初まりの夜
引き金に力が篭った。
あと数ミリでも動かせば撃ち抜ける。
それが余裕となったのか、私の指は止まる。
リッチは背中を向けたまま、ゆっくりと月を見上げる。
「仲秋の名月って言うのよ。貴方、月を楽しむ時間もないのでしょう? ならせめて、今日くらいはそれくらい、自分に許してあげてもいいんじゃなくて?」
自分は殺せる。
分かっている。
苛立ちで照準を狂わせては行けない。
「ああ、背中を向けたままなのは失礼ね。でもごめんなさい。もう少しで手紙が出来るから、それまで待ってちょうだい?」
この薄暗がりで、何を書くと言うのだろう。
声にすらしなかった戸惑いに、リッチははっきりと返す。
「あとは宛名だけ。自分のことなんて、よく見えなくてもちゃんと書けるわ」
背中を向けたまま、何かを書いているのが分かる。
それほどに、書斎は、屋敷は静かだった。
響くのは、シンとした静寂の中に走る、何かを綴る音だけ。
それが止まると、合図だったのかと思うほどのタイミングで鈴虫の声が聞こえる。
「本当に、ごめんなさいね。もっとちゃんとお迎えしたかったのだけど。貴方のことを聞いて、皆怯えたものだから。避難させてしまったの」
道理で。
独りごちる。
屋敷に罠の類はなく、また、護衛の類も居なかった。
簡単なことだ、ここに戦える人間は、リッチただ一人だと言うこと。
彼女はそれに、なんの不満も、不安も覚えない。
「こちらも、あとは引き金を引くだけです。それで貴方を殺せる」
「まぁ! それはとっても恐ろしいことだわ。貴方のお顔も知らずに死ぬなんて! なんて恐ろしいんでしょう?」
なら。
「こちらを向け、ミセス。その平和ボケした脳ミソをぶちまけてやる」
限界だった。
抑えが効かない。今にも鉛玉を吐き出してしまいたかった。
だけど、彼女をこうして、近くで見るのは初めてのことだ。だから不思議なことだけど、私は彼女をよく見てみたかった。
カタリと、筆を置く音。
キィと、椅子が回った。
「初めまして、レディー・プア」
「初めまして、ミセス・リッチ」
名乗るだけ名乗ってみると、どうやらリッチは可笑しく思ったらしい。
上品に笑う。
「不思議。貴方のことはよく知っているのにね。こうして会うのは初めてだなんて」
その仕草に、一々怒りは感じなかった。
否、彼女を前にしてからずっと、私は独りでに苛立っている。なぜなのかは分からないけれど、私はリッチの何かにではなく、自分の何かに苛立っているのだろう。
ミセス・リッチは不思議な少女だ。
「確かに不思議ですよ、ミセス。貴方を目の敵にしてきたのに。辿り着くまで随分かかった」
「それは、長い旅路だったでしょう? 咎めたりはしないから、ゆっくり休んでちょうだい?」
「出来ません。貴方が目の前にいるのに」
ミセスは、その落ち着いた瞳で私を見た。
巫山戯た様子はどこにもなかった。
「知っている? 一流の狩人は、獲物を前に一度撃つのをやめるのよ」
「私が二流だと?」
「そうは言わないけれど。でも、貴方はどこか、焦っているわ」
机の上で指を組む。
「焦ったってどうにもならないことばかりよ」
「焦らなければどうにも出来ないこともあります」
リッチは悲しそうに笑った。
「どうしてそんなに焦っているの?」
平坦を装った声は憂いを帯びていて、酷く震えていたように思う。
「貴方を止める人なんてもういないわ。どこにもね。焦らなくったっていいのよ」
「だったら!」引き金に力を込める。「だったら、今ここで……!」
憎しみを込めて、リッチを見つめる。
なぜだか分からないけれど、涙が溢れそうだった。
荒く息を吐く私に、リッチは。
「貴方には出来ない」
なんて、呟く。
「出来っこないわ。貴方はレディーだもの。貴方はレディー・プアだものね。貴方に私は撃てないでしょう?」
その言葉に、私は堪えきれなくなった。
「うるさいっ」
暗がりを劈く銃撃音。
私はハッとして、目を閉じてしまったことを知る。
ゆっくりと、ゆっくりと目を開け。
