リッチと出掛けよう
高い靴は歩きやすいのだと知った。
エントランスを出て数歩、何やらミーシャと話しているリッチに声を掛ける。
「お待たせして申し訳ありません」
「いいのよ――あら?」
落ち着き払ってこちらを振り向いたリッチは途端に目を輝かせる。
「あら! あらあらあら、あらあら! 見違えた! やっぱり貴方素材がいいのね!」
「貴方が言うと笑えませんよ」
見違えた、というのも私の台詞だ。言ってはなんだから言葉にはしないが、とても二十歳を超えた――それもどちらかというと三十路に近い――大人には見えない。
両方共に義足だとは思えない。よく惜しげも無く晒せるものだ。
丈は短いはずなのに、決して扇情的ではないショートパンツ。
無地のシャツの上には私とは違ってレディースのジャケットを羽織っている。
綺麗な髪は結われずとも、どこか整って見えた。
「お化粧とヘアセットをしたのはだぁれ?」
「メイド長が」
「そう! そうなのね? なら賞与を出しておかないとね?」
「ちなみに服を選んだのは私ですよミセス・リッチ」
「いいセンスよ! ミーシャにもボーナスあげちゃう!」
大盤振る舞いとはこのことか。なんの躊躇いもなく金を出せるその精神性にクラリとする。
「ふふふ。美人よアポロ」
「…………あなたも」
「例え本心でなくても嬉しい」
そう言って、ミセス・リッチが掌を差し出す。
「行きましょうか?」
「はい」
と、その前に。
「ミハイル。なぜ作業着でないんです」
「はぁん? 仕事しろってんならこう答えるわ、一昨日来やがれ」
「いえそうではなく、その格好は……」
「ああ、これ? 似合うでしょ。バンドギャルってやつをイメージしたの」
中学生みたいだな。
「チビだからって失礼なこと考えてんなら、それ相応の覚悟はしてんでしょうね」
苦笑い。
ミーシャはすました顔で言う。
「ま、楽しんで来なさいって。背中は任せな」
傍らのギターケースを叩き、ミーシャは自信満々に胸を張った。
大きくないから様にならないなと思った。
また脚を蹴られた。
リッチは公共の交通機関を使いたいと言ってゴネたが、メイド長に釘を刺されたこともあり、渋々車に乗ってくれた。
そこまではまだ良かったのだが、その車は自動運転だった上にスピーカーで流し出した曲はまたヘヴィメタルで――いや、この話はやめよう。
私の耳は無事だったし。
「さて、それじゃ、お買い物の前に」
難聴気味になった自分の聴覚を治しながら、私はリッチの声に応える。
「横を向いて、アポロ」
「はい、構いませんが」
手で示されたように右側を向くと、リッチの小さな手が耳に触れる。
左耳の付け根あたり。そこに何かを掛ける感覚。
顔を顰めて外そうとすると、リッチが再び手で示す。
外すなということか。なんだその子供のような悪戯っぽい笑顔は。
彼女は背伸びをしたかと思うと、左耳をトントンと叩いた。
「お揃いのイヤーカフよ。外さないこと。とっても似合ってる」
「いや、インカムでしょこれ」
「あらやーだ、アポロってば私の声が近くに聞こえるの? 愛されてるのね私」
「…………」
ふざけているのか?
「ほら、そんな顔しない。いざと言う時のためよ。20メートル以上離れないこと。いい?」
「はぁ、理解しました」
『それからこっちの指示も聞ききなさいよ、執事のアポロ』
「!? ミーシャ、一体どこから見てるんです!」
『あんたらの後方にあるビルよ。20メートル以内ってことはないから安心して楽しめって』
忙しなく辺りを見渡しすが、それらしき影など見えるはずもなく。
しかし気配も殺気も感じないとは驚いた。自分はそこそこに敏感な方だと思っていたのだが。
「ほら、行くわよアポロ。ぼさっとしないの」
小熊探しは中断するしかないようだ。
リッチが私の腕を引く。
楽しそうな笑顔。
護衛を二人も付けて、やっと安心できる女。
私は今どこにいて、誰といるのか、少しだけ分からなくなる。
「食事にしましょう」
「……ええ、承りました」
「ここのハンバーグが好きなのよ」とリッチは言って、意見も聞かずにそれを二人分頼むと、私の方を見た。
「意外と子供なんですね」と反論するとちょっと意外そうで、驚きはせずとも彼女は言葉に詰まる。
「好きな物に、大人も、子供も無い。そういう考え方はつまらないでしょ? 私は好きな物は好きと言うし、他人にも知って欲しいのよ」
「では、嫌いなものは?」
「好きになりたいから、歩み寄るわ」
「努力の人ですね」
「いい所に気が付くのね。アポロのそういう所、好きよ」
簡単に言う。
歩み寄る、つまりは理解したいということだろうが。容易にできれば苦労はしない。
不思議だ。この人は、それが出来ると信じて疑わないのだから。
浮かんだ疑問は泡と消え、それでも次々と沸いてくる。
「ほら、そんなに怪訝な目をしないの」
運ばれてきたグラスには、ガス入りの水が注がれる。
泡は次々浮かんで消える。
「乾杯……は、しないんですか?」
「食前でしょう? シャンパーニュって気分じゃないわ」
薄く微笑むと、いつの間にかリッチの口元にグラスが運ばれる。それは実際彼女の手が運んだのだが、はてさて、動作に無駄がないと言うか、やはり慣れているな。
私はと聞かれれば、真似るべき瞬間を見損ない、掴み方から混乱してしまっている。
「焦らずいつも通りになさい。ただし、ゆっくり舐めるように飲むこと。舌の上と喉を少し潤す位でいいわ」
諭すような口調に思わず頷く。
確か、そう、いつものように口元に持っていき、舐めるように――
「舌を出さない」
「へぁ……」
「クールダウン」
「はぇ……」
――自分がどれだけ緊張しているのか今分かった。
少しだけグラスを傾ける。
ほんの少しだけ含んで、喉に落とす。
炭酸の刺激が舌で踊る。
一連の仕草を見て、「上出来よ」とリッチは褒める。「美味しいです」と素直に述べると、リッチはゆったりとした様子で、
「なぜだと思う?」
と、聞いた。
「……高いから」
私の答えに少し残念そうな表情を浮かべる。
「それもあるかもしれないわね」
それ以外に何があると言うんだ。
いいもんなんだから美味いだろ。
「本質は違う。あなたはきっと自分が緊張してるって自覚出来たでしょ?」確かにそうだと思ったが。「だからあなたは良かったのよ、分かるかしら。理解して初めて客観的に見ることができて、楽しむだけの余裕が、隙間が心に出来たの」
リッチの言葉に隙間はない。
「心の余裕は大切よ。あらゆるものを豊かにする。私のようにありたいなら、そうね。余裕を持つことね」
相変わらずナルシストなことで。言葉はガスと一緒に飲み込む。
そんな暇はないだろう。これからこの人に、テーブルマナーというものを仕込まれるだろうから。
「あら、来たわね。じゃあ」
「ええ」
「いただきましょう――ちょっと、ナイフの持ち方間違えてるわよ」
ほら始まった。