第3節 崩れ行くもの、成されしもの
三年が経った。アクバールはもう18になる。人の営みは驚く程早い。ここ近年になってますます早くなっている様にアクバールは感じていた。街は加速度的に廃れていく。もう、元には戻らないだろう。もはやここは貧民街、スラムである。廃墟も増えた。南部の工場は一つも動いてはいない。法もここではほとんど無意味だ。人権すらも危うくなりつつある。
近頃は礼拝を開く余裕もない。度々貧しい人々が訪れて来る。教会はロビンに任せ、資金集めにアクバールは新市街へ働きに出る。自分達の生活も苦しくなって来た。18の青年にしては、アクバールの体格は良くなかった。背丈はそれなりにあったものの、その四肢はやや痩せていた。
「それじゃあ行って来ます、叔父さん」
「おう、気を付けてな」
ロビンは相変わらずだった。彼は決して下は向かない。前を向いて生きている。それが、アクバールの支えにもなっていた。彼には感謝している。これまで一人でアクバールを育てて来てくれたのだ。これからも、どれだけ苦しくなってもロビンはアクバールを見捨てたりしないだろう。最初の頃に比べて、随分と二人の距離は縮まっていた。アクバールも少しは笑える様になった。こんな状況下でも、少し気持ち的な余裕を持って過ごす事を心掛けている。それが、少しでもロビンへの恩返しになると信じて。
旧市街の中心地の教会から新市街の職場へ、アクバールは週三回通っている。距離は決して近くない。それでも、生きて行くにはそうする他ない。弱音は吐かない。むしろ、筋肉量の無いアクバールにはいい運動になると、そう前向きに考えていた。
今日もいつも通りの一日が始まる。アクバールは足早に、新市街を目指す。得た収入は、必要な分以外は全部他の人々の援助へ回している。それでも良かった。人の為になる事が、アクバールの生き甲斐になり始めている。他人の幸せな顔を見れば、自分も幸せになれる。だから一層のこと、アクバールは多くの人を助けてやりたかった。
ようやく、幼い頃ロビンが自分に言った言葉を理解し始めた。自分達は幸せを配る者。それを配るには、自分自身も幸せでいる必要がある。笑顔を忘れない。笑って生きる事は、前を向いて生きる事を助長してくれた。
二つのエリアを区切る壁を抜け、新市街へ入ると、既に活気が違う。まさに、昔の旧市街がそのまま移動して来てしまったようだった。ここにいると、旧市街の様子が夢の様に思えた。だが、夢はこちらの方だ。アクバールにとって現実は、旧市街での生活の方だった。
少し進めば、大通りに出る。街の真ん中を通る大きな水路。新市街の北部から旧市街の途中まで、縦に通っている。その両サイドには商店街が立ち並ぶ。人混みの中、一人アクバールは進む。これだけ人がいても、アクバールは一人に変わりなかった。別世界だ。周りの人々と自分は、住む世界が違うのだ。彼らは、あの粗悪な街を知らない。知る者も、見て見ぬ振りをしている。
来るたびに、憤ろしく感じた。拳を握りしめ、アクバールは人混みの中を進む。しかし、嘆いてばかりはいられない。そんな奴らの事など放っておけばいい。自分は、彼らとは違う。
不安定な青年の心は、ぐらぐらと揺れる。それを無理矢理まっすぐ立たせて、彼は職場へと向かうのだった。
*****
「オルラント君、教会で働いてるんだって?」
仕事の同僚が、そうやって話しかけて来た。
よく見る顔だが、名前は知らない。彼が話しかけて来たのも初めてだった。
「………どこでそれを?」
アクバールはそう答えた。職場は雑貨屋で、今は商品整理をしているところだった。服装はワイシャツにエプロン。聖職者と思わせる要素はどこにもない。
「噂でさ。旧市街の方に住んでるんだって?」
「………」
馴れ馴れしくなんなんだ、と思い、アクバールは彼の胸についている名札を見た。ベル・マーレイ。それが彼の名前らしい。
「……ボクの事ばかり聞くのは失礼だと思うんだが、マーレイ」
「ベルでいいよ。………あれ、俺嫌われた?」
「好奇の目で訊いてくる奴は大抵ロクでもない奴だ」
「……酷い言われようだな。………俺、昔旧市街に住んでたんだ。あの教会、昔の俺も行ってたぜ。小さい頃だけど」
ベルの歳は自分と近いようだ。となると、幼い頃に自分と彼は出会っているかもしれない。………記憶にはないが。
「その髪の色、もしかしてあの教会にいた奴かなって」