「ほら、手が震えた」
リッチは涼しい顔をして、変わらず指を組んだまま。
苦しいと思った。
どこも悪くないし、傷の一つだってない。
なのに、とても息苦しい。
分からない。どうして目を閉じてしまったのか、どうして手が震えたのか、どうしてこんなに苦しいのか。
「つらいでしょう。きっと苦しいと思うわ。どうしていいのか分からないのね。待ちに待ったはずなのに、これから先が怖いのでしょう」
ギョッとして、思わず銃を構えてしまう。
見抜かれたこと――少なくとも、見抜かれたことには非常に驚いた――よりも、その悲しそうな笑顔……笑っているはずなのに、泣きだしそうな表情に……私は驚いた。
「怖いのなら、やめにしたっていい。私はどこにも逃げないから。降りることが出来ないなら、私を殺すのに時間がかかったことにすればいいの。だから、レディー?」
組んでいた指を解いて。
彼女はそっと、機械仕掛けの右手を差し出した。
「私の傍に居なさい。知りたいのなら」
何の音もしない――機械の右手。
私は思わず後ずさった。
きっと顔を青くしたのだろう。この暗がりの中、些細な顔色まで伺えたのかは分からない。
でも、ミセスは全てを見ているように思えた。
「あら……驚かせてしまった? これも、ごめんなさいね。お仕事柄、仕方なくって。でも安心して。武装は全て外してあるから」
武装。武装と言った。武器があると。普段は武器を付けていると、彼女は言った。
くらりとする。
信じられない。武器を持たない彼女がではない。私を誘う彼女がではない。
過剰なくらいに武装した、今の自分が信じられなくなってしまう。
拳銃を構え、ナイフを提げ、服の内側には爆弾を帯び。
そうでもしないとミセスの前に立てない自分が――恥ずかしいとさえ思った。
彼女は、分かっていたのだろうか? 私が最初の一発を外すと。済んでしまえばこうなると、彼女は果たして、知っていたのか?
分からない。どうしてこんなに動揺する。どうしてこんなに息苦しい。どうしてこんなに。
どうしてここまで来て、彼女を羨ましいなんて思わなきゃならない。
「私は貴方が嫌いだ、ミセス・リッチ。その憎たらしい笑顔が気に食わない。舐めた態度に腹が立つ。同じ空気を吸っていると思うと怖気が走るよ」
「あら! 私は貴方が大好きよ、レディー・プア? その凛とした表情が愛しい。生真面目な性格が好きなの。同じ時間をいつまでも一緒にいたいと思えるほどよ」
「やめろ!」
もう一度、引き金に指をかける。
「私と貴方の、何が違う? やっていることは同じだ。なのに――」
続く言葉は、リッチの声に掻き消される。
「貴方は自分の時間を持たないからよ」
小さくも、強い言葉。
リッチは、答えに自信を持っていた。
「沢山の人を倒したわ。数えきれないほどの壁があった。乗り越えるためにはこうなるしかなかったのよ」
「だったら、どうして」
「私はただ、お金じゃなく、時間が欲しかった」
差し出した手を下ろして。
「だからお金が必要になった。それだけのことよ」
時間が欲しいか。
なんて――「贅沢なって、思うでしょう?」――苛立つ先読みだ。
「そう。私は業突く張りで、どうしようもない人間よ。ヒーローなんか向いてないと思ってるわ。でもね……独りでいると気付いてしまうの。自分を守るためには、他人を大事にしなきゃいけないんだって」
そんなのは、当たり前のこと。
だからこそ、私は戦う。
「欲しいのはお金じゃない。何者にも襲われない、私が決めた私の時間を――可能な限り沢山持つこと。それが私の欲というもの」
なんて自分勝手な人だろう。こんなのに今まで遊ばれてきたのか。
私の苛立ちはまだまだ募っていく。
「そうね。自分勝手よ。我儘だと思う。けれど、それしかない」
鈴虫が、一層大きくリィンと鳴いて、黙った。
「運命を自分で決めるには、どれだけ時間が必要だと思う?」
一歩、近付く。今度は外さない。
「自分に残された時間は、あとどれくらいだと思う?」
一歩。
「これが、答えだ」