尻馬に乗るのも命懸け
朝日を背に浴びた長殿の影は、ゆっくりとあたしたちのほうへと歩み寄ってきた。逆光で長殿の顔ははっきりとは見えない。反対に向こうからは、あたしたちの表情はしっかりと見えているはず。眩しいフリをして目を瞬いても、涙に濡れた下睫毛を隠しきることはできない。
「ここに残る決心をしてくださったのですね?」
「いえ――」
残留をあたかも決定事項のように長殿は語る。反論しようとする努力も虚しく、あたしの言葉は遮られ、別の意味へと変えられてしまう。
「隠さずとも良いのです。あなたの心根の美しさは私にはよくわかっていますよ。あなたを心の支えとする《咎人》たちを置いてここを去るなんて、心優しいあなたにできるはずがありません」
優しさなんかじゃない……。ただの弱さ、逃げだ。
自分の望みは捨てられないくせに、その決断が他人を傷つけるのが怖い。「行っていいよ」って向こうから許してくれるのを期待して、自分からは告げようとしなかっただけ。
「……」
そしてこの期に及んでもなお、「はい」とも「いいえ」とも答えられないあたしは情けない卑怯者だ。
ルルリリがあたしの服を握り締める力が強くなる。さっきまでよりいっそう激しく、頭をぐりぐりと押しつけてくる。
ガルガウィも、ほら、寂しそうな、それでいてどこか呆れたような目であたしを見てる。
「そろそろ朝食の支度もできる頃合いですよ。朝露に濡れないうちに、中へお入りなさい」
◇◆◇◆◇
ソネミとルルリリと、三人で朝食を取る。ガルガウィは外で食べるほうがいいらしい。
ひと息いれたら、日課と当番の時間だ。今日は珍しくあたしにも風呂掃除が回ってきたんで頑張った。一緒に当番になった《咎人》の女の子が、全力でゴシゴシと浴槽をこするあたしに引き気味だった。
そうやってなにも考えずに思い切り身体を動かすと、少しだけ気が晴れた。ほんの少し気力も湧いてくる。
こうなったら踏ん切りをつけて、黙って出て行っちゃおうかな、なんて考える。そうでもしないと永遠に出発できない気がする。ルルリリとソネミには悪いけど……ぐだぐだと悩む姿は見せているし、きっとわかってくれると思うしかない。
食堂で勝手にお茶を入れて飲んでいると、ジヌラがやってきて隣に腰かけた。明るい声で話しかけてくる。
「残るって決めたらしいな?」
「あ、う、うん。まあ……」
肯定も否定もせずに、相手の解釈に任せるような答え方をした。ジヌラは長殿の味方だから、本心を悟られるのはまずい。かといって明言すると逆に疑われちゃいそうだからね。残る方向だけど、まだ気持ち的には迷ってると思われるくらいでちょうどいい。
「魔道馬の修理が完了したぞ」
「え? 魔道馬って……あの馬鹿兄弟の?」
「そうだ、馬鹿の置き土産だ」
お茶のお替わりを注ぎ、ついでにジヌラにも淹れてやる。二人して茶碗を手に持ち、窓の外を眺めて「ほーっ」と息を吐く。縁側でひなたぼっこする老夫婦かっての! あ、夫婦じゃなくて爺二人か。
「砲撃を食らって右前足が折れたんだが、どうにか直したよ。整備不良も徹底的に調節しなおして、もう万全さ」
「でも他人の所有の魔道馬を勝手に使うのはまずいんじゃなかった?」
「それが驚いたことにちゃんとゴラで所有者登録がされてたんだよ。盗品じゃなかったんだな。とはいえやつらは盗賊として討伐されちまったし、やつらの荷物は全部退治した里の戦利品――っつっても咎人の聖域の名は出せないから俺や他の幹部の名義に書き換えたってわけ」
幹部って《賓》だけかと思ったら、《討伐者》もいるらしい。ジヌラも準幹部らしいし、あたしもすぐに扱いになるだろうということだ。あんまり嬉しくない気が……ってか、そうなる前に早いところ逃げださなきゃ……。
庭に洗濯物のカゴを抱えたソネミの姿が見えた。その横にガルガウィが立ち、仲睦まじくお喋りをしている。ガルガウィが犬の頭じゃなけりゃ、美男美女のお似合いのカップルってとこなんだけどな。ゴールデンレトリバーって犬としちゃイケメンだけどさ、やっぱり人間じゃないからね。
「――一緒に行こうや」
「あ、うん。そうだね……」
いつの間にかルルリリが混じっていた。バスケのパス練習みたいな感じで、丸っこい塊が二人の間を弧を描きながら行ったり来たりしている。
なんだか三人で仲良し親子みたい。あたし抜きで、いいバランスじゃん?
