「レディー・プア」其の一
私は語るべき過去を持たない。
振り返ることにはなんの価値もないけれど、未来を見つめることには価値がある。
これが、未来に繋がるとは思えないけど。
遺体の転がった部屋を見つめても心は揺れない。冷めた目で見渡して、清掃を始める。
輝かしい未来があるとして、私はきっと無縁の生を受けたんだろう。
だって、それは子供たちに与えるべきものだから。
お金が必要だった。
皆を支えるためにも、未来を与える為にも。自分のためではなく他人のために。育った場所を守る為にも。
お金。仕事。お金。仕事。お金、お金、金金金金金――
今のまま、が、いつまで続くのだろう。このままではいけないと分かっているけど、この安寧を崩すことは出来ない。このまま、もっともっとお金がいる。もっと未来を広げるためには。もっと仕事が。より多くの金を得るために。
お金が無い、時間が無い、血の繋がりも無い、無い、無い、無いものばかりだ。
無いものを手に入れても、今度はそれが足りないことに気付く。
足りない。時間も金も。
孤児院を支えるためにはもっと必要だ。
何もかもが、足りない。
私は頭を悩ませる。
人は私を欲張りと言う。
その通りだろう。
私は欲を張っている。足りない足りないと言いながら、他人の仕事を奪っているのだから。職を転々としながら、羽振りのいい方へ走っていく私を、人々はどう思うのだろうか。
「はいお疲れ様。これ今月分ね」
「ありがとうございます。…………はい、ありがとうございます」
月を経るごとに薄くなっていく封筒を受け取って、それでも私は感謝を述べた。
あとでバイト先にも顔を出さないといけないから、ここで文句を言って時間を食う訳にもいかない。
困窮しているのはどこも同じだ。目の前の、肥えた男を見ながらそう言い聞かせる。
「じゃあ私はこれで。来月もお願いします」
足りない。
頭の中で呪詛が蔓延っていく。
もっとお金が欲しい。
病のように、その言葉が私を蝕む。
「来月ね……」
「……何か?」
「いや、ね。親戚の子がね。うちに来たいって言っててさ。悪いんだけど、教育係お願いできるかな」
「すでに三人、私の方で教えてますけど」
「うーん。そうは言っても、君んとこの孤児院から来てる子でしょ。正直、そっちの身内で固められると厳しいんだよねぇ」
反論のしようもない言葉に少し怯む。
私にとって仕方の無いことでも、相手にとっては……。
「だからさ、この際、教育係、最後にしてもらうから」
都合の悪いことだ。そうなれば他の社員と待遇は変わらず、更に薄給へと追いやられる。
この社長は、私がそれを恐れることを知っている。
だが、その申し出に異議を唱えることも出来ない。
「分かりました。ではその話で通してください。反論はありませんから」
そろそろ、新しい仕事を探す時期が来たか。
◆ ◇ ◆ ◇
「おねーちゃん! おかえり!」
「ああ、ただいま。いい子にしてた?」
「ねーちゃん! ねーちゃん! おれ今日ピーマン残さず食ったんだ!」
「うんうん。偉いね。人参は食べれたのか?」
「おねえちゃん……えほん読んで……」
「分かった。ほらこっちに座って」
痩せた子供たちに、辛い顔は見せないよう相手をする。
自分の疲れくらいなんだ。そう思えてしまう。
どれだけ貧しくとも、私にとって……ここが帰る場所だ。
アポロニア孤児院。
私の育った施設。
この古びた大きな家を、私はどこか寂しげに感じながら、直すことも出来ないでいる自分自身に、どこか不甲斐なさを覚えていた。
子供たちに物語を読み聞かせながら、ぼんやりと、今月の給料のやりくりを考える。
私の手元には残らないだろう。贅沢をするつもりもないから、何も問題はない。
懸念すべきは、恐らくまた赤を出すだろうこと。働きに出ているもののことを考えても、どうしようもない。
せめて、もっと違う職に手を出せればいいのだが。
思い詰めるだけだとため息を零しそうになった。
「そろそろ、寝る時間だね。みんなお布団敷いて」
「今日はおねーちゃんと寝るのー」
「ワガママ言わないで。ほら、今日はあのぬいぐるみ、持ってていいから」
「うん…………」
「どうしたの?」
「ううん、なんでもないよ、おねーちゃん」
何か言いたげな顔だけど、私はその子の髪を指で梳き、笑顔を向けた。
「私、院長と話してくるからね。いい子にして寝るんだよ」
きっと、新しいぬいぐるみが欲しいんだろう。
叶えてあげられなくて、ごめん。
だから私は、もっと稼がなくては。
窓の外がすっかり夜になったのを、どこか悲しい気持ちで見ていた。
「それで、シュインド。あんたの言いたいことは分かってるよ」
「……別の働き口を見つける。出来るなら兼業したいと思ってるけど」
子供たちが寝静まったのを確認してからは、大人の話をする時間だ。
「何もそこまで働かなくたっていいんだよ? あんただって、羽を伸ばしたいだろうに」
「そんなの……どうでもいいよ。あの子達全員が、せめて学校に行けて、不自由無く暮らせるようにしたいんだ」
帳簿を見つめると、部屋に陰気なものが満ちていく。
やはり足りない。
「シュインド・アポロニア」
「どうしたの母さん。急に名前なんて呼んで」
「いんや……今年で十六になるのかってね」
歳がどうかしたのか。
ああ、そういうことか。
「悪いんだけど、お水はもうしばらく待って欲しいな。この歳でやって、皆でお縄になるのは困るでしょ」
「そういうことじゃない……」
母は呆れたようにため息をつく。
「普通だったら、あんたは制服着て学校行ってていいんだよ。それこそ男作ったりしてね……何も、特殊清掃なんてやんなくても」
「私が好きでやってることだから。お母さんに迷惑はかけたくない」
「実際助かってるから何も言えないねぇ」
「それに、いいの。私が学校行かなくたって、他の子が行ければ」
第一、死体臭い女の相手をする男なんて気が知れない。狂ってるんじゃないかと思う。
「すまないねぇ……服の一着だって買ってやれない」
「この服気に入ってるからいいの」
電卓を叩きながら、軽く流す。
こうなるとお母さんは長い。
きっと、自分の過去と比べてしまうのだろう。
でも、私はこの施設が好きだ。ここでの暮らしをもっと良くしたい。そのためなら、なんだって。
私はなんだってやるだろう。
「あ……もうこんな時間か」
「おや、随分引き止めちゃったね。明日もあるだろうに」
「いいの。ほら、書類片付けといたから。お母さんはしっかり休んでね」
「ありがとうねぇ。シュインドもしっかり寝るんだよ」
「あー、ごめん。屋根の雨漏りだけ見て寝るよ」
「雨漏りって……外は真っ暗じゃないか。ハシゴだってかけられやしないよ」
「大丈夫。夜目効くし」
そこは、ほら。
「私、バランスはすごいって知ってるでしょ」