上させる結果を招いたのは私。
だから、不味いことになったと言う。
生きているならなんらかの手段で現状を知らせるはずだ。それをしないと言うことは……。
不安が溢れてくるかのように、汗が額をうっすらと覆う。嫌な汗だ。じっとりとしていて、熱くもないのに引いてはくれない。
起こったことを想像するのは容易くて。
そこに、誰がいるのか、当てることも容易い。
夜の歓楽街は喧騒に溢れているはずなのに、今日だけは何故か、不気味なくらいに静かだ。
しばらくすると、車のエンジン音が不意に沈む。
現場の確認を急ぐ私は窓の外を初めて眺める。
「嘘でしょ……通行止めだなんて……」
目の前には立派――とは言えない――なバリゲードが築かれている。
私はため息をつきたいのを堪えて外に出る。
別に、超えられないとは思っちゃいない。
残念に思うのは、今履いているパンツはお気に入りだと言うことで……つまり。
空を飛んでいく過程でどうしても、下半身の衣類は焼け落ちてしまうだろうということだ。
どれだけ大事にしていても、物は物なのだから。
今は、それよりも優先すべきことがある。
私はあそこの孤児たちに、時間をかけるつもりでいる。
何より高い私の時間をだ。
その時間を無下にするような真似は……誰が相手でも、許すつもりはない。
◆ ◆ ◆ ◆
雨が降ってる。
飛行に支障は無い。
目的地は探すまでもなく、見つかった。
雨の中、煙を上げる、瓦礫の山。
アポロニア孤児院は、焼け跡に変わっていた。
連絡など、取れないわけだ。
どこに爆弾があったのか、それは後で調べればいい。
今は救助を優先すべきで――
「…………そう」
――彼女が。
あらゆる考えを貫いて、網膜を焼くように鮮烈な景色がそこにあった。
ずぶ濡れになるのも厭わずに、瓦礫の山を漁るようにして、必死に「何か」を探す少女の姿。
その背中は大きくて、力強いのだろう。だけど吹けば崩れるように脆く、霞んで見えるほどに儚い。
少女はしきりに誰かの名前を呟く。
返事をしてくれと叫ぶ。
風に吹かれて崩れる瓦礫があれば、そこへ向かって退けてやる。
焼けた木材や、砕けたコンクリートがなくなるまで。
そして、深い絶望を心に刻んで、次の望みに賭ける。
もうどれだけの時間続けているのだろう。汚れ切った手を見ると、随分長い間そうしていることは明白だ。
私はただ、黙ってそれを見ていた。
何もせず、ただ見ていた。
汚れていて、愚かで。絶望しか見えないような時間を費やすその姿を。
私は何故だか美しいと思った。
「母さん」
少女は叫んだ。
震える声で、力無く、それでも叫んだ。
声は響かず、少女の胸元へと落ちる。
探すためではなく――悲しみによる叫びだと気付くのに、そう時間はかからなかった。
抱かれていたのは黒い――大人ほどもある――
嗚咽が聞こえ、しばし続いた。
止んだかと思うと、少女は天を仰ぎみる。
傷んだ髪が風に揺れ、煤だらけの誰かを抱えたまま。
少女は叫んだ。
それを鮮やかに覚えている。
その冷たさを。
その光景を。
その咆哮を。
その雫を。
その心を。
その傷を。
私はあの日から、忘れることが出来ないでいる。
◆ ◆ ◆ ◆
雨が、降ってる。
火を消すかのようにして雨が。
天を仰いで初めて気付いた。
私は母を抱き抱える。
いつかの思い出が。いつかの思い出が。いつかの思い出が。
私の心を焼いていく。
雨はそれを消してくれない。
雨はそれを鎮めてくれない。
雨は私を、助けてくれない。
叫びが孕んだ感情は、怒りとは言えず、悲しみともつかない。
憎い。
私自身が。
ミセス・リッチが。
この家を守れなかった私が憎い。
この家の人々を助けなかったリッチが憎い。
助けたと思っていたんだ。私が作った孤児たちを、私の手で救ったと。たとえ手足を失った子供であろうと、私が養えばいいと思っていたんだ。
疑わなかった。いつかあの子達に義肢を提供するために、人を傷つけることを。
ミセス・リッチ。
お前の役目は、欠損を補うことだろう。
失った子供たちに、自由を与えることだろう。
前へ歩む足を。夢を掴む掌を。
与えることがお前の仕事だろう。
それがお前というヒーローのはずだ。
私は悪でいい。リッチにそれが出来るというなら、私はただの害悪で良いのに。
余計な事は何もせず、私は悪魔でいられたのに。この惨状はなんだ。お前はこれを見ているか。逃げ遅れた人々の、はるか昔に失った手足は、お前の瞳に映っているのか?
ミセス・リッチ。
金の亡者。
私はお前を許さない。
◆ ◆ ◆ ◆
『本気ですか?』
「ええ。私が冗談を言ったことがある?」
『貴方は冗談がお好きという統計が出ています』
「まったく……前の話し相手はもっと愛嬌があったわ」
書類を整理しながら、私はAIと話す。
あれから――あの雨の日から数ヶ月が経った。
「とにかく、会社は手放す。これはもう決めたことよ。人生何回分稼いだと思ってるの」
ハンコをしまい、背伸びをする。
「引越しもするつもりよ。これからは、他人の力は借りず、自分の手で、自分のやり方でやるの」
惜しくはない。あのまま続けたところで、きっともう、兵器の開発は止まらないだろう。後暗い組織と絡んでいたようだし、最早興味もなかった。
私はあそこにいない方がいい。
それに、もう疲れてしまった。人から恨まれるのも、身内を危険に晒すことも。私はもう少し強い人間だと思っていたけれど、あの夜のことを思い出すと今でも背筋に怖気が走る。
「危ない目に遭うのは、私がそういう場所にいるからよ。誰も付き合う必要は無い。私がそれを望まない限りね 」
『貴方は常に仲間を求めているのでは?』
「あら、中々いいジョークね。でも残念、私が求めているのは仲間じゃないわ」
さて、やることはもう残り少ない。今日中に片付けてしまおう。
「私が欲しいのは時間よ。それも今日には手に入る。あとは、そうね……」
携帯端末を取り出して、業者に連絡する。この家も売り払ってしまおう。
「私の生き方を、誰かに教えてみたいと思う」
やることは決まっていないけれど、それでもいい。いつだった自分で決めてきた。昔の自分にはもう戻れないことは知っているし分かっている。だけど、退屈な人々と話を合わせるのも、書類と向き合ってばかりの日々も、今日で終わりだ。
そう、また新しく始めよう。私のやりたいことだけを。
「あの日のあの子に。いつか会えるなら、私のことを知って欲しいと願ってる」