第2節 移ろい行く世
少年は成長して、15歳の青年になった。その頃、今まで森であったアザリア北部の開発が為されていた。始まって一年、人の営みとは実に恐ろしいもので、既に森は四割が削られ、人が住める程度に街が整備されていた。今までの南部は目に見えて廃れている。新市街に近い方へ人は集まる。だが一部、一言で言えば金の無い者は南部に戻った。人が減るにつれて、治安も徐々に悪くなっていた。
「…………全く、ヤなもんだねェ………」
そんな街の様子を見て、ロビンは呟いた。窓から見えるのは変わらぬ街並み、しかし明らかに活気は数年前と比べて、無い。煙草の煙を燻らせながら、ロビンは傍らの青年に言う。
「………分かってるな、アクバール。俺達は、ここから離れる訳にはいかない」
「はい」
アクバールは頷いた。成長を見越して、少し大きいカソックを纏った彼は、その聖職者としての姿がだいぶ板についてきた。この頃、ようやく両親への未練は無くなり、叔父と共に神を信じて、人助けに身を捧げる事に生き甲斐を感じる様になっていた。…………だがしかし、未だその表情に笑顔は戻らない。人助けをするに当たり、笑おうと努力はしているものの、どうもぎこちない。笑い方を忘れてしまったのかもしれない、とアクバールはそう思っていた。だから、笑い方を思い出そうと、日々自分の表情筋と戦っている。
近頃、教会を訪れるのは貧しい人々ばかりになっている。勿論、ここに残れば教会の経営も厳しくなる。それでもロビンは、アクバールは、彼らを見捨てる訳にはいかなかった。聖職者たるもの、如何なる時も弱き者に手を差し伸べ助くるべき、というのがロビンの考えであり、またアクバールの信条であった。
「……“風向きを気にすれば種は蒔けない。雲行きを気にすれば刈り入れはできない”………行くか、今日も」
聖書の一節を呟き、ロビンは窓から離れた。その後にアクバールは続く。
最近の日課。この廃れ行く街で、救いの手を待つ人々への奉仕。食糧や薬を配り、怪我した者には治療を施す。二人とも、簡単な応急処置くらいは心得ていた。………だがしかし、それで苦しむ者が全員救える訳ではない。これが根本的な解決にならないのは、ロビンもアクバールも、痛い程分かっていた。だが、何もせずにいる訳にもいかない。出来る限りの事を。一介の神父に過ぎない彼らには、どう足掻けどその程度の事しか出来ない。その他に出来るのは、ただ神に祈る事のみだった。神に仕える者として、彼らが少しでも、幸福に生きられるように、ただ祈るのみだった。
外に出ると、不穏な風がアクバールの頬を撫でた。この、妙な雰囲気が気持ち悪くて仕方なかった。両親を失った時の様な喪失感が降りかかる。あの、街が栄えていた頃に戻りたかった。どうして、こんなに世界は変わりやすいのだろう。そんな憤りの様な苛立ちが、アクバールの中を駆け抜ける。
だが、たった15歳の青年に出来る事など限られている。ただこうして、ロビンと共に僅かな人々に手を差し伸べる以外に、今、自分に出来る事はない。それがどうしても悔しい。自分への苛立ち。そして、こんな世の中への苛立ち。それらがますます、アクバールから笑顔を遠ざけていた。
「何ボケッとしてんだ、ほら、行くぞ」
食料品の入った袋を手に、前に立つロビンが言った。アクバールは医療品類を手に、歩き出したロビンの後を追う。
彼の世界に光は差さない。かつてあれ程明るかったロビンの顔からも、いつしか光は消えていた。
*****
「………これで大丈夫ですよ。傷は出来るだけ衛生に。貴方達に神の祝福がありますように。……それでは、お元気で」
ありがとうございます、とそう言う幼い息子連れの母親に会釈をし、アクバールはその場を去る。
ロビンとは別行動をしている。その方が効率が良いからだ。街で迷う事はない。指定の時間に、指定の場所で集合する予定だった。
