第1節 届かぬもの
少年はある時までは、ごく普通の、幸せな家庭に育っていた。両親の元、たった一人の息子として、愛されて育った。その頃彼は、世の闇というものを知らなかった。世は希望に満ち溢れ、光が支配している。そう信じていた。
だがその“幻想”は、ある日突然崩れ去った。
少年にとっての闇は、家族を失った事だった。
それは幸せの崩落。突然の不幸。両親は出掛け先で、爆弾テロに巻き込まれて死んだ。少年は独りになった。世を呪った。何故、こんな仕打ちをされなければならないのか。自分が、一体何をしたのだろう。
三日三晩泣いて、涙は尽きた。少年が6歳の時の事だった。独りぼっちの少年は、叔父の家に引き取られた。叔父は神父だった。家は教会だった。
ダンテリオンの隣町、アザリアに教会はあった。その頃、街の北部は単なる森であった。その南にある街は栄え、教会はその中心地に位置していた。
「今日からここがお前の家だよ、アクバール。好きにしてくれ。遠慮する事はない」
教会に着いてすぐ、叔父は少年にそう言った。彼の名はロビン・アンダーソン。長身で当時歳は35歳、サングラスの奥の目は、右目が茶色、左目は白と不思議な目をしていた。少年、アクバールは後にそれがオッドアイというものである事を知るが、その頃の幼い心には不思議で仕方がなかった。だが、聞くのは少し怖かった。
────そもそも、アクバールは教会に来てしばらく、口がきけなかった。両親を亡くしたショックで、と言うよりも彼に対する緊張が大きかった。
ロビンとは以前から面識は少々あったものの、少し離れていても漂ってくる煙草臭さと、やはりそのサングラスの奥の瞳が気になって、近寄る事が出来なかった。
教会の礼拝は、早朝と晩、二度ある。アクバールは晩の礼拝が好きだった。暗闇の中に灯る蝋燭の幻想的な光の中、ロビンの穏やかで、優しい声が響く。それをアクバールは、いつも礼拝堂の隅で聞いていた。
アクバールは神の事を覚えた。そして、己の運命について神へ怒る事を覚えた。………自分は神に愛されてなど。
ロビンの元にいるよりも、両親の元にいた方が幸せだったと感じていた彼は、そう思っていた。
「…………おい、アクバール。起きろ」
「………!」
ハッ、とアクバールが目を覚ましたのはベッドの上だった。早朝、冬の為まだ日の登っていない頃。困り顔のロビンが、仰向けのアクバールの顔を覗き込んでいた。
アクバールは体を起こすと、眠い目を擦り、寝起きの低い声で言った。
「………おはようございます、叔父さん」
「おはようさん。朝飯食ったら礼拝の準備するから手伝え」
「……………はい」
それだけ言ってロビンはアクバールの部屋を出て行った。小さな教会だ、ここを切り盛りしているのはロビンと、そしてアクバールだけである。
既にここへやって来て一ヶ月が経った。いい加減ロビンには少しは慣れたものだが、やはりまだ完全には打ち解けられない。ロビンはそれなりに良くはしてくれるのだが、そもそもアクバールに、彼へ歩み寄る気が無かったのだ。
朝食を簡単に済ませ、カソックへと着替えたアクバールは礼拝堂へと出る。そこには大きなクリスマスツリーが出されていた。そして、ようやくアクバールは今日が何の日かを思い出す。
「…………あ」
「やっと来たか、チビ。そら」
と、ロビンが歩み寄って来て何かをアクバールに被せた。フワフワしている。取ってみると、サンタ帽の様だ。
「………何ですかこれ」
「あれ?初めてか、クリスマス」
「教会で、っていうなら初めてですけど……」
小さな声で答えるアクバールに、ロビンはうんうんと頷く。
「そうかそうか。ま、流石にサンタは知ってるよな。お前は今日それで献金袋を回せ」
「えっ」
「別になんてこと無いだろ」
「………えっ、でもっ」
「何でだよ、似合ってるぞそれ」
「…………お、叔父さんは」
「こんな中年のおっさんがやるより可愛いチビがやってる方がいいに決まってるだろ」
帽子一つしか無いし、とロビンは煙草を咥えた口を尖らせた。