「聞いてるか? チーロさんよ?」
「あ、ごめん……。ちょっとぼーっとしてた」
すっかり庭の様子に気を取られて、ジヌラの話を右から左へ聞き流していた。慌てて謝ってちゃんと向き直る。
「土産を買ってきてやることもできるしよ」
「え? あ、土産って、ジヌラ、どっか行くの?」
「はあ……。だからさ魔道馬で買い出しに行くからさ、あんたも一緒に行かないかってんだよ」
ここの生活のペースに巻き込まれるのは絶対によくないよね? そう思って断りかけたんだけど……ちょっと待って? これって、もしかしたらチャンスかも?
「それって何人くらいで行くの? どこまで行くの?」
急に食いつきがよくなったあたしに、ジヌラが一瞬たじろぐのがわかった。落ち着け、あたし。慌てるな!
「魔道馬があるから中央まで足を伸ばしてもいいんだが、それだとあんたの外出許可が下りないかもしれないからな……」
ちっ! 残念。中央ならラッキーと思ったのに。買い物するフリして姿をくらますとか、管理局に駆け込むとかできたのに。
まあ、しかたないわ。他の場所でも逃げ出すチャンスはあるだろうし、それが駄目でも、最悪、中央に行かせてもらえるだけの信用を得るまで頑張るって手も残ってる。
「あと二人くらい声をかけるから、行くのは明日、いや明後日の午後だな。場所はここから真西にある職人の集落だ。中央で売れる商品を作ってる連中の集落だから、いい物が揃ってるぜ」
「わかった。個人的な買い物ができるんなら、ソネミたちに欲しい物はないか訊いとくわ」
ジヌラは、あからさまにほっとした顔をした。
◇◆◇◆◇
とりあえずの脱走計画が決まったからか、夜のお酒は実に美味しく飲むことができた。気が緩んだわけじゃないのよ? これも相手の油断を誘う演技なんだから……。
少量のアルコールのお陰でぐっすり眠れたんで、目覚めも早い。昨日よりも早いくらいだし、二度寝しようかな? なんて考えていたら、かちゃりとドアを開ける小さな音がして、ソネミが顔を覗かせた。
「チーロさん……?」
ソネミは小さく開けた隙間からするりと中に滑り込んできた。昨日はルルリリの夜這いで、今日は朝っぱらからソネミさんの誘惑……なんてわけはない。
「どうしたの、ソネミ? 男の部屋に入ってきちゃマズイでしょ?」
「あ、あの……ガルガウィが話があるそうで……」
「ん? あ、そうなの? 今すぐに?」
どうせ起きたら食堂でうろうろしてるんだから、庭先から声をかければいいのに? 妙だな、と思ったけど、ソネミはなんだかすごく深刻な顔をしている。嘘をつく理由もなさそうだけど……?
まあ、行けばわかるかと部屋を出ようとしたところで、ソネミが慌てたように付け足した。
「その、着替えていったほうが……」
そもそも乙女なあたしがパジャマで外をうろつくなんてありえな……くなかったか。パジャマっていったって着古したスウェットだし、急ぎの用なら別にこのままで全然構わないんだけど?
でもソネミがなんだか必死の形相で頼むんで、しかたなくこっちに来て買い揃えた服に着替えた。脱いだそばからソネミがパジャマを畳む。
「さ、早く行ってください」
部屋を出てもソネミはついてこなかった。ベッドメイキングもしてくれるんだろうか? ま、いっか。ガルガウィを待たせてるのも気になるんで、急いで下に行き、テラスから庭へと出た。
「チーロさん、こちらですだ」
ガルガウィはいつもとは違って納屋の脇――食堂の中からは見えない位置に大きな身体を隠すように立っていた。茶色い毛並みのワンコの手がちょいちょいと手招きしている。
「ん? 用事ってなに?」
様子が変だな、と思いつつ、黙って歩き出すガルガウィについて納屋の裏手に回る。里を囲う塀との隙間の狭苦しい場所だ。
建物の側からはちょうど死角になった部分の塀には小さな扉がついている。裏口だろうか? 苔生して緑色になった扉は、薄く開いていなければ塀と一体化して絶対に気がつきそうにない。ガルガウィは立ち止まらずにその扉から外へと出て行く。
「ちょっと……出ちゃって大丈夫なの?」
小声で訊きながらあとを追って塀の外――里の外へと踏み出して驚いた。
「これって魔道馬……じゃん?」
「里を襲ってきたやつらから取り上げたものですだ。オラが修理したんでちゃんと動きますで、これに乗ってお逃げくだせえ」
魔道馬がそうそう転がってるわけもないし、ゴラゾラの魔道馬で間違いないんだろう。ってか、ガルガウィが修理したんだ? すごいじゃん?