アクバールは手持ちの医療品と食料品を見る。両方共残り少ない。後何人の願いに応えられるか。
辺りを見回すと、ほとんど人気がない。人がいなくなれば、仕事はなくなる。仕事がなくなれば、稼ぎもなくなる。新市街や、新市街に近い旧市街北部には仕事がある。しかし旧市街での仕事は限られているし、新市街にはそれなりに裕福な人間しか住めない。旧市街から新市街へ入るには少しばかり苦労する。そんな訳で、必然的に旧市街には貧しい者達が残る。南部へ近付くにつれて、この廃れぶりは酷くなる。多くあった工場は半数以上が廃墟と化している。そこは盗人やら無法者が住んで、近付くのは危険になっている。南部だけではない。今アクバールがいるここも、安全だとはとても言い切れない。
アクバールは足早に静かな街の中を進む。効率が良いと言えど、やはり一人で行動するのは怖い。アクバールはまだ成長過程で背の高い方ではないし、体格も良くはない。襲われたら逃げる他ない、しかし逃げられる保証もどこにもない。
「…………叔父さんも無事だと良いけど」
危険なのは自分ばかりではないのだと、そう思い直す。しかし、ロビンはアクバールに比べて体格はいいし、何よりアクバールが幼い頃恐れていた容姿がある。それのお陰であまり他者を寄せ付けないのではないかな、とそうも思った。…だがそれでは慈善活動に支障をきたすのではないか、とそう考えて不安になった。
と、不意に目の前に複数の気配を感じた。俯いて歩いていたアクバールは足を止め、顔を上げた。見れば、大柄な男達が、怖い顔をして立っていた。嫌な予感がした矢先、真ん中に立つ男が言った。
「………おい、手持ちのモン全部寄越せ」
「…………頼み方ってものがあるだろう、君達」
緊張しながらも、アクバールはそう応えた。男達は体は大きいが、よく見れば痩せている。彼らも貧しい身なのだろう。中にはこうして、皆に配るべきものを強奪して来る輩がいる。アクバールが恐れていたのは、彼らのような存在だった。
「ゴチャゴチャうるせェ、全部だ、全部寄越せ」
「全部は渡せない」
「お前の意見なんか聞いてねェよ!痛い目見たいか!」
「…………!」
アクバールは持ち物を抱き締め、後ずさった。恐怖に負けて、ここで渡すわけには行かない。
これらは少ない献金と、アクバールとロビンが新市街で働いて得た金で買ったものだ。…………こんな、輩に。
「……人数分なら渡せる。それで勘弁してくれ」
「…………聞いてなかったのか?全部寄越せって言ってんだろ」
「…………っ」
話は通じない様だ。ならば、逃げるのみ。と、そう思った直後背後から羽交い締めにされた。
「!…………うわっ!離せ!」
「へへっ、大人しく渡さねェ奴が悪いんだよ」
落ちた食料品と医療品の袋を、男が拾い上げる。
「返せ!お前達に渡すものなんかない!」
「…………あぁ?」
ヤケになって叫んだアクバールを、男がギロリと睨みつけた。あ、ヤバい、と思った時には遅かった。頰に衝撃が来て、地面に叩きつけられた。
「うっ!」
ひ弱な青年は、それだけで動けなくなる。痛みと恐怖で、体が強張ってしまった。
「………俺達だってなぁ…………その日その日を暮らすのに苦労してんだよ。これは、そういう奴の為に用意してんだろ?なら俺達が貰っても文句ねェだろ‼︎」
「!」
腹を蹴られた。息が詰まり、吐き気が込み上げてきて、吐いた。男の怒りは収まらない。他の男達も一緒になって、アクバールを痛めつけ始める。殺される、とそう思った時だった。
「おい、何やってる」
「!」
アクバールの耳に、聞き慣れた声が飛び込んで来た。男達の攻撃が止む。揺らぐ視界に移ったのは、仁王立ちするロビンの姿だった。
「…………あぁ?何だお前」
「こいつも神父みたいだぜ」