「じゃ、それはそれとして飾り付け手伝ってくれよ、毎年俺一人でやってんだけど大変でさ。高いトコは俺がやるからお前は低いトコ頼んだ」
と、スタスタとロビンはツリーの方へ歩いて行ってしまった。アクバールは帽子を持ってしばらく唖然としていた。本当に彼は勝手である。だが、悪気が無いのはアクバールにも分かっていた。手元の帽子を見て、アクバールは少し考えてそれを被ると、クリスマスツリーの元へ駆けて行った。
*****
朝の礼拝が済んで。今日はクリスマスというだけあって、人がいつもより多かった様に思えた。
自分の事については、喜んで貰えた様だった。いつもとは違って、献金をする人達の表情が明るく見えた気がする。
「さて、サンタ作戦成功だな。夜も頼むぜ」
と、帰って行く客を見送っていたアクバールの肩を、ロビンがぽんと叩いた。その顔を見て、アクバールはやや不服そうな顔で言う。
「………お金の為にやってる訳じゃありません」
「おうっ、何だよもう、可愛げのねェ奴だなー。本当に6歳かお前」
まぁ、お前の言うことも最もだ、とロビンは笑う。
「てかお前、もうちょっと笑え。むっつりするな」
「…………」
黙ってそっぽを向くアクバール。ロビンは苦笑してしゃがみ、アクバールと目線を合わせる。
「まったく。兄貴らが死ぬ前はもっと笑ってたじゃねェか」
それを聞いて、アクバールは眉間にしわを寄せた。
「………どうして、どうして叔父さんはそんな笑ってられるんですか」
「………」
「叔父さんだって、家族を失ったのは同じなのに」
「…………そうだなァ」
ロビンは少し考えて、言う。
「アクバール、世界ってのは広いんだぜ」
「……?」
「だからな、たっくさんの人間がいる。ほら、毎日礼拝にもたくさん人が来るだろ?」
ロビンが何を言いたいのか、アクバールには分からなかった。そんな当たり前の事、言われなくとも………。
と、そんな思いを表情から読み取ったのか、ロビンはうーんと下を向く。
「んー、まぁ、要するに、アレだ。いつかお前の両親に変わる存在が現れる。………俺じゃあ少々力不足の様だが」
「…………叔父さん」
「まぁそれでもいいさ!………いいか、人はいつまでも後ろ向いてちゃいけないんだ。後には戻れない。前へ進め。一人じゃ無理なら俺が助けてやる。いや、俺じゃなくても誰かが助けてくれるさ」
にこ、とロビンは笑う。
「でもなー、アクバール。まずそれにはお前自身の気持ちが大事なんだ。前へ進もうっていう、気持ちが。お前にその気がないと、いくら俺達が手を差し伸べても無駄になっちまう」
「…………」
「それにな、俺達には神様がついてる。信じていれば救われる。『求めなさい、そうすれば与えられる』だ。誰もパンを欲しがる子供に小石を与えたりしないさ」
ハハハと笑うロビン。アクバールは笑えない。
「…………なぁアクバール、笑わないと幸せも寄って来ないぞ?俺達は人に幸せを分ける役割もあるんだ。弱き者の側に立ち、弱き者に手を差し伸べる。それだのに、俺達がそんな不幸の真っ只中にいる様な顔してらんないだろ?」
「…分ける余裕なんて…無いです」
「ハハハ。そうか。まぁ、今はそうでもいつかはお前も与える側になるのさ」
「…………どうしてそんな事」
「幸せを与える人間になる方が、兄貴も義姉さんも喜ぶに決まってる」
と、ロビンはそう言うとわしわしとアクバールの頭を撫で回した。ボサッとした髪を、アクバールはむすりとして手櫛で直した。でも、不思議とあまり悪い気はしなかった。
「さ、今日は忙しくなるぞー、昼は子供達が来るからな」
「…………どうして…ですか」
「ん?どうしてって、クリスマスのイベントだよ。無料でお菓子を出したり、皆んなで歌ったり。楽しいぞ?お前と同じくらいの子がたくさん来る」
「…………」
「何だ、浮かない顔だな」
「……ボクは仕事が」
「いいんだよ、こんな日くらい」
今朝はちゃんと手伝わされたのに、と口には出さずともアクバールはそう文句を呟いた。
