アポロとミーシャ
穏やかな朝だ。
まだ登りきる前の太陽が、山吹色の光を投げ込んで、私の頬を俄に暑くする。
さて、今日の出勤は……「ああ、そうだった」……自分がどこにいるのか思い出した。
胸元のホルスターに銃を収め、いつの間にか用意されていた執事服を身に纏う。
誰かが入ってきたことに気付かないとは、どうやら随分深く眠っていたようだ。いつぶりのことか思い出せないが、私はそれだけの間気を張っていたのかと反省する材料にはなった。
しかし朝から憂鬱だ。
私はリッチを起こさねばならないから。
そもそも命を狙う相手を好んで傍に置くその神経が知れない。人間ではあるはずなのに、どうにも同じ者とは思えない得体の知れなさが彼女にはある。
まあ、手足が機械となった生き物など、別物と言えばそうとも言えるが。
私の仕事は彼女を守ること。
矛盾しているような気はするが、その分彼女の命は私の掌にある。世界的な富豪の人生を握っていると考えると、中々面白いものだ。
廊下に出て、もう一度襟を正す。
部屋はさほど離れていない。すぐに着くだろう。
だから今のうちに銃の調子を確かめて――
「ずいぶん早いお目覚めね?」
「っ!」
――声がしたのは後ろだ。
咄嗟にホルスターから抜いた銃口を向ける。
「あらら……主人の声も分からないなんて執事失格よアポロ」
「……起こすまで寝ていてください」
「嫌よ。私の時間は私が使い道を決めるわ」
そこにいたのは、ふわりと微笑むミセス・リッチ。
昨日の今日で執事に任せず起きているとは……いや、確認しなかった自分が悪いのか? 如何せん初めての経験だから、分からないことばかりだ。
「申し訳ありません。勝手が分からず」
「いいのよ。ミスは誰にだってあるわ。それに」
「それに?」
「ちょうど良かった、と思って」
はて、なにが良いのだろうか。口汚く叱りだし、猛火のごとく怒り出すと思ったのだが。
「私は今から寝るから」
「……今しがた起きたのでは?」
「素敵なクエスチョンね!」嬉しそうに拍手を一つ。「いい機会だから覚えなさい。仕事がない日は夜更かしができるのよ」
つまり、最近は毎日夜更かししているというわけで。
「まさか」
「朝焼けを見るのが好きだから。そういうわけでおやすみなさい。皆に挨拶を済ませておいてね」
欠伸をしてから、リッチは私の背後を抜けていく。数歩離れたところにある扉を開けると、見送る私を一睨みして。
「鏡を見ること。毎日ね。これは命令よ分かった?」
「はぁ……」意味の分からない命令だな。「理解しました」
「いい子よアポロ。今日も美人ね」
「………………」いつもこうなのか?「ありがとうございます」
力無く振られた手は扉の向こうへ吸い込まれ、とうとう私は一人になった。
しかし既に指令は下っている。皆に挨拶を、だったか。
さて、そうなるとまずは――玄関へ行こう。
◆ ◆ ◆ ◆
エントランスには人だかりが出来ていた。
館の間取りを確認しながら来たせいか、随分時間がかかったようだ。
山吹色だった日差しはすっかり登りきり、空は鮮やかな青を称えていることだろう。
玄関の前には誰かが立っていて、渡されたらしいメモを読んでいた。
ガヤガヤと騒がしい喧騒の中、壁に立てられた古い時計が鐘を鳴らす。
それを合図に、散らばっていた人々が一気に列を作る。
よく見ると、メイド用の服を着た女性以外に、作業着姿の人たちもいる。
なるほど、毎日これだけの人間が出入りしているのか。
「じゃあ、今日の朝礼を始めましょう!」
報告が円滑に進んでいく。言われるでも聞くでもなく後ろの方にいた私は黙って聞いていた。
そろそろ終わる頃か。ならまずはメイド長らしき女性に仕事の有無を――
「それと、今日から仲間になる子を紹介しますねー」
――私以外に誰が――いや違う――私しかいない――つまり自己紹介をしろと言うことか?
