「レディー・プア」其の二
梯子もなしに登る。
不自由もなくするりと抜けた屋根の上で夜風に吹かれ、ふと空を見上げた。
曇って月も見えない空。
こんな時間でも喧しく輝く街の灯り。
この街は眠らない。
忙しなく行き交う人の波は途切れることは無く、また、私達の住む方へ足を向けることも無い。
訪れる人々は、そこに住まう人間のことなど毛程も知らない。興味すらない。どうやって欲望を満たすのか、それしか頭にないのだから。
霞む目を擦りながら、這うようにしてランタンで屋根を照らした。
こんな真夜中だ、修理は朝か夕方になるだろう。余裕が無いから業者に頼むことは出来ないし、私がやると声を挙げた仕事だ。
目を擦る。
疲れているのか、薄ぼんやりとした灯りは強烈な眠気を誘う。
喧騒は遠いけど、その足取りはなんだか近い。揺れている気がする。
眠い。意識が暗くなっていくのを堪える。
恐らくここだろうという場所を見つけ、ランタンを近付けて損傷を確かめる。
写真を撮って――母さんに買い出しを頼んで――なるだけ早く直そう――暗いな、ランタンを――
「あっ」
屋根の上を光が滑る。
ランタンが屋根を、下へ下へと駆けていく。
まずい、私が持っているのはあれ一つだけ。
壊す訳には。
光源を追う。
老朽化した屋根はその拍子に瓦を滑らせて――
「あ、あ、ああああ――」
私はなんとも間抜けな声を上げて、地面に強く打ち付けられた。
◆ ◇ ◆ ◇
ここ、どこだろう。
ぼんやりとした意識で上体を起こすと、意図せずに「ぐっ」と短く声が出た。
鋭い痛みに意識が飛び上がる。
ゆっくり辺りを見渡す。どうやら点滴が繋がれている。簡素な置き物。高そうな機械。清潔なベッド。仕切りのカーテン。近くに置かれた――ナースコール。
押す。
飛んできたナースは悲鳴のような声を出し、私の痛む体を診察室まで引っ張って行った。
「はぁ、一ヶ月……」
「ええ、怪我の方はそれほど重くはなく……いや、それもおかしな話ですけど……とにかく、疲労……というのが主な原因です。この際はっきり言いますが、休んでください」
「母は何か言ってましたか?」
「え……ああ、あの方ですか。しっかり休ませてあげてと」
「お母さんが」
「はい」
腕にヒビ、強い打撲。
怪我らしい怪我はその程度で、治ってきたタイミングで私は目を覚ましたらしい。
ずっと眠っていたのは、私が、その……疲れているからで。
「正直、信じられませんよ。貴方まだ十六でしょう。働きすぎです」
「いや、そんな……」あ、そういえば。「……入院費は」
「その辺は追ってお話します。とにかく、二週間、病院で安静にしていてください」
話すことが無くなったようで、私はそそくさと外に出る。
「はぁ」
財布、無いのか。連絡しようにも、端末すら持っていない。
誰かが来ているかもしれないし、病室へと足を向ける。
母さんには悪いことをした。まさか一ヶ月以上も孤児院に顔を出せないことになるとは。
子供たちはしっかり元気にしているだろうか。ご飯は食べられているのか。不安は募る。
というか、そもそも仕事だ。なんの脈絡も無しに倒れたのは私だし、迷惑がかかっているのは火を見るよりも明らかだ。不幸なことになっていなければいいが――
「……噂をすれば」
――病室の前には、見知った小太りの男がいた。
「それで、お話というのは」
「ああ、や、や、大したことじゃあないんだけどね。何か飲むかい?」
「コーヒーを」
勤務先の社長だ。
特殊清掃専門の会社、と言えば聞こえはいいが、要は死体処理を専門に行っている企業だ。
給料も良く、人手不足ということもあり、私を体良くこき使う社長は、何やら妙に親切で。
私に飲料の入った缶を手渡して、向かいに座る。
給料を手渡されるその時より、なぜか、遥かに離れて感じるのはどうしてだろう。
「うーん……いや、本当に大したことじゃあないんだよ。当然のことと言うかねぇ」
嫌な予感がする。
「前、言ってたでしょ。親戚の子のこと」
「待ってください」
「その子が急遽来れるようになってね。で、君が育てた後輩がきっちり育ててくれるから、そろそろ特殊清掃から足洗って、普通の掃除屋になろうかなって」
「待って」
「だから……その…………ねぇ?」
缶を開けて、温かいそれを握りしめる。
暑くもないのに、なんだこの汗は。