男達の注目がロビンに集まる。ロビンはアクバールが今まで見たことのない様な顔をしていた。感じたのは、恐怖。幼い頃感じていたそれとは違う。
「丁度良かった、おい、お前もそれ全部」
「失せろ」
「なっ……」
「そいつァ俺のガキだ。…………それは持って行っていいからさっさと失せろ」
「………叔父さん……………」
サングラスの奥のオッドアイが、鋭い光を放つ。それに射竦められて、男達はじりじりと後ずさる。
「なっ………何だよ」
「あいつヤベェって」
「ちっ、仕方ねェ、ずらかるぞ!」
荷物を手に、バタバタと去って行く男達。残されたアクバールに、ロビンが近寄る。
「大丈夫か」
「…………なんとか………痛っ」
「全く、無茶しやがって。あーあ、酷いな」
いつもの様な気怠げな雰囲気で、ロビンはアクバールについた砂を払った。
「…………ごめんなさい、奪られてしまって」
「いいんだよ。お前が無事なだけマシだ。…………あいつらだって必死なんだ」
その言葉に、アクバールは唇を噛んだ。
「………でも、あんな奴ら」
「“敵を愛しなさい”、だ。知ってるだろ?この言葉」
「……………そんなの無理に決まってる」
「………うーん、まぁ、でも俺だって大事な甥っ子が傷付けられたら怒る」
と、そう言ってロビンは笑う。
「でも、憎むのは違う。哀れな人々に祝福を。人生に幸あれ。アーメン」
「…………」
何で彼らなんかに祈りなど捧げるのだろう、とそんな事を思ったが、昔からよくロビンの事は理解出来ない。
「……叔父さんって、昔何かやってたんですか?」
「うん?」
「…………いや、その、あの男達が逃げてったから」
「ああ?うん、いや、ありゃ言ってみりゃハッタリだぜ」
「………えっ」
「いやー、襲って来たらどうしようかって内心怖かった!アッハハハ、天にゃ見放されてねェなぁ、俺」
勿論お前もな、と付け足して、ロビンはアクバールの頭をくしゃくしゃと撫でた。その時、アクバールはロビンの笑顔を久し振りに見た様な気がした。
「さてさて、手当てするから一旦帰るか。ごめんな。やっぱ別々に行動するのは駄目だな」
「……いいえ、ボクのせいです。僕が……もっと強ければ」
「そんな事はない。“剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする”。“剣を取るものは剣で滅びる”。………暴力に頼らないのが俺達だ。だが無抵抗でいるのは具合が悪い。なら、どうすればいいと思う?」
「…………ボクには分かりません」
「………そうか。そうだな、帰ってから話そう」
と、ロビンはアクバールの手を取って立たせる。体のあちこちが痛んだ。だが、我慢出来ない程ではない。…………きっと、あいつらは他の貧しい人々にもあんな手を使っているのだ。そうだとしたら、自分はへこたれてなどいられない。負ける訳にはいかないのだ。
「……悔しそうだな」
「…………どうしてボク達はこんなに無力なんでしょう」
アクバールはそんな問いを、ロビンへ投げ掛けた。
「………そうさなぁ」
ロビンは考える。考えて、答える。
「…………支え合って生きるのが人間だ。一人ではとても生きられない。そう言う風に出来てるのさ。………今は、世界がそれを忘れちまってるんだ」
「…それを思い出させれば、良い世の中になるんですか?」
アクバールの言葉に、ロビンは目を見開くと、微笑んだ。
「…………少なくとも、俺はそう信じてる」
世の中は難しい。周りを顧みず、一人突き進むのは簡単である。だが他と協力するとなると難しい。………しかしその一方で、人は支え無しには生きられない。矛盾している。矛盾しているのだ。だから、辛いのだ。
ずきりと、胸が痛んだ。怪我のせいではない。そんなものよりも、もっと、深く突き刺さる様な痛みだった。