いや、もしかすると他に誰かがいるのかもしれない。私は一縷の望みに賭けて、未だ動かずにいた。
すると。
「ほら、後ろのあなた! 背が高いから助かるわね、よぉく見える!」
「………………」
まずいな、自己紹介などろくに考えていない。
仕方ないことだ。朝礼があることは知らなかった。組織の時にもなかったことだ、不慣れなことは割り切ろう。
指名されたことを諦め、私は皆の前に立つ。
一つ、深呼吸をして。
「名前はシュインド・アポロニアです。本日付でリッチェルバーン・アマーリエ・シュテルンスタインの執事に任命されました。これからよろしくお願いします」
これだけ言えば充分か。
下げた頭をゆっくり上げると、盛大な拍手が鳴った。
皆が暖かく迎えてくれている……そう思うと、少しだけ心が楽だ。
「それじゃあ、お付の二人はしっかり話をしておいてね! メイド陣はこっち! 今日は荷物が来る日だから倉庫を開けておいてちょうだい!」
メイド長――でいいか。彼女が手を二回叩くと、たちまち人だかりが動き出す。凄まじい統率力だ。見習いたいものがある。私にもあれくらいの力があれば、あの結末を回避出来たのかも――
「ねぇちょっと、アンタ」
――しかし、あの場はああするしかなかったのも事実だ。故郷を穢されたまま残しておくことなど出来なかった。感情のまま動いてしまった後悔はある。母さんは今頃どんな顔で――
「ちょっと!」
「痛……」
膝を蹴られた。
どうやら近くに誰かいる。気配は感じるが見えない。声の感じからして随分と若いようだが。
はて、一体どこからこの声はするのか。
「初手からからかうかコイツ……!! 下を見なさい下を!」
声が届きにくい可能性を考慮して、下を見ると。
「やっと目が合った」
そこにいたのは、可愛らしい少女のような顔をした――
「よろしくね新入り」
――作業着の女性。
「…………よろしくお願いします」
「うん。凛々しい雰囲気は悪くない」
胸を張って堂々たる面持ちだ。実際どこからどう見ても、色々と足りていないように見受けられるが。
「私はミハイル。ミハイル・ピスタチオ! コードネームは『仔熊のミーシャ』。歳は二十二、ガーデナーでガードナー! 覚えなさいよアポロニア!」
「庭師……それで作業着なんですか?」
「これは趣味よ」
「趣味」
「ええ。似合ってるでしょ?」
「……とても似合ってます」
作業着というものはゆとりを持って作られている。
あまりにも体に合いすぎていると、不意に怪我を負う可能性が高いためだ。
手足の長さを調節し、中ほどはゆったりとした作りで、何かに引っかかっても皮膚には外傷が至らないように――
「なによ、さっきからジロジロと」
――なるほどよく鍛えている。
「御庭番は厳しい世界のようですね」
「ハン。あなたこそ、いい手をしてる」
固く握手を交わす。互いに、ぶ厚く肉の盛り上がった手を。
「想像してたよりずっと細いもんだから、ちょーっとだけ心配だったけど。要らなかったみたいねそういうの」
「得物は?」
「長物はだいたい。あとは狙撃も得意よ」
「助かります。近接はともかく、ライフルは不得手なもので」
ミセス・リッチはお見通しというわけだ。私たち二人、その得手不得手まで。
人を見る目か。私には無いものだな。
「じゃ、ちょっと見ていく? 私の仕事」
◆ ◆ ◆ ◆
護衛である自分が、庭でのんびりと他人の仕事を眺めている。
主人を叩き起すのはどうかと思うが、今この状況もどうかと思った。
武器も何も無い。数で押されれば一溜りもないだろう。
まぁ、それでも別に構わないのだが。
リッチがどうなろうが自分には関係の無いことだ。命を奪う気でいたのだから今更格別な感情も湧かないし、きっとこれは、また何かを失うまでの準備期間に過ぎないのだと。
ふとそんなことを思う。
ミーシャを見ていた。
小さな体で仕事をこなす、その姿を。
楽しそうに働く姿を。
そう言えば、労働を楽しいと思わなくなったのはいつ頃だったろう。何年も続けていくうち、期待や責任が大きくなるばかりで……背中も足取りも重く、なのに続けるしかない……そんなことに、私はもうずっと辟易としていた。
なのに彼女はどうだ。
誰に見られるでもなく笑顔が漏れている。
足取りは軽い。
護衛の時も、こうなのだろうか。
どこか呆けたような気持ちで眺め続けていると、屋敷の中から鐘が鳴る。
時間を知らせるものらしい。登っていた木から降りて、ミーシャがこちらへ歩いてきた。
「しばし休憩。ちょっと話しましょ、アポロ」
作業用の手袋を外しながら言う言葉に、私は黙ってうなずいた。