「……シュインド・アポロニア君。君は退職してもらうということで」
「ふざけるな!!」
荒い語気に、周囲が俄にザワつく。
それが私の中に入り込んでくるようで、言い様のない怒りと不安が心を侵す。
「そんな……そんなことがあっていいんですか! 私は、これまで、私が」
「うん、ただ追い払いたいってわけじゃないよ。というか、むしろそれは本題じゃなくってね」
男はバツが悪そうに懐を探る。
「ここに電話して。次の勤務先に紹介しておいたから。あと……これ、退職金だから。それじゃあ」
私に手渡されたのは、分厚い封筒一つだけ。
「……お世話になりました」
奥歯を噛み締め、苦々しく言葉を吐く。
「うん。今までありがとうね」
社長は安堵した顔をして、そそくさとその場を去っていった。
コーヒーを啜る。
苦い。
なんと苦い。
吐きそうなほど苦い。
病室に戻ってからこっそり封筒を開けると、一ヶ月分の給料と、一枚の、黒い名刺が入っていた。
◆ ◇ ◆ ◇
「退院おめでとう、シュインド」
「うん……ありがとう、お母さん」
「ちゃんと帰ってくるんだよ」
「………………ん」
おそらく、二度とは帰れない。
数日が過ぎたその後だ。
私は退院を言い渡され、車を待たせていた。
病院の入口で、母さんと目を合わせることも出来ず。俯いてはいけないと言い聞かせても、その罪悪感は消せない。
「稼いで、稼いで、皆が楽して過ごせるようにするからね」
「シュインド……そんなに、気負わなくても」
「決めたから。私、もう」決めたんだ。
私は戦う。
人を殺すために。
理由なんてない。それが金になるからだ。
「今までありがとう」
これ以上、交わす言葉は無いだろう。
私が受け取ったあの名刺は、とある組織への連絡先を記したものだった。
どうやったか分からないが、その日の内に組織の人間が私のところにやって来て、これまた信じられないことに、私の体を治してしまった。
私は晴れて退院し――暗殺者として生きることになるだろう。
「シュインド、あんたは自慢の娘だよ。だから……」
「…………さよなら」
車へと駆け出す。
顔を見られたくなかった。この姿も背中も。
私の足音すら、知られたくなかったから。
さようなら、私の帰る場所。
元気でいて。私が居たかった場所。
◆ ◇ ◆ ◇
「いやぁ、君は優秀だよコードネーム・レディ」
「……ありがとうございます」
「本当に助かっている。異例の出世だ」
心が荒んでしまったのか、褒められても少しも嬉しくない。
「次の作戦はいつですか」
「10時間後。君は単独で出てもらうよ」
「ターゲットの名は」
「幹部に昇進したというのに、ちっとも感傷というものがないねぇ……」
あれからどれだけの時間が経ったろうか。
記憶が正しければ、私は少し前に、十八になったはず。
「まぁ、いい。今回のターゲットというのは……この女だ」
そう言って、私の前に一枚の写真。
整った顔つきの――育ちの良さそうな女。
彼女のことを、私は朧気に知っていた。
「世間は彼女をこう呼ぶ――」
「ミセス・リッチ」
「おや? 知っているとは意外だね。君はターゲットを知らされてから調べるタイプだったはずだが」
この世のどこに、事前にターゲットを決められる暗殺者がいるんだ。私は強盗ではないし、シリアルキラーでもない。
「知っていますとも。戦争孤児に高値で義肢を売りつける、悪どい――」
写真を手に持って。
「――金持ちの女」
ナイフで机に突き刺す。
「そう、そう! その彼女がだね! なんと孤児院を買い取ったそうなんだよ! そこで子供に仕事を与えるとかなんとか言って、実験場を作っているそうでねぇ……」
その顔を見ていると、なんだか無性に腹が立った。
「孤児院の名は?」
「聞いて驚きたまえ、その名もアポロニア孤児院さ」
「……出来すぎた冗談だ」
「なに、冗談と取ってくれても構わないさ。しかしまさか、断るなんて言わないよね?」
この女が、私の帰る場所を、子供たちの未来を奪おうと言うのなら。
その金にしか興味のない脳ミソを、ぶちまけてやれるなら。
「シュインド・アポロニア君。君の働きに期待しているよ」
「了解しました。必ずや、仕留めて見せましょう」
迷う必要などはない。
金の亡者。
待っていろ。その息の根を止めてやる。
眠いンゴ