「…………生憎だけど、ボクは君の事は覚えてないよ」
「えー、まぁ、そうだよな。話した事ないし」
ベルは頭を掻く。一体何がしたいのだろう、とアクバールは怪訝に思い、そしてまた作業へと戻る。その手元を見ながらまたベルが言う。
「………教会の暮らしってさ、正直どう?」
「……どうって?」
「辛くないの?向こうって今酷いんだろ、だからこうやって働きに出て」
「君には関係ない」
アクバールはベルの方を見てそう言った。別に睨んだ訳ではなかった。だが、言葉に棘があったのか、ベルはそれに射竦められたようだった。
「………か、関係ない……かもしれねェけど、さ」
「何も知らない奴が想像で勝手な事言わないでくれよ。どうせそうやって聞いたところで君は何もしない」
「………」
「ボクらは自分の為だけに生きてない。……嫌々やってると思ったら大間違いだよ」
「……ならもっと楽しそうにやれよ……」
「残念ながらその過程は楽しめない。仕事をする事自体に不満はないけど、君みたいな奴がいるのは不満だ」
「!」
言い過ぎているな、という自覚はあった。だが、回り始めたアクバールの舌は止まらない。
「………ボクは、弱者の味方だ。君らの側には立てない」
しん、とした。アクバールはその空気を置き去りにして、作業へ戻った。残されたベルは呆然として、言った。
「……俺達は悪者扱いかよ」
「……………」
「人間、誰も彼も人の為には動けねェよ」
「………」
「覚えとくんだな」
アクバールは顔を上げた。ベルの冷たい目と目があった。
「正直者は馬鹿を見るって」
「………!」
その言葉に、胸がざわついた。何か嫌な予感がした。だが、その正体が分からず、逃げる様にアクバールは作業へ戻った。ベルはしばらくこちらを見ていた。だがすぐに自分も、別の場所で作業に戻った。
『覚えとくんだな、正直者は馬鹿を見るって』………
そう言う、ベルの表情が脳裏をちらついた。……あんな表情をいつか、見たことがある。あれは………何だったか。何だったろう。………呆れた様な、見下した様な………。
答えを出すのが怖くて、アクバールは作業に集中する事にした。だが、仕事中その胸のざわつきが収まることは無かった。
*****
仕事を終えて、逃げる様にアクバールは教会へ走った。ベルは先に上がった。息を切らして、いつもならもう走れなくなるくらい、走った。焦燥が彼を追い立てる。アクバールが感じたものが気のせいでなければ────。
ただの杞憂であって欲しい。神よ、助けて下さい。そう願って走り続けた。
立ち止まる事なく、教会へ駆け込んだ。しかし、その途端奥から声が飛んで来た。
「………来るなアクバール!」
「!」
入り口間際で止めた足、弾む息、酸欠になりかけて揺らぐ視界、そこに捉えたのは伏した叔父、それを取り囲む様に立つ複数の男達………の、中につい先程見た顔を見つけた。
「………ベ………ル」
嫌な予感は的中していた。あの時ベルは、これを決意していたのだ。
落とした視線の先、ロビンの腹付近から血が流れているのが見えた。
「………叔父さん…!」
「…………帰って来るの早くない?俺の計算じゃ、お前が帰って来た時には既にこのおじさん死んじゃってる予定だったんだけど」
笑いを含んだ声で、ベルが言った。アクバールは震える声で応える。
「……お前………っ、何でこんな事を……!」
「………俺、お前らみたいな奴大っ嫌いなの」
冷たく、ベルは言い放つ。その足でロビンの肩を踏みつけ、笑う。
「反吐が出る程。胸糞悪い。何で自分らが苦しくなってまで他人を助けようとする?バッカみてェ、どうせそれでも全員救える訳じゃねェのに。そんなのただの偽善だ」
「………っ」
分かっている。そんな事は分かっている。だが、それで馬鹿にされるのは我慢ならなかった。何より、自分の大切な家族が、傷付けられた事に憤っていた。
「………嫌うのは結構だ。だが、叔父さんを傷付けるのは許さない」
「アッハハ、あぁ、そうだ。許さないんだよな?じゃあ殺したら俺らの事殺す?お前」
「………!」
「結局そうだろ、人間、一番身内が大事なんだよ。いくら善人気取ってても、憎しみにゃあ勝てない」
「……そんな事………!」
「………本当かなぁ、堕ちちまえよ、さっさと。そうすりゃスッキリするぜ?憐れな神父さんよ。ハッハハハハ」