「子供は遊んでろ。俺はそれを見てるだけで十分だ」
彼の言う事は、時々理解出来なかった。それは、単にアクバールが幼いせいなのか、それともロビンの言葉がおかしいのか。幼い少年にはそれすらも測りかねる。
何にせよ、アクバールは他の子供達と遊ぶ気は無かった。家族を失い一ヶ月が経ったが、それでもまだ傷は癒えない。未だにあの頃の夢を見る。あの頃に戻りたいと思う。どうしても、現実とそれを比べてしまう。変わってしまった現実に、まだ少年は馴染めないでいる。
時折考えてしまう。どうして、今は自分は彼といるのだろうと。しばしば、どうしようもなく不思議に思えてしまう。ふわふわとした現実は、自分にまとわりついている。もう、両親はいないのに……未だ、もしかしたら自分を迎えに来るのではないかと考えて、そしてそんな訳は無いと現実を再認識すると今度は堪らなく悲しくなる。だが、それでも涙は出ないのだ。自分はこれから一生泣く事など無いのではないかとさえ思っていた。
ロビンはそういう、アクバールの壊れた心にちゃんと気付いていた。だからこそ彼は、近づき過ぎず、また突き放す事もなく、聖職者としてアクバールの失われた笑顔を取り戻してやりたかった。……叔父として、というのも無いでも無いが。
「さ、てな訳でとりあえずそれの準備するぞ」
「え」
「私服に着替えて、出すお菓子買いに行くぞ。急いで支度しろ!あまり時間無いからな!」
結局働かされるのか!とアクバールは思ったが、その一方で何故だか安心もしていた。そうしている方が、まだ現実に足がついている感じがする。………それでもやはり、完全にはふわふわとした感じは取れないのだが。
そんな事を考えながら、アクバールは奥へ着替えに戻るロビンの後を追った。
*****
あっという間に1日は去った。自室に戻ったアクバールは、寝巻きに着替え、ベッドへ倒れ込んだ。
いつもより疲れた。こんな仕事を、ロビンは今まで一人でやっていたのか。そんな事に気付いた。
結局、昼間、街の子供達が遊びに来た時も、アクバールはその輪には入れなかった。同時に悲しくなった。何が悲しかったのかははっきりとは分からない。だが、恐らくは彼らの中に入れない自分の事を嘆いていたのだ。自分は彼らとは違う。…………以前の自分なら、何の躊躇いも無くあの輪に入って行っただろうに。あの世界は眩し過ぎる。入ってしまえば、身も心も焦がされてしまう。そんな気がした。
何故こんな世界に生まれて来たのだろうと、堪らなく苦しくなる。夜になるとそうだ。暗闇が心を包み込んで、深淵へと誘ってしまう。昼間にはない不安感が、毎晩襲い掛かってくる。だから、夜は嫌いだった。そんな夜がある世界が嫌いだった。
こんな事ならさっさと死んでしまおうか。そうすれば、大好きな両親の元へ行けるだろう。自分は何も悪い事はしていない。一生懸命生きている。だから、死んでも地獄に落ちることは無いだろう、と、そんな事を考えた。だが、不意にロビンの顔が脳裏に浮かぶ。…………悲しいのは、きっと、自分一人ではないのだ。これ以上迷惑は掛けられない。
第一、少年は自ら死ぬ術を知らない。恐れる事なく生を絶てる術を知らない。死のうか、と思う一方で死ぬのが怖いという気持ちもある。………それが普通だ。何もおかしい事ではない。
また、一日が過ぎる。特別な日も、普通の日も、変わらず過ぎていく。愛しい過去は容赦なく遠ざかって行く。時間の波に置いて行かれる。何の為に生きているのかも、少年には分からない。
分からない、分からない。心がギュッと締め付けられる。頭に浮かぶのは、ロビンではなく両親。彼らに会いたい。会いたくて仕方ない。だが、会えない。
(…………おやすみなさい、父さん、母さん)
せめて存在を側に感じたくて、心の中でそう言った。最近は毎晩そうしている。目を瞑ってそうしてみると、少し気持ちが楽になるのだった。
そして疲れ切った少年は、あっという間に夢の世界へ落ちて行った。