リッチとプア/絶望の遁走曲
ズレた眼鏡を直すふりをして、カメラの方向を調節する。
久方ぶりに孤児院へ帰った私に与えられたのは、その中でリッチを殺すという任務。
そして、眼鏡に組み込んだ小型カメラで施設を撮影することだ。
そう、この任務は目の前に、ミセス・リッチが現れることを前提としていたのだが――。
「……例の方が見当たりませんが」
「ああ、いえ、お気になさらず。ミセス・リッチは多忙だ。急な会議が入りましてね。我々が視察に同行いたしますよ。本日はよろしくお願いします。あー――」
「私のことは単に『レディ』と」
「かしこまりました、レディ。では、案内していただけるかな?」
――予定が狂った。
話が違う。
ここにリッチはいない。
いるのはこの、スーツを着たいけ好かない男だけ。
武器の類はほとんど持ち込めず、今手元に残ったのは仕込みのナイフだけ。これではあまりに心許ない――
「しかし、僥倖と言わざるを得ませんな。組織の方々と、我々の目的は奇しくも一致している。邪魔者は早急に排除できることでしょう」
作業に向かう従業員達を一瞥し、変わり果てた孤児院を眺める。
あちこちにガタが来ていたかつての施設は見る影もない。子供たちは今日も安心して眠っていることだろう。
「戦争孤児の受け入れを広げたことでチャンスが回ってきました。組織を動かしてくれたおかげです。レディ、貴方を含めた傭兵たちは実に良い仕事をしてくれましたよ」
「そうですか……」
同時に違和感も覚えた。
私が、いや、私たちが闘うことで傷付く子供たちが増えたことは確かだ。
身元を失った子供は、私が裏から手を回して秘密裏にアポロニア孤児院で受け入れた。
それは事実。
だがそれは、組織にも教えていなかったことだ。
ボスが知っているのは譲歩しよう。
だが、組織によって増えた孤児を、ここで受け入れていることを――この男はどうして知っている? どこで知った? 一度生まれた猜疑心は目を見張る速度で育っていく。
「それにしても、今日という日に感謝しなければ。いやはや、本当に苦労しましたよ。場を整えることにここまで時間を要するとは思いもしなかった」
整頓された倉庫に辿り着く。
中まで入る必要はないと思っていた。
だが、男の行動が、猜疑心を確信に変えると共に――
「どうぞご覧になってください。新たに増設した兵器開発局です」
――そこが隠された場所であることを証明した。
「………………聞いた話ですと兵器開発はしない方針だと」
「失礼、カメラを拝借します」
「開発した義肢は孤児に宛てがうと聞いています、しかしこれでは」
「データを送りますのでご確認を」
「……戦争で親を失った子供たちを兵士にするつもりですか」
「今後ともご贔屓にお願いしますよ」
話が通じない。不意に伸びた手は、動揺した私から眼鏡――そこに内蔵されたカメラ――を奪う。
「兵隊は後日お送りしますので。ご要望があれば更に増設しましょう。なに、資本は潤沢だ。ミセスの目を盗むなど、他愛ないことです」
この男は信用できない。
いや、違う。
組織そのものに対してだ。
私を支えてきた信頼が揺らいでしまう。
疑問が渦を巻き、不信が波を産む。
「性能はお墨付きですよ」
「確かめたいことが」
「ああ……テストはそちらで行っていただきたい。流石にそこまではお見せできない。こちらにも企業秘密はありますからな」
「いえ、そういうことではなく」
「はぁ、その点はご心配なく。彼らに『人間として』の常識は教えておりませんので」
さっきから、妙だ。
私に話しかけていない。
目が合わず、会話も成り立たない。こいつは一体誰と話して――
「……いや、そんなの分かり切ってるか」
一人でに納得する。
なんとなく察しは着いてしまった。
私が助けたと思った子供たちは、結局ここで利用されていた。
それだけのこと。
性能試験だとか、名目はなんでもいい。
この男は、孤児達を。
否。
欠損を抱えた者を、人間として見ていない。
だから兵隊にできるし、心も痛まない。
良心など微塵も痛まないだろう。だって、その範疇に、子供たちはいないのだから。
この場にリッチはいないけど、こんな男を野放しに飼っているあの女が憎たらしかった。
深く息を吸って。
少しだけ止めて。
動きそうになった足を止める。
沸々煮える腸を抑えると、ふと、血に塗れた手を見た。
私は随分穢れている。
この手はきっと、無垢な子供たちには相応しくない。
二年前のあの日、すでに知っていたことだ。
私はもう戻れない。
だからせめてもの。
せめて、私が壊した居場所を、ここにもう一度求めたかった。
それだけだ。
それだけのことがなぜいけない。ささやかな祈りの何がいけない。子供たちの明るい未来を祈ることの、一体何が、それほど罪深いと言うのか。
私には分からない――ああ、いや。違うな。
一つだけはっきり分かることがある。
ミセス・リッチ。
「私は貴方を許さない」
深呼吸してみると、世界は静かだ。
踏み出した一歩は音もなく、驚く程に軽い。
全てを捨ててしまうことは簡単だった。
嗚呼……簡単だ。拍子抜けと思えるくらい。
突き立てたナイフは抵抗もなく肋骨の隙間を抜けていく。
しんとして深く、重い空気の中、男は信じられない者を見る目で私を、それからナイフを見る。
「動かない方がいい。それだけ苦しむことになる」
滑るようにして肺を切り裂いた刃は、粘り気のある赤を湛える。
忠告を無視して動き出したその男を見下ろすと、私は初めて、自分の方が頭一つは上背があることに気付き。
そいつはどうやら、初めて私の感情を知ったようだった。
「な――? これ、は……」
「苦しいだろう、今楽にしてやる」
「ふっ……ぅ、な、ぜ……」
「御託は聞きたくない」
もう一歩。
凍るような低い足音に、背を向けて。這いずるように逃げる男を情けないと思った。
当然の報いだ。
自分の立場に胡座をかいて、あまつさえ子供たちを利用した屑には誂向きだ。
恐怖と不安。疑いと確信。
渦巻く瞳は、私に納得を求める。
「気付かなかったのか? お前はもう用済みだ。ミセス・リッチがこの場にいないのなら、私にとっては好都合。何があったとしても、この施設を手に入れる……それが組織の考えなんだから」
そう、組織の考え。
私ではなく、組織の。
「哀れなもんだ。私もお前も、結局一つの歯車でしかない」
こいつはきっと、自分が歯車を動かすのだと思っているのだろう。
間違ってはいない。ただ、自分も同じ存在だということを忘れてしまっただけで。
私はそこから、歯車のまま、出ていこうとしているだけで。
刻一刻と近付いてくる死の足音に、男は真っ青になって何かを叫ぶ。
叫んで、這いずり、何かを探す。
もうどうでもいい。
全部壊してやる。
変わってしまった私の居場所。私の故郷。温かな家。
家族はもう、決して戻ってこないのだから。