………限界だった。もう我慢ならない。頭に血がのぼる。今すぐにでも殴りかかりそうだった。……だが青年に大の男を何人も倒す様な力はない。やられて終わりだ。それすら忘れて、今すぐに飛び出してしまいそうだった。だが、辛うじて声が、そんな彼を押し留める。
「………駄目だ………アクバール、やめろ」
「!」
ロビンの呻く様な声に、ハッとアクバールは我に帰った。泳ぐ目で、ロビンを捉え、力なく開いた口から言葉が転がり出る。
「……叔父さん………何で…」
「………こいつらの為に………罪を犯す必要なんかない」
痛みで息の荒いロビン。意識は朦朧としているようだが、それでもなんとか保っている、
「……………俺はいい……逃げろ……こいつらの言う事なんか気にするな、お前は今まで通り」
「………おじさん、しぶといしムカつく」
ベルが言葉を遮ってそう言った。
「無意味だって分かんないの、今逃げたってどうせあいつの事殺すよ?逃げ続けても怯えるだけじゃん。まぁ、改心するなら別だけどさ………」
「……改心………するのはお前らだろうが……この……人間のクズが………」
ロビンがベルを見上げ、毒づいた。ベルはしばらくじっとロビンを見ていたが、やがてため息を吐いた。
「………もういいや、うるさい、さっさと死んで」
と、そう言うベルの手にキラリと光る拳銃を見た瞬間、アクバールの世界の時が止まった………様に思えた。
知らぬうちにアクバールは飛び出していた。そして無我夢中でベルの手から拳銃を毟り取った。その時、幸か不幸か、果たして神が手助けしたのか。
アクバールの放った銃弾は全て、ベルを含む男達を貫いた。気付けばさっきまで散々自分達を卑下していた男達は皆倒れ、事切れていた。自分でも何をしたのか分からず呆然とするアクバールの耳に、嗤う声が聞こえて来た。
「………ほーら見ろ」
ハッとして見ると、ベルが心臓を撃ち抜かれて、笑ったまま死んでいた。………そこでやっとアクバールは自分がした事を理解し、銃を取り落とした。腕が痺れていた。頭も痺れていた。現実が認識出来ない。自分は一体………!
「……クバール………」
「!」
掠れた声に、ハッとして振り向いた。うつ伏せのロビンが、辛うじてこちらに目を向けて、意識を保っていた。アクバールは青ざめて彼に駆け寄る。
「叔父さん!叔父さん………大丈…………っ!」
彼の体を抱えようと膝の上に仰向けにして、アクバールは息を詰まらせた。………一発じゃない。三発も腹を撃たれていた。アクバールの服が血に染まる。ロビンは喘いで、虚ろな目でアクバールを見た。
「………あぁ……無茶しやがるなァ全く……」
「叔父さん………血が」
「……気にすんなよ、大した事はねェ」
「たっ…………でも……このままじゃ」
「…………“父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。私達に必要な糧を与えて下さい。私達の罪を赦して下さい………私達も自分に負い目のある人を皆赦しますから”………」
聖書の一句を諳んじるロビン。それを聞いてアクバールは信じられないというように首を振る。
「……何で……赦すんですか……」
「………あいつらを赦さなきゃ、お前も赦されない」
「……………!」
浅い呼吸。もう長く持たないのはアクバールにも分かった。旧市街に医者はいない。街まで連れて行く時間もない。何も出来ない自分がもどかしかった。ただ、彼の言葉を聞くしか出来ない。
「…………どうして最期まで……そんな」
「俺は生まれながらの神父だから、さ。…神を信じる他に、道を知らねェのよ」
力なく笑うロビン。いつもの柔らかな笑み。それがどうしても悲しかった。
「………憎むなよ、アクバール。憎悪は人を壊す。……俺はお前に壊れて欲しくなんか………無いからな………」
「……憎むな、なんて………」
「………憎しみは負の連鎖しか生まない。………怯えるな、アクバール。お前は………俺は…ずっと………みか…た…」
はた、とロビンの目から生気が消えた。体から力が抜けた。アクバールはふるふると首を振りながら、彼を呼び、体を揺すった。だが、彼は二度と目覚めなかった。
「………叔父さん…」
悲しみと、怒りに震えた声。しんとした教会。
世界は暗転する。暗転して、青年の心さえも裏返した。
ロビンの想いは届かなかった。この時確かに、アクバールの何かが壊れた。この後も変わらず、アクバールは“弱者の味方”で居続ける。
……ただし、今までとは違う方法で。