シュテルンスタイン家の人々
ブラックでいいかと差し出された紙コップの温もりは、冷たくなり始めた季節を実感させる。
天気がいいとは言え、もうとっくに秋の只中だ。休憩時間だけとは言え、袖を捲りあげている――彼女……アー、なんと呼ぶか――ミーシャに、ほんの少しだけ驚嘆の視線を向けた。
「暑くって仕方ないわね。もう十月も近いってのに」
それなのにコーヒーはホットだ。
ミーシャは一口だけ飲んでから、それをプラスチック箱の上へ置く。
「顔色悪いわよ。それじゃ、ミセス・リッチが機嫌を損ねるかもしれない」
「そうなんですか」
「あんたね……ハァ、本っ当に何も知らないってわけ?」
腰に提げたサックからハサミを取り出して、その刃を見つめるミーシャ。
表情は真剣そのものだ。
「ミセス・リッチは笑顔が好きなのよ。あと健康な人もね。良くない抱え方をしている誰かを放っておけない人よ」
刃を爪に乗せた。
「研がないとダメか……」
「分かるんですか?」
「切れ味? まぁまぁ分かるわ。爪に乗せて引っかかるならまだ切れる」
「そうではなく」それも聞きたくはあったが。「リッチのことです」
私が急かすと「ミセス・リッチ」とミーシャは言って、軽く睨むようにしてから「呼び方には気を配りなさいな」なんて忠告を寄越す。
「まぁ、そうね。これでももう、三年以上は一緒に働いてるから」
剪定用のハサミを握り直し、近くにあったサビ落としを手に取る。
「分かるのよ。なんとなくね。あの人は分かりにくい人だけど」
軽く吹きかけてハサミを何度か弄ると、瞬く間に汚れが浮かんでくる。
「繊細というか、気にしぃというか、ね。我が強くってそれを曲げないお方だから」
手の開閉と共にハサミを開閉してやると、段々油と共に錆が滴り落ちていく。
「だから、私の仕事は『剪定』することなの」
使い込まれた腕時計をちらりと見やる。
「選定、ですか」
ミーシャはうなずいた。
「ミセス・リッチは本当に自由奔放な人よ。あちこちに手を伸ばしてる。でもその先でどんな人と当たるかなんて分からないでしょう」
軋むような音がしなくなった頃、ミーシャはハサミをもう一度仕舞った。
「だから、余分な枝や、邪魔をする枝は、切ったり抜いたりしてあげないと」
コーヒーを含んで、彼女は静かに前を見た。 嫌な空気だ。
「なるほど、言わんとすることは分かります」
「口下手だから付け加えておくことがあるわ」
はて、なんだろうか。
コップを揺らしながら、ミーシャは息を吐いた。
「リッチは貴方を『見れる木にしろ』と言ってる」
「どういう意味でしょう」
「私も考えてる途中よ。庭木は全員十人十色。一つとして同じ子はいないし、活かし方も違う」
そういうことを聞いているのではない。
「綺麗になりたい子もいれば、愚直に伸びたい子もいるし、誰かの隣に寄り添う子もいる」
そういうことを――
「あなたはどんな子か、今から楽しみ」
「意味がわかりません」
「分かんなくていい。覚えておいてくれればそれで」
一気に飲み干して空になったコップを差し出して、ミーシャはニッと笑う。
「片しておいて執事さん。昼前になったらご主人様を起こすこと。分かった?」
私は黙って頷いた。
返事は声にして出せと言われた。
◆ ◆ ◆ ◆
「あら、丁度良かった! 執事さん、あなた力持ちでしょう?」
「はい……?」
「一人じゃ荷物が重くって!倉庫に着くまでどれだけ時間がかかるやら。手伝ってくれる?」
庭から館内に戻ると、メイド長と出くわした。
有無を言わさず、私の手に荷物が収まる。
随分軽いな。
「そちらの方が重そうですが」
「あら優しい。でもいいのよ。置き場所を覚えてもらいたかっただけですからね」
食えない人だ。
「はい、割れ物は広めに置いてね。生物は入口近くに置くこと! そうでないとリッチェルに怒られちゃいますものね。分かった? 覚えた? 復唱できる?」
「……割れ物は他の荷物とぶつからないよう広い場所に。機械類は所定の棚に、箱同士は重ねない。書物は適当な積み方でも良い。生物は入口近く、すぐ動かせるよう……ですか?」
「まぁ! まぁまぁまぁ、なんて優秀なんでしょ! 素晴らしいわ! お顔も良いだけじゃなくて頭もいいのね!」
「…………」褒められているのか、これは。「バランス感覚には自信ありますけど」
「あらそう? じゃあ、あの棚の上、箱が見える?」
メイド長が指したのは、高い天井間際に置かれた小さな箱だ。
あれがどうかしたのか、初老にさしかかろうかと言う彼女は、少女のように困った顔をする。
「リッチェルがあれを取ってってね? でも倉庫の中でジェットを吹かしたら引火するかもしれないし、ヒモやロープも引っ掛けられないでしょ?」
「登って取るしかない」
「そうなのよ……でも私はこの通りだし……」
わざとらしくため息をついて俯く。
「あー、どこかに背が高くてイケメンで、運動神経抜群な上にどんな体勢でもバランスを損なわない人がいたらいいんですけどねー」
この人、私のことを知っているな。
私の特殊な平衡感覚のことを。
改造などではなく、生まれ持った天賦の才を、この人はどうやら知っているな。
ならお見せするまでだ。別段隠すようなものでもない。
「分かりました。イケメンではありませんが、他の条件は満たしてます」
ジャケットを脱いでから、ミーシャよろしく袖をまくる。
周囲を確認しルートを考える。
あの棚とあのフックを――降りる時はあの箱を使って――良し。
「これだけ足場があれば十分です」
軽くジャンプして、しっかりした棚の天板に指を掛ける。
「取れたらリッチェルの部屋にお願いね。ついでにそろそろ起こしてきて」
頷き――「分かりました」――一応返事もする。
「ありがとうね、執事のアポロ」
メイド長に乗せられて、壁伝いに走る羽目になったのは、また別の話として――やけに重い荷物だ。
「リッチェルの部屋は分かるかしら」
「昨日確認しましたので」
「あらそう? じゃあ任せるわね」
背中をバシンと叩かれた。
「ほら、シャキッとして。自信をお持ち! 私はあなた、中々良いと思ってるんですからね!」
何に対しての激励から分からないが、会釈を返すことにした。
笑顔が返ってきたのがなんとなく気まずくて、頭のテッペンがむず痒くなる。照れたように笑って見せると、今度はメイド長を呼ぶ声がした。
「あら失礼。もうちょっとお話したかったけど明日にでも」
「はい。どうぞあちらに」
視線で示すと、彼女は忙しなく去っていった。
さて。
問題はリッチの起こし方だ。