イカロス
蝋で出来た翼
背中を打つ感触。
激しい痛み。
鉄の香り。
赤い。
細かく何かが転がって。
湿って。
耳鳴りがして。
呼吸が。
息をしろ。
息を吸うんだ、そして吐け。落ち着かなければならない。落ち着いて、まずは立ち上がらないと。ここで立ち止まっていてはまずい、状況はどうなっている、今どこにいて私はどっちを向いて。
苦しい。
息が出来ない。
目が痛くて、泣きたくないのに、涙が止まらなくて。
その苦しみから逃げ出したくて、必死になって、身体中にこびり付いた、赤い何かを払う。
助けなきゃ、子供たちを助けなきゃ、私が助けなきゃ、そうじゃないと死んでしまうから、だから助けて、孤児院に入れて、そしてまた戦って、助けなきゃ――
「ぐっ……あ……う……あああ……」
助けなきゃ、助けないと、助けて、それから。
助けて。
私を救って。
私を見つけて。レディー・プアじゃなくて、私を見つけて、掬いあげて、光を、光の傍に、私を――
「うぁぁああああ!!」
自分の叫びで気が付いた。
夢だと、そう思いたかった。
自分の目の前で起こった全てのことが、悪夢であればいいと思った。
だけど世界はどこまでも残酷で、これが現実で、私の過去は決して消えない。
いつもいつでも、目の前にあったはずなのに。目を背けようとした後悔は、いつでも私のことを見ていたんだ。
遠くから足音が聞こえてくる。
敵が来る。
通せばリッチが死ぬ。
守らなければ。私の家族を。
私の。
家族。
私の……?
「ここは……どこだ……みんな……母さん……どこに行ったの……?」
冷たい。何もかもが温度を失ったようだ。
静かに心に問い掛ける。
私は今。
心と体を切り離す。
それには痛みを感じたけれど。
それでも、戦えないよりマシだと思った。
「いやはや驚きだね。君には本当に驚かされるよ。コードネーム・レディー」
その声を私は知っている。
二年も指示を仰いだ声だから。
「まさか貴方が来るとは思っていなかった」
「それはそれは。光栄に思うことだね。あの組織の中で今、君を殺せるものは私しかいないよ」
抜けたはずの組織。
その長。
今目の前にいる男がそれだ。
左腕が利かない。
ヒビが入ったか。仕方ない、右だけでなんとかしよう。
「おっと、構えるのかね。構えてしまうか? そうかそうか。面白いな君は」
「何がおかしい」
「まだ戦闘になると思っているところが、かな」
息を整える。
目の前に集中する。
ただ殺すことだけに。
「まぁまぁ。そう怒るんじゃない。君は相変わらず狂犬のように愛くるしいな。折角感想を聞こうと思ったのにこれじゃ台無しだよ」
「死にたいようだな」
「ハハハ! それは感想と受け取るよ! 素晴らしい余興だったようだ!」
「貴様……!」
閉ざしかけていた心が無理矢理こじ開けられて、見たくもないものを見せられる。
直視など出来ない。
それほどに。
「何を怒ることがある。こんなことができるのも君のおかげだろう! 君の成果の一つじゃないか!」
落ち着け。
クールダウンだ。
口車に乗るな。
来るなら来い、そのふざけた面を吹っ飛ばしてやる。
「君がたくさん孤児を作ってくれたおかげだろう? いや本当に素晴らしいエージェントだったよ! 君ほどに愚鈍な働き者はかつていなかったほどだ!」
「貴様……! その口を閉じろ……!」
狙いは定まった。
銃口が金切り声を上げる。
「……!」
「全く、だから愚鈍だって言ったんだよ」
脳天を貫くはずの凶弾は、その手前で動きを止めて地面に落ちる。
「アッハハハ……そうそうそれそれ。その顔が見たかった! サプライズさ、エレクトロニクス・マテリアル・フィールドといってね。スイッチ一つで全ての物理攻撃から私を守ってくれる。いいモンだろう?」
驚愕に震える指が銃爪を引く。
何発撃っても――。
撃っても。
撃っても。
撃っても――!
「学ばないな、レディー」
そいつは平然と立っていた。
当たるはずの弾丸は空中で止まり、ゆっくりとその矛先を私に定める。
私を向くのだ。
放ったはずの弾丸が。
私を、見ている。
「ちなみにこんなこともできる!」
私の左脚を指差す。
途端に鉛玉が視界から消え――
「がああああ――!」
ほぼ時を同じくし、自分の口から信じられないほど大きな叫び声が出た。
痛みだ。
バランスを失って倒れ伏す。
左脚。
膝から先の感覚が消え失せた。
電撃で焼かれるような、感じたことの無い痛みが全神経と精神を支配する。
それでもまだ、私は、落とした銃に手を伸ばす。
仕留めなければ、今ここで。ケリを付けなければ。彼女の元へ、リッチの元へ、彼が到達してしまう。
華やかな舞台へ、晴れやかな彼女の元へ。全てを台無しにするために。それだけは避けなければ。
私は変わったんだ。そう言ってくれたじゃないか。あの時から変わったと、ただ復讐に身を焦がしていたあの時とはもう違うと、そう教えてくれたじゃないか。
ミセス・リッチ。
私の過去を。
もはや違うと否定してくれたこと。
私は証明しなければならないのに。
「浅ましい考えだな……」
右手の上に、ナイフが落ちて、地面と私を縫い付ける。
満身創痍で、叫ぶ力も残っていない。
「戦争は変わった。銃が驚異になる時代は終わったのさ」
体が動かない。意識が朦朧とする。
誰か。誰でもいい。ここに来て。この状況を覆せなくてもいいから。このことをリッチに――
「バカな君に聞いておこうと思うんだけど」
ナイフの柄に、男の足が乗る。
「もしかして君、私がミセス・リッチを殺しに来たと思ってないかい?」
「は……?」
「殺すわけないだろう! 彼女は我々の恩人なんだから! あれの部下がもたらした技術が、今や世界中の欠損者を兵隊に、いいや、兵器に変えるんだ! これに感謝せずになんとする?」
嬉々として語る声はどこか狂気を孕んでいて。
「それにね? 勘違いしているようだから教えておくが、別に彼女ぐらい、やろうと思えばいつでも殺せるんだよ」
私は始めて、自分の犯した罪を。
「今日ここに、あの子がたどり着けたのがいい例だ。なんの警戒もされずに兵隊を送り込めると君が証明してくれた」
その重さを、思い知る。
「だからねレディー? 今日ここに来たのは、君を殺すためなんだよ?」
助けて。
私を、助けて。
心の底から、ヒーローを願った。
「でもちょっと勿体ないって思っちゃってね。君らの……………………そう、そうだ。絆? ってやつを見てみようと思ってさ」
余りにも残酷な現実から、私を救って。
「力の限り叫んでみろ。もしかしたら助けが来るかもしれない。――それじゃあ、幸運を祈るよ」
立ち去っていくその姿を前に、私はただ力無く、見送ることしか出来なかった。