でも気持ちはありがたいんだけど……。ガルガウィたちを巻き込まないように、こっそりといなくなる予定だったんだけどな……。
「チーロさん、これ、荷物です」
「あ、ソネミさん、ちょっと貸してください」
いつの間にか出てきたソネミが差し出すあたしのリュックをガルガウィが横から奪い取る。勝手に開けて取り出したのは……スマホ?
「ちょっとちょっと、なにをしようっての?」
「魔道馬に食糧が積んであります。チーロさんが持ってた分より少ないですが、魔道馬なら中央まではすぐですから」
ソネミが必死の形相でぐいぐいとリュックを押しつける。思わず受け取っちゃった……。
「こんな風に逃げ出す必要なんて……。正直いうと、明日、買い出しに外に出るから――」
「駄目ですだ。行ったら殺されますだ」
「へっ?」
「買い出しに行くってぇのは、長様に素直に従わん《討伐者》を外で始末するって意味ですだ」
えっ……嘘?
どうしてだろう? 声が出ない。瞬きが止まらない……頬が、唇が痙攣する……。
「だから早く逃げてください――」
「で、でも……」
ソネミはあたしの私物を手際よく全部まとめてくれたみたいだ。でも短剣と魔道銃は取り上げられたままだ。ただでさえ戦闘力が低いのに、追われてる身となればなおさら不安……。でもガルガウィの言葉を信じるなら、命あっての物種、まずは逃げるのが先決だろうか?
「チーロー、チーロー」
どこからかルルリリの声が聞こえた。頭の上、塀を越えて飛んできたルルリリは、両手に長い物をぶら下げている。魔道銃と短剣だ。
「チーロー、これー」
「これって……ルルリリ、取ってきてくれたの!?」
重かったでしょうに……。幹部たちの誰かの部屋にしまわれてたんじゃ……? どうやって持ち出したの? 危険を冒して忍び込んだの? まともに喋ってくれないルルリリがもどかしい……。
「チーロさん、さ、早く!」
里の中のほうが急に騒がしくなった。ドタドタと階段を走るような音。窓をガタガタと開け放す音。
「賊だ!!」
「外に逃げたぞ!!」
中は混乱の極みって感じ。でもこんな塀のすぐ外にいれば、見つかるのは時間の問題。
「さ、気づかれないうちに、さっさと行くだ!」
「で、でも……あんたたちは……?」
「わたしたちは《咎人》ですから。だから、ここには絶対に傷つけられることはありません。大丈夫ですから」
「チーロー……」
たしかに咎人の聖域はを守ることを信条にしている。でもだからといって絶対なんていい切れないんじゃないの……?
大丈夫といいつつ、ソネミの顔は青褪め表情も僅かに引き攣っている。泣き虫のルルリリが目に涙をいっぱいに溜めながらも、あたしに抱きつこうともせずに堪えている……。
「ええい! 二人のことは、オラに任しておくだ!!」
ガルガウィが怒鳴ったと思ったら、いきなり世界がひっくり返った。
あ、足が……足が浮いてる!? えっ?! ど、どうなってる……嘘、ガルガウィに抱っこされてるの、あたし?
ジタバタする暇もなく、あっという間に魔道馬の背中に乗せられる。嘘、高い、高い……マジ怖い……。
「中央までの道を設定してありますだ。チーロさんを所有者に変えましたんで、あとは、ご自分で――」
魔道馬の手綱というか金属っぽい持ち手を握り締めるのにあたしは精一杯。なのでガルガウィはスマホをあたしのリュックに無理矢理ねじ込んだ。
「さ、行くだ!」
「チーロさん、ありがとう! 気をつけて!」
「チーロー……!」
「みんな……、あ――」
魔道馬の中で機械が動き出すのが感じられた。途端に首が持ってかれそうな衝撃と、ジェットコースターも顔負けの急加速。
「ぎょええー!!」
助けてもらった礼もまともにいえず、感動の別れはあたしの間抜けな悲鳴で終